学位論文要旨



No 112518
著者(漢字) 中新田,育子
著者(英字)
著者(カナ) ナカシンデン,イクコ
標題(和) 中部山岳におけるハイマツ帯の維持機構と成帯構造
標題(洋)
報告番号 112518
報告番号 甲12518
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3298号
研究科 理学系研究科
専攻 地理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大森,博雄
 東京大学 教授 米倉,伸之
 東京大学 教授 大村,纂
 東京大学 教授 鈴木,和夫
 東京大学 助教授 松本,淳
内容要旨

 日本列島では植生帯の分布は主に温度によって決まる.特に日本列島は南北に長く緯度変化による温度傾度で南は亜熱帯林から北は亜寒帯林まで森林帯の水平分布が見られる.また高山域では,高度による垂直的な温度傾度により,植生帯の垂直分布が明瞭に見られる.

 ひとつの植生帯の中には,それぞれの種が持つ固有の生育温度による生育適正域が存在する.植物の生育温度は実験室などで光合成や呼吸量など生理的な側面から推測可能である.しかし,複数の樹種からなる天然の森林においては,それぞれの生育適正域を抽出することは難しい.

 中部山岳のハイマツは山岳の最上部に幅350mから500mにおよぶ垂直分布帯を持っている.この垂直幅を温度差として換算する(0.6℃/100m)とハイマツ帯は1.8℃〜3℃の温度幅を持っている.垂直植生帯のうち,ハイマツ帯は下限を亜高山帯針葉樹林と接し,上限は山頂までで他の植生帯のように上部は他種との種間関係に規定されず,むしろ気温条件という無機的な環境に規定されている.またハイマツ帯はハイマツ一種からなる純林を形成し,内部に生態的に競合する他の樹木を持たない.

 本研究では,このハイマツ帯の特色から,ハイマツ帯を一つの独立した植生帯のモデルとして選び,植生帯の中で変化する温度環境に対して,植物がどのように生長や繁殖を行いその植生帯を維持しているのかを明らかにしようとした.

 中部山岳において,山頂高度が3000m前後の山岳を選び,ハイマツ帯内部の垂直の環境傾度=標高をもとに,ハイマツの分布形態,生育形,球果生産と更新過程を調査した.その結果,ハイマツの分布は標高が上がるほど断続的なパッチ状となり,生長量や球果生産量が漸減した.ハイマツ帯内はハイマツ純林で形成されており,他に生態的に競合する樹木が存在しない.こうしたことから,ハイマツはハイマツ帯内に存在する垂直分布の温度傾度に規定されて,生長や繁殖を変化させているものと考えられる.ハイマツ帯の中でハイマツの生長が最も大きかった標高帯は亜高山帯と接する標高2600m前後であった.球果生産を盛んに行っていたハイマツは標高2700mから2800mであった.ハイマツの生長や繁殖が大きく落ち込むのは標高2900m前後であった.この結果から,標高2900mを境に,ハイマツ帯は上部と下部に分けられた.森林限界から標高2900m未満のハイマツ帯下部では,ハイマツが面的に斜面を被い,ハイマツ個体の各部位(群落高,根元直径,幹長,年平均伸長量)のサイズや球果生産量もハイマツ帯上部の約2倍の大きさを示した.林床植生も上部と異なり,亜高山帯の林床と共通する植生が中心であった.これに対して,標高2900m以上のハイマツ帯上部では,ハイマツ個体のサイズと球果生産量は下部の半分であった.林床植生は高山要素の植生が中心となった.

 ハイマツの更新は,伏条更新という無性繁殖と種子による有性繁殖がそれぞれハイマツ帯上・下部で行われていた.種子による更新は,主として球果の豊作年に散布された種子が実生として残る傾向にあった.実生はハイマツ群落内では定着せず,周辺の矮性低木群落内に生育することが多かった.しかし,一旦定着した実生は分枝をさかんにして,個体面積を大きくする傾向があった.ハイマツが面的に被うハイマツ帯下部では,更新の主体は伏条更新であると考えられた.ハイマツ帯上部では,実生の定着後20年以上を経過している個体は少く,この間にほとんどが淘汰されてしまうと考えられた.

 このように,ハイマツ帯という植生帯の内部は標高2900m付近を境に大きく分けて2つの分布,生長,繁殖,更新形態をもつことが明らかになった.この標高2900mはYanagimachi & Ohmori(1991)が指摘した温度的なハイマツ上限高度(Scrub Line)と調和的であり,このScrub lineはハイマツ帯の中に出現する生態的な境界(Eco-line)であると考えられた.すなわち,ハイマツ帯はこのEco-lineを境に下部が生長と繁殖(球果生産)を担う中心ゾーン(Core zone)となり,Eco-lineから上部は,主として栄養生長のみが行われる外縁ゾーンと考えられた.

 ハイマツ帯の結果で得られた植生帯内における生長や球果生産の傾向は,温度という環境で見た場合,他の植生帯にも考えられる可能性がある.すなわち,植物は植生帯内の温度的な生育適正域(Core zone)では生長と繁殖更新を安定して行うことができる.そしてこのような再生産を継続して行うことで植生帯としてのゾーンが維持される.一方,Core zoneの外側の外縁帯では,生長量や繁殖能力が落ちる.個体の更新も実生が定着することが難しかったり,そこで運よく定着できた個体は生長を行うが,生長量は少ない.栄養繁殖などで個体を維持することだけで精一杯で,種子を生産することはなかなかできない.従って,外縁帯においてはその植物の分布は断続的になる.

 欧米の高山では森林限界以上になると,亜高山帯を構成するトウヒなどが,低木化し孤立して斜面に点在するようになる.これはいわゆる森林-ツンドラ移行帯(Forest-Tundra Ecotone)の景観として代表的なものである.移行帯はこれまで外見上の分布形態や樹形の変形などの景観的視点から認識されてきたが,しかし,Ecotoneにおいては植物は,生長や繁殖,更新の成功など,植生帯を維持するために必要な機能をもつことができない.すなわち,植生帯は植生帯内に現われる温度傾度により,大きくは2つの生態的ゾーン,すなわち再生産と非再生産のゾーンという構造を持っていると考えられ,移行帯は非生産ゾーンと位置づけることができる.

 今後の植生帯分布の研究において,植生帯がこうした大きくは2つの再生産と非再生産の空間を内包するものであることを視点に加えることは,その植生帯の維持・再生機構を理解するためには非常に重要なことであると考える.

審査要旨

 植物はそれぞれの種ごとに固有の適正生育環境をもち、植生帯の分布はそれぞれの環境条件に応じて優占する植物間の競合関係によって決定される。日本列島の場合、植生帯は主に温度環境によって決定され、緯度変化による温度傾度では、南の亜熱帯林から北の亜寒帯林までの森林帯の水平分布が見られ、高度による垂直的な温度傾度により、低標高の丘陵帯から高標高の高山帯にいたる垂直植生帯が見られる。それぞれの植生帯には、個々の種が持つ固有の生育温度による生育適正域が存在すると推察されるが、複数の樹種からなり、その生育が種間関係によって規定されている自然林においては、それぞれの種の生育適正域を抽出することは難しく、生産・繁殖という観点からの植生帯の維持機構や成帯構造の解明は未開拓の分野となっている。中部山岳において最上部の樹林帯を形成するハイマツは山岳最上部に幅350mから500mにおよぶ垂直分布帯を持ち、下限は亜高山帯針葉樹林と接するが、上限は気温条件という無機的な環境に規定されている。すなわち、ハイマツ帯は、日本の植生帯の中で唯一他種との種間関係に規定されない分布限界を示す植生帯である。またハイマツ帯はハイマツ一種から成る純林を形成し、内部に生態的に競合する他の樹木を持たない。本研究では、こうした生態的特徴を持つハイマツ帯を一つの独立した植生帯のモデルとして選び、植生帯の中で変化する温度環境に対して植物がどのように生長や繁殖を行い、その成帯構造を維持しているかを実証的に明らかにしようとしたものである。

 本論文は8章から構成されている。第1章「はじめに」では、これまでの研究のレビューを行い、問題の所在を明確にし、第2章「ハイマツに関する研究史と本研究の目的及び手法」では、ハイマツの樹種および植生帯としての特徴を検討し、ハイマツを研究対象として選んだ理由と本研究の目的および調査・分析方法を明示している。

 第3章「研究対象地域と調査方法」では、本州中部山岳に選定した3調査地域の選定理由、地形・地質・気候条件や植生分布の特徴を記述し、北アルプス乗鞍岳、中央アルプス木曽駒ヶ岳、南アルプス北岳の3調査地域は高度分布や地形・地質および気候条件が異なり、普遍性を抽出する上で、研究対象地域として適切であることを明示するとともに、ハイマツの固体および群落の生長量や球果生産量、および実生更新調査等の現地調査方法の説明を行っている。

 第4章「中部山岳におけるハイマツの生長と球果生産」では、調査地域ごとに、ハイマツの分布形態、生育形、ハイマツ固体の生長量、ハイマツの球果生産量について、データの提示と高度変化に対する各調査項目の変化量の分析結果を示し、高度変化に応じて変化する分布形態、生長量、球果生産量の特徴を明らかにしている。

 第5章「中部山岳におけるハイマツの高度に伴う生長と球果生産の変化」では、第4章の各調査地の結果を総括し、高度変化に応じて変化する分布形態、生長量、球果生産量の変化が共通してしていることを明らかにするとともに、標高2900mを境に、その上下でハイマツの生態的特徴が大きく異なることを指摘している。すなわち、ハイマツ帯の中でハイマツの生長が最も大きい標高帯は亜高山帯と接する標高2600m前後であること、球果生産を盛んに行っているハイマツは標高2700mから2800mであること、ハイマツの生長や繁殖が大きく落ち込むのは標高2900m前後であることを明示し、ハイマツはハイマツ帯内に存在する垂直分布の温度傾度に規定されて,生長や繁殖を変化させることを明らかにしている。

 第6章「ハイマツの更新過程」では、伏条更新という無性繁殖とホシガラスの種子散布による有性繁殖が行われていること、種子による更新は主として球果の豊作年に散布された種子の寄与が大きいこと、実生はハイマツ群落内では定着せず、周辺の矮性低木群落内に生育することを、実生の実態調査、論文提出者が開拓した手法による球果生産量の経年変化調査、および、実生の樹齢分布調査の結果の分析に基づいて明らかにしている。さらに、ハイマツが面的に被うハイマツ帯下部では伏条更新が主体であり、ハイマツ帯上部では、種子による繁殖・更新が主体であること、実生の定着は年数の経過とともに減少し、種子散布後20年の間にほとんどが淘汰されてしまうことを見いだした。すなわち、ハイマツ帯は標高2900m付近を境に、繁殖・更新形態でも大きく異なることを明らかにしている。

 第7章「中部山岳におけるハイマツ帯の生態学的構造」では、第5章、第6章の結果を総括するとともに、森林限界から標高2900m未満のハイマツ帯下部では、ハイマツが面的に斜面を覆い、林床植生も亜高山帯の林床と共通する植生が中心であること、標高2900m以上のハイマツ帯上部では、分布がパッチ状になり、林床植生は高山要素の植生が中心となることを示し、ハイマツ帯は分布形態、生長、繁殖・更新を大きく分ける標高2900m付近に「生態的な境界」を持つことを指摘している。すなわち、標高2900m以下のハイマツ帯下部は生長と繁殖(球果生産)を担う中心ゾーンであり、標高2900m以上のハイマツ帯上部は、中心ゾーンから散布された種子・実生が栄養生長のみを行う外縁ゾーンと位置づけられることを明らかにしている。前者は生長と繁殖更新を安定して行うことができる再生産ゾーンで、再生産を継続して行うことで植生帯としてのゾーンが維持される。後者は、生長や繁殖能力が落ち、栄養繁殖などで個体を維持することはできるが、それだけでは植生帯の維持ができない非再生産ゾーンである。これらの結果を踏まえて、本章では、植生帯は植生帯内に現れる温度傾度により再生産ゾーンと非再生産ゾーンとに分けられ、従来その分布形態を拠り所として区分されてきた「森林-ツンドラ移行帯」は非再生産ゾーンと見ることによって、生態学的理解が深まると結んでいる。第8章「結論」は、本論文の内容と結果を簡潔にまとめている。

 以上のように、本論文はハイマツ帯を事例にとって、植生帯の維持機構を生長・繁殖という観点から検討し、植生帯は成帯構造を維持しうる再生産ゾーンとそれだけでは成帯構造を維持し得ない非再生産ゾーンに分けられることを実証的に論じ、特に、植生の分布形態に基づいて認識されてきた「森林-ツンドラ移行帯」は非再生産ゾーンと位置づけられることを明らかにした。本論文は自然地理学、特に植生地理学に新たな視点を提示し、環境傾度に対する植物の応答の生態学的理解を深めるとともに、球果生産量の経年変化の調査手法など新たな調査方法も開発し、植生地理学の発展に寄与するところが大きい。したがって、博士(理学)を授与できると認める。

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