内容要旨 | | 南大洋は,Martin(1990)によって「鉄仮説」が提唱されて以来,過去の海洋表層における生物生産量の変動と大気CO2濃度の変化(例えば,Barnola et al.,1987)との関係を探る上で極めて重要な海域である.しかし,これまでに氷期・間氷期の気候変動にともなう南大洋の生物生産量変動を取り扱った研究は,Mortlock et al.(1991)やKumar et al.(1995)など数例であり,特に南大洋太平洋域における研究例は皆無である.また,近年その有用性が明らかとなってきている有機地球化学的手法を南大洋の堆積物に応用し,時系列的に海洋環境の復元を行った例もなく,本研究が初めての試みである. また,最終間氷期最暖期(Eemian:11万5千年-12万5千年前)は,氷期・間氷期の気候変動サイクルの中では現在を含む後氷期(完新世)に対応する.Eemianにおける気候状態は比較的安定していたと考えられていた(例えば,CLIMAP,1984)が,最近では短い周期で寒暖を繰り返していた可能性が指摘されている(Field et al.,1994;Cortijo et al.,1994;Maslin et al.,1996).しかし,最終間氷期の気候状態を考察するための古気候・古海洋データは極めて少ない.従来の地球化学的手法に加え有機地球化学的手法を海底堆積物に応用することによって,約2万年前の最終氷期から後氷期への移行(温暖化)期における古海洋変動像が徐々に明らかにされつつある(Prahl et al.,1989;Ohkouchi,1995).これに対し,間氷期から氷期への移行(寒冷化)期に海洋,大気を含めた気候システムがどのように変動していたのかはほとんど解明されていない.そこで,本論文における研究目的を次の2点とした. (1)南大洋・タスマン海台から採取された3本の深海底コアの岩相層序,酸素・炭素同位体比層序を確立し,後期更新世における南大洋の海洋環境変動を復元する. (2)コア堆積物から有機化合物を抽出・定量し,その時系列的変動パターンを明らかにすることによって,氷期から間氷期への2つの移行期(Termination IとII)における南大洋の古気候・古海洋変動を解明する. 本論文では,東京大学海洋研究所の白鳳丸によるKH94-4次航海において,南大洋・タスマン海台の異なる水深から採取された3本の深海底コアTSP-1PC(47°35’S,147°29’E,水深1219m),TSP-2PC(48°08’S,146°53’E,水深2321m),TSP-4PC(48°33’S,146°22’E,水深2946m)を用い,同位体地球化学的及び有機地球化学的な古環境解析を行った.各コアはいずれも白色から淡黄色・淡灰色を呈する有孔虫-ナンノ化石軟泥であり,そのほとんどは炭酸カルシウム殼の生物遺骸からなる.酸素・炭素同位体比は,浮游性有孔虫Globigerina bulloides(d’Orbigny)を用い,MAT251質量分析計で測定した.各コアの年代は,得られた酸素同位体比カーブを標準的なSPECMAPカーブ(Imbrie et al.,1984)と対比することによって推定した.TSP-2PCコアについては,石灰質ナンノ化石層序(Okada,1996)及び4層準において測定したAMS-14C年代を合わせて用いた.本論文では,二次的な堆積作用が認められず,連続的かつ整合的に堆積したと判断されるTSP-2PCを中心に解析を行った. 〇海洋表層の酸素・炭素同位体比の変動 各コアの酸素同位体比(18O)カーブはSPECMAPなどの標準的な18Oカーブと酷似し,氷期・間氷期の気候変動が明瞭に認められた.それらの変動には,10万年,4万年,2万3千年,1万9千年の地球軌道要素に起因する変動周期が含まれている.浮游性有孔虫の炭素同位体比(13C)は氷期から間氷期への移行期(氷床融解期)に明瞭な負のシフトを示す.これらの13C変動パターンは赤道太平洋及び大西洋の変化とほぼ一致する.従って,このような氷床融解期における13Cの負のシフトは南大洋を含めたよりグローバルな現象であると考えられる.海洋表層の13Cは生物生産量の変動,大気-海洋系の13Cの変化,湧昇流強度の変化を反映している.しかし,後述するように,植物プランクトン起源のバイオマーカー解析による結果からは,氷床融解期に生産量が顕著に減少した証拠は得られていない.また,栄養塩に富んだ深層水がこの時期に急激に湧昇したと仮定すると,生産量の増大を伴うことが期待されるが,その証拠もない.従って,グローバルな海洋表層に影響を及ぼしうる大気13Cの変化,つまり,大気-海洋系と陸上生態系との間における炭素分配の変化が最も大きな効果を有していると考えられる.よって,氷床融解期には一次的に12Cに富む炭素が陸上から海洋へ供給されていたと解釈される. ○アルケノンを用いた表層水温の復元 アルケノン不飽和度(Uk37’)を用い,過去の海洋表層水温(SST)を復元した(図1).その結果タスマン海台域では,最終氷期には現在に比べて約4℃水温が低下していたことが明らかとなった.また,酸素同位体ステージ6から5e(Eemian)にかけての表層水温の偏差は最大5.2℃に達する.これらの結果は,CLIMAP(1981)によって推定された同海域における氷期・間氷期間の水温変動幅のほぼ2倍である.このような表層水温の変動は,南大洋に顕著に発達している前線構造が,氷期・間氷期の気候変動に伴って,従来考えられてきた以上に南北に大きく移動していた可能性を示唆している.TSP-2PC採取地点は現在の亜熱帯収束線(STC)と南極極前線(APF)の間に位置している.表層水塊の変動を反映していると考えられる浮游性有孔虫の群集組成は,氷期・間氷期を通して亜寒帯種が卓越し,気候温暖期においても亜熱帯種はほとんど産出しない(木元,私信).従って,亜熱帯収束線は完新世及び最終間氷期最暖期においても,コア地点まで南下していなかったと判断される.よって,氷期・間氷期の水温変動はAPFの南北移動によって強く支配されており,現在の表層水温の南北分布に基づくと,氷期には南極前線が5-6°程度北上していたと推定される. 図1.(a)南大洋・タスマン海台から採取された深海底コアTSP-2PC(48°08’S,146°53’E,水深2321m)の浮游性有孔虫の酸素同位体比(18O)変動.奇数は間氷期,偶数は氷期を示す.(b)最終氷期から現在までの酸素同位体比変動とアルケノン不飽和度(Uk37’)から復元した表層水温(SST)の変動.(c)1つ前の氷期・間氷期の気候変動期における酸素同位体比とアルケノン表層水温の変動.MIS:酸素同位体ステージ.〇表層水温変化と氷床量変動とのタイムラグ 最終間氷期(Eemian)の表層水温変動は,南大洋では,最も暖かい時代がおよそ3,000年程度しか続かず,その後急激な寒冷化が生じていたことを示している(図1c).しかも,水温が急激に低下する時期と極域氷床の拡大を反映する酸素同位体比の変化する時期との間には明瞭なタイムラグが存在し,表層水温が先行して低下している.Eemianの堆積速度を一定と仮定すると,そのタイムラグは2,000-3,000年と推定される.従って,南大洋の表層水温はグローバルな気候の寒冷化より数千年先行して低下している.これらの結果は,南大洋における水温低下(寒冷化)がグローバルな寒冷化(氷期の始まり)を引き起こすトリガーとなっていた可能性を示唆している. 〇陸起源及び海洋起源のバイオマーカーのフラックス変動 次に,陸上高等植物起源及び海洋生物起源のバイオマーカー解析に基づく,南大洋における古海洋変動について考察する.陸上高等植物の葉のワックスが起源である炭素数25-35のn-アルカン及び炭素数24-28の脂肪族アルコールは,陸起源のバイオマーカーである.また,海洋表層の生産量指標とされるバイオマーカーとしては,石灰質ナンノプランクトン由来の長鎖アルケノン,渦鞭毛藻由来のダイノステロール,海洋プランクトン由来のプリスタンが挙げられる.堆積物中におけるこれらのバイオマーカーのフラックスを時系列的に見積もることによって,当時の大気循環の状態(循環速度や乾燥の程度)及び海洋表層における生物生産量の変動を復元できる.炭素数25-35のn-アルカン及び炭素数24-28の脂肪族アルコールのフラックスは,一般に氷期に高く間氷期に低い値を示した(図2).また,氷期の末期にそのフラックスは急激に減少している.これらの結果は,大気を経由した陸起源物質の南大洋への供給量が氷期に増大しており,氷期の終焉と共にその供給量は大きく減少したことを示している.これら南大洋における陸起源フラックスを西赤道太平洋の同様のデータ(Ohkouchi,1995)と比較すると,その変動パターンはオーストラリアを挟んで5,000km以上離れているにもかかわらず,良く一致する.そのフラックスは氷床融解期に徐々に減少し,氷床融解期から後氷期への過渡期で極小値をとる.しかし,南大洋のアルカン及びアルコールのフラックスは,西赤道太平洋に比べてそれぞれ5倍と2.5倍である.この結果から,少なくとも上記2地点を含む太平洋域において,最終氷期から後氷期に至る時期での大気循環の変動パターンは一様であり,高緯度域には低緯度域の数倍の陸源物質が供給されていたことが推定される.同様に,海洋起源のバイオマーカー(ダイノステロール,プリスタン,アルケノンなど)のフラックスは,氷期に高く間氷期に低い傾向を示す(図2).これらの結果は,南大洋では氷期に生物生産量が増大していたことを示している. 図2. 1サイクル前の氷期・間氷期の気候変動に伴うそれぞれの古気候・古海洋パラメーターの比較.TSP-2PCコアは南大洋・タスマン海台(48°08’S,146°53’E,水深2321m)から採取された.浮游性有孔虫G.bulloidesの酸素同位体比(18O)は,主にグローバルな気候変動を反映する.アルケノン表層水温(SST)はコア採取海域の水温変動を示す.炭素数25-35のn-alkanesのフラックスは大気循環の状態を反映する.ダイノステロールのフラックスは海洋表層における生物生産量の変動を示唆する.MISは酸素同位体ステージを表し,5dは亜氷期,5eは最終間氷期,6は氷期を示す.〇南大洋における気候変動メカニズム 上述の各古海洋パラメーターの時系列変動から,グローバルな気候変動に対する極域氷床量の変動,表層水温の変化,大気循環,表層海水中の生物活動などのレスポンスの違いを評価することができる.氷期・間氷期の気候変動の完全な1サイクルを評価することができるのは,酸素同位体ステージ6から5にかけての氷期・間氷期サイクルである.図2に示したように,氷期の終わりに大気循環が急速に弱まり,その後グローバルな温暖化に伴って,氷床の融解や表層水温の上昇,生産量の減少などの海洋内部の諸現象が徐々に変化している.そして,最終間氷期最暖期(Eemian)においてそれぞれ極値を示す.これらの結果は,大気と海洋系とのレスポンス速度の違いを反映している.その後の気候が寒冷化する時期には,まず表層水温が急激に低下し,次に氷床が拡大し,生産量が増加する.しかし,大気循環は気候が寒冷化する時期にはほとんど変化を示さない.つまり,気候の寒冷化メカニズムは海洋システムの内部にあると指摘できる. |
審査要旨 | | 本論文は南大洋のタスマン海台において採集したピストンコアの解析に基づいた古海洋学的研究であり,全5章からなる.第1章では,問題の前提と背景について簡潔にまとめている.南大洋は広い高緯度海域であり,緯度に平行な水塊構造の発達した,また表層に栄養塩が余っている海域としての特性がよくまとめられている.そして,この海域での環境変動が全地球的な環境におよぼす可能性,とくに最近の海洋生物生産に関する鉄仮説についても言及している. 第2章では,酸素炭素同位体比に基づいたタスマン海台からの3本のピストンコアの解析結果に基づいて年代の対比ついて述べてある.また一部には炭素14の年代測定も行っている.ここでは,これらの測定の結果,1本のコアについては過去20万年前までの記録がよく保存されていることが示された.これをその後に有機地球化学的な解析に用いた.古海洋学では,精度のよい年代と連続した堆積の記録をもつコアを採集してこれを検証することがもっとも大切な作業の一つである.この点で,本章での検討結果は南大洋の研究試料としてこのコアが有数のものであることを実証しており,評価できる. 第3章では,海洋に普遍的に存在する石灰質ナンノプランクトンの作りだす有機化合物であるアルケンノンの不飽和度を用いた海水温度の変遷の歴史についての結果と議論がされている.この有機温度計を南大洋の堆積物に応用するのは始めてのことであり,その結果は,氷期と間氷期の表面海水温度差がいままで他の方法で推定されていたより3-4度大きいことを示していた.また,最終間氷期では酸素同位体比から推定される氷床の発達と比較して,約3000年前に海水温度の低下が起こっていることも示された.これらのことは,氷河時代の世界像の復元にとって大きなインパクトを持つものであり,その結果は高く評価できる. 第4章では堆積物の中に含まれる海生植物プランクトンおよび陸生植物起源の有機化合物指標(バイオマーカー)を用いて生物の生産量と風成粒子のフラックスの復元を行った.これらの指標は氷河期で大きく,また間氷期にかけて減少することを発見した.また表層での生物生産と陸源有機粒子のフラックスには相関が認められ,これは,陸源粒子(とくに鉄)が生物生産を律速しているとの仮説を支持するものとされた.この章におけるデータも議論も妥当なものであり,またその結果も大きな意義を有していると評価できる. 第5章では全体の結果が簡潔に要約されている. 本論文は南大洋の堆積物に対して新しい手法を適用し,注意深い解析によって多くの示唆に富むデータを抽出し,またそれを氷河時代の世界像の中に意義付けたと評価でき,学位論文として十分な水準であると判断される. よって博士(理学)の学位を授与できると認める. |