学位論文要旨



No 112522
著者(漢字) 太記,祐一
著者(英字)
著者(カナ) タキ,ユウイチ
標題(和) ビザンツ帝国マケドニア朝時代の教会建築における皇帝の儀礼に関する研究
標題(洋)
報告番号 112522
報告番号 甲12522
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3800号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
内容要旨

 バシレイオス1世を初代とし、9世紀から11世紀までビュザンツ帝国を支配したのがマケドニア朝である。特に9世紀末から10世紀前半にかけてのレオン6世、コンスタンティノス7世といった皇帝の治世は、さかんな文化活動によって知られる。建築史の分野においても、これまでに首都コンスタンティノポリス(現イスタンブル)を中心とした建設事業の活況、地方からの新しい教会建築様式の興隆などによって特徴づけられてきた。

 しかし該博的な通史から一歩踏み込んで、コンスタンティノポリスの当時の建築物に関して取り扱った研究は少なく、個々の建築物のモノグラフ以上のものは見受けられない。その理由はこの都市で当時、新たに建設された建築物のほとんどが現存しないことにある。また同様な理由によって、同時代の豊富な文献史料も6世紀の記録の代用品などとして使用されることが多く、9・10世紀の建築を対象とした研究にはほとんど使用されていない。

 コンスタンティノポリスに現存するビュザンツ建築の遺構を広く見ていくならば、この時代より以前に建設された建築物の遺構と、この時代の文献史料とを巧みに対照することで、総合的に当時の状況を描き出すことが、間接的にではあるが当時の建築文化を知るうえで一つの課題となる。そこで本論文では、マケドニア朝時代のビュザンツ皇帝が、年中行事としてどのような教会建築をどのような儀礼で使用したかを、主題として取り上げることにする。

 まず第1章では年中行事としておこなわれたであろう、40日近い宗教儀礼における皇帝の行動を文献史料をもとに再現し整理した。具体的には9・10世紀に編纂された三つの史料(宮廷の儀礼についてまとめたコンスタンティノス7世の『儀式について』、皇帝主催の晩餐会の席次を記録したフィロテオスの『クレートロロギオン』、コンスタンティノポリス総主教の儀式の次第書である『テュピコン』)の記述を、それぞれ日付毎に対照させ検討し、その結果、以下の特徴があることがわかった。

 まずクリスマスや復活祭などの最重要の五つの祭日には、皇帝は廷臣達と共に大宮殿を出発してハギア・ソフィアを訪れ、この教会で総主教と共にミサに参加する。この点において各史料の記述には、くいちがいは見られず行事として安定したものだった。またこれらの祭日では、皇帝はミサの進行に応じて様々な役割をはたし儀式に参加したが、このような例は他に見ることはできない。

 これに対して、聖母の生誕祭など、年6回の重要な祭日には、皇帝は廷臣達や総主教と、まずある教会(聖母の生誕祭の場合はハギア・ソフィア)で礼拝をし、そこから他の教会(先の例ではカルコプラテイアの聖母教会)へと行進をし(「メセー」と呼ばれる中央通りをへて、コンスタンティノス1世のフォルムで祈りを捧げた後に、聖母の教会へ向かう)、そこでミサに参加した。このときは行進に続く、教会堂の身廊に入場する儀式の後で、皇帝はギャラリーに用意された専用の空間に行き、ここからミサに参加し、聖体拝受もここで受ける。またいかなる場合も入場以外には儀式の進行に関与しない。また三つの史料の成立年代と記述内容を比較すると、9世紀後半から10世紀前半にかけて市内の教会を舞台とする儀礼は、減少ないし簡略化される傾向にあった。なおハギア・ソフィアにおいても、他の教会から行進して来てからハギア・ソフィアでミサに参加する場合は、皇帝はギャラリーを使用し儀式への関与は少ない。

 これに対して宮殿内での宗教儀式は、回数は年6回と少ないが、繰り返し整備され拡張されていくことがわかった。また教会での礼拝、行進、教会でのミサという型式の儀礼は、都市空間を使用する場合には回数が減少していくにもかかわらず、宮殿内では、儀式の次第における重要な要素として生き残っており、見方によっては増加しているとさえ考えることができる。

 続く第2章では、第1章で取り扱った儀礼のうち、皇帝の様子がある程度の具体性をもって再現できる教会堂17棟に関して、その9・10世紀における建築物の状況を再現を試みた。このとき何らかのかたちで遺構が現存しているもの(ハギア・ソフィアなど4棟)は、現存遺構、考古学調査、文献史料などを活用し、他の教会については様々な文献史料と、他の同時代の建築遺構から類推した。この過程で、建築遺構が現存するもののうちハギア・ソフィアとハギオイ・セルギオス・カイ・バッコスに関しては、堂内での動線や使用する場所などについて、かなり具体的に想定することができた。

 そして得られた結果から、各建築を沿革、形態などの面から分析した結果、9世紀以降新たに建設された6棟の教会堂(ネア、ファロスの聖母教会など)すべてが宮殿内に集中し、それらの多くが内接十字型平面の規模の小さな建築であったことが明らかになった。またこれと好対称をなすのが市内に位置する10の教会(ハギア・ソフィア、聖使徒教会、ブラケルナイの聖母教会など)で、そのほとんどに当たる9棟が6世紀以前に創建され、8棟が6世紀に造営された建築で、6棟がバシレイオス1世によって修理、復元されている。

 これら新旧様々な教会堂において、皇帝は自分専用に用意された空間を使用する。そしてこの空間がギャラリーに設置されているのは、6世紀以前に遡る教会堂のみである。

 第3章では、これら先行する各章で得た結果に考察を加え、以下の結論を得た。

 祭日の性格や儀礼の次第、また教会堂の形式や沿革といった要素とは無関係に、皇帝には専用の空間が教会堂内に用意されており、皇帝はこの空間を使用した。

 従来、比較的大規模なバシリカ式教会堂が、内接十字型平面の規模の小さな教会堂へとってかわられた背景として、小人数による私的礼拝が主流となり、小さな教会堂の緊密な空間の方が好まれるようになった、との説が有力であった。しかしこのような教会堂の使用方法は確認できなかった。確かに史料に登場しないような、より私的なあるいは個人的な礼拝を皇帝がおこなったことは間違いない。だがその際に、どのように教会が使用されたのかは不明である。

 また教会堂のギャラリーが皇帝によって使用されるのは、6世紀以前に建設された教会に限られる。おそらくこれは6世紀において洗礼志願者が使用していたギャラリーが、洗礼志願者達の減少と共に機能を失ったことと関連づけられるだろう。宮廷によるギャラリーの使用は9世紀において、一つの定型として残っていたが、新しい内接十字型の教会堂はギャラリーが狭いか、ない場合が多く、皇帝の礼拝空間は他の場所に用意されるようになった。

 さて一方、『バシレイオス1世伝』などの当時の記録をもとに、同時代の皇帝の造営活動をまとめると、市内の教会に関しては修理、修復、再建などの手段で望み、新しく記念碑的な教会堂を建てようとはしていないが、大宮殿内においては積極的に造営活動にいそしみ、数多くの新しい建物を残していることがわかる。

 同様な現象は儀式においてもみることができ、宮殿内の儀式は新しい教会の建設に伴って増加した。また他方でバシレイオス1世は、都市空間を使用する古い儀式を復活させようと試みた。

 だが都市空間での儀式は、全盛期である5・6世紀と比較すると、形骸化が進んだ。儀式の重点は首都の市民から宮廷の廷臣へと移り、舞台としても都市よりも宮殿が重要視されるようになった。この新しい宮殿内の宗教儀式は、かつての都市空間での儀式の縮小版としての性格を持っている。都市空間から宮殿内などの限定された空間に儀式の舞台を移すことは、宮殿の聖域化、皇帝にとって儀式の私物化を意味する。同時代の文化全般に見られる、社会から距離をおき個人の私的生活の中に閉じこもろうとする傾向と、これは合致する。しかしその一方で、その儀礼の核となる要素が伝統的な行進である点に、当時の宮廷文化の持つ古典指向という特色が現れている。この二つの相いれない方向性の妥協のうえに成立したのが、宮殿内を舞台とする新しい儀礼とみることが可能である。

 また皇帝が使用する教会の中で、特異な位置にあるのがハギア・ソフィアである。ハギア・ソフィアでの宗教儀礼に皇帝が参加する回数は、他の教会よりもはるかに多い。さらに年中行事のうち最も重要な祭日は、みなハギア・ソフィアが舞台となる。加えて皇帝が儀式に積極的に関与し、至聖所で聖体拝受を受けるのもハギア・ソフィアだけである。また他の教会でおこなわれていた儀式は次々とハギア・ソフィアにその舞台を移している。

 ここでマケドニア朝の歴代皇帝が宮殿内の教会建築と宗教儀礼とを積極的に整備したという事実と、大宮殿とハギア・ソフィアが皇帝専用の動線によって連絡されていたことを考えあわせるならば、この教会が大宮殿に半ば取り込まれた存在であったと、位置付けることができる。コンスタンティノポリスの宗教活動の中心である総主教座教会、帝国を象徴する教会建築、このようなハギア・ソフィアの基本的な性格を加味するならば、この建築物が皇帝、教会、市民のあいだの微妙な領域に存在していたことがわかる。

審査要旨

 本論文はビザンツ帝国マケドニア朝時代、すなわち867年のバシレイオス1世の即位から1028年のコンスタンティノス8世の死までの期間の教会建築における、皇帝の儀礼を、資料に基づいて分析したものである。

 この研究の基本的史料となるものはコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによって10世紀に書かれたとされる『儀式について』、フィロテロスによって899年に書かれた『クレートロロギオン』、そして10世紀末の『大教会のテュピコン』である。最後のものは教会での日々の儀式の次第を記述したものである。

 これら1次史料を翻訳・解釈することによって、多くの儀式に参加する皇帝の行動を分析し、そこから当時の教会の構成とその使われ方を明らかにしてゆく。具体的には、まず第1章において、皇帝が参加する宗教儀式を列記し、そこから教会と皇帝との関わりかたを見てゆく。宗教儀式には、不動暦の祭りと動暦の祭りがあり、それぞれ性格を異にする。祭りのなかには途中で性格を変えたものもあるが、生誕祭、神現祭、聖大土曜日のように性格を変えることなく保持されたものもあった。

 結果的に、儀式には、1・皇帝が大教会で礼拝を行なった後、行進してフォロスに行き、そこでも儀式を行ない、さらに他の教会に向かって行き、そこでミサをあげるタイプ、2・前記のタイプのひとつだが、行進の部分が省略されたものと考えられるタイプで、最後の段階で皇帝が儀式に参加する形式を持つ、3.大宮殿内で儀式が完結するタイプ、が存在することが認められた。

 つぎに、皇帝が使用する教会建築に着目すると、ハギア・ソフィアの重要性がきわめて高く、また他の市内の教会、大宮殿内の教会もそれぞれ異なる性格をもつことが理解される。すなわち市内の教会においては多くの場合、行進とそれにつづく入場の後で皇帝はギャラリーに用意された専用の空間を使用する。またいかなる場合も、入場・領聖以外には儀式の行進に皇帝は関与しない。これに対して、唯一例外としてあげられるのがハギア・ソフィアであり、この教会においてのみ皇帝は側面の自分用の空間を使用し、儀式の行進に積極的に関与するのである。ただしハギア・ソフィアにおいても、他の教会から行進して入場した場合にはギャラリーを使用することから、皇帝の儀式への積極的な関与は、教会堂の性格よりも祭日の性格に起因するところが大きいように思われると、結論している。

 第2章においては、皇帝が使用する教会建築に着目し、9世紀以降新たに建設された教会堂は宮殿内に集中し、それらの多くが内接十字型平面の規模の小さな建築であったことを明らかにした。またこれと好一対をなすのが市内に位置する教会で、そのほとんどが6世紀以前に創建され、多くがバシレイオス1世によって修理・復元されたものであることも明らかにされた。

 ここから、本論文では下記の結論を得ている。

 1)古い教会堂におけるギャラリーの使用

 2)教会堂の形態や沿革とは無関係な皇帝専用の空間の設置

 3)宮殿内の儀式・建築に対する積極的な整備

 4)ハギア・ソフィアの特異な位置づけ

 本論文があつかった対象は、これまで日本においてはほとんど先行研究がなく、述語の翻訳決定についてもきわめて困難な状況にあった。著者はこの困難に対峙して大きな成果を挙げ、ビザンツ帝国マケドニア朝時代の教会建築と皇帝との関係を明かにした。論文において述語の解説、訳語の語義の解説を付しているのは、こうした先駆的研究における著者の心づかいであるとも言える。

 こうした論考は、極めて特種な時代と建築概念とを取り扱いながらも、西洋建築の根幹に触れる建築類型の成立と意義を明らかにしており、その成果は大きい。こうした方法は、日本において欧米の建築史を研究する方法に新しい可能性を開いたところがあり、日本における今後の西欧建築史研究にとって、刺激となるものである。その意味で、本論文が明らかにした事実と、そうした事実を明らかにするための方法との両面において、本論文は価値がある。

 以上の論考は、西洋建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54570