「郊外住宅地」は、都市-郊外という一対の概念の中で都市生活者の職住分離によって成立し、日本では明治半ばがその黎明期といえる。本論文では、大正期間を通して啓蒙活動が行われた郊外住宅地及びその住居について、昭和初期におけるその展開を明らかにすることを目的とした。 序章では研究の目的・既往研究・史料及び論文の背景にある研究、郊外発展の前夜にあった大正末期の都市-郊外の状況、郊外住宅(地)に関係する事項などについて把握した。本論全5章のうち第3章までは郊外住宅地を中心に扱っている。 <1.計画的郊外住宅地>第1章「-大美野田園都市(大阪府堺市)における田園都市論の引用から数寄屋(茶室付住宅)区まで-」,第2章「-鵠沼・片瀬(神奈川県藤沢市)における別荘地文化の継承とミッション系施設のコミュニテイ-」 <2.自然発生的郊外住宅地>第3章「桐生における’山の手’エリア・宮本町(群馬県桐生市)の確立」 計画的郊外住宅地とは、田園都市論の引用から区画整理まで、ある程度の規模の土地に対して集中的に全体計画が行われた住宅地ととらえた。自然発生的郊外住宅地は、街が持つ小さなエネルギーの集積と構成によって新しい’山の手’と成り得た住宅地で、多くは小規模土地所有の集積によっている。この便宜的に分けた郊外以外にも住宅難や投機目的に終始して拡がったスプロール的郊外がある。 第4章「郊外住宅の商品化-大阪三越住宅建築部と白木屋(東京)住宅部-」では、郊外住宅をクローズアップするためその商品化における理念と実際を考察した。 第5章では、郊外住宅と同じく都市中間層に向けた民間アパートメント・ハウスの特質から郊外住宅地との関係を考察した。 第1章で考察した「大美野田園都市」は大阪から約20km圏、第2章の「鵠沼・片瀬」は東京から約50km圏にある。「大美野田園都市」は初期段階では、ウエルウインや東京の田園都市(株)の活動の影響を受けた。その成果は、宅地割のデザインや住棟配置、住宅地・商店街区・公館地区の用途分けや環境協定などにあらわれている。『建築と社会』誌上における住宅設計懸賞(1等入選案の想定家族;夫婦+子供2+女中1)及び「大美野田園都市博覧会」(S.7)の後は、「週末住宅・菜園別荘地」として又「健康本位住宅博覧会」(S.11)を開催して住宅地運営を行ない、この間に住民施設の大美野会館(S.10)を完成させた。そして最終的には茶室付住宅でのちに茶人村と呼ばれた「数寄屋住宅区」(S.13)を設置した。この頃までに建設された100棟以上の住宅は、平面計画・外観が一品ずつ異なり、住宅地の奥に入るにつれ住宅の規模が大きくなっていた。 第2章の「鵠沼・片瀬」では、大給近道、片瀬では山本庄太郎によって明治期における’松の植樹’から住宅地整備が始まった。鵠沼では御用邸誘致構想、及びその失敗により明治30年前後から1万坪単位の土地分譲が行われた。そして大正期に白樺派の文人などの居住と滞在が岸田劉生の『鵠沼日記』に描かれるような別荘地文化を形成した。この間、実現に至らないものの片瀬では「相州片瀬海岸別荘地割図」(T.11)の楽園地構想があった。関東大震災後、小田急片瀬江ノ島線開通(S.4)を契機に片瀬でも住宅地整備が冷鉱泉付きの「片瀬西濱分譲地」として本格化した。そして整然とした宅地割、駅との意匠的調和を図った商店街(S.5)・ミッション系施設(片瀬乃木女学校/S.13・片瀬カトリック教会/S.14)の建設が行なわれた。これらの実現を片瀬の地主で海軍に在籍したカトリック教徒の山本信次郎が差配し、設計にはいずれも晩年を片瀬で暮らした建築家田村鎮が関与し、教会内部は鵠沼を生家とする長谷川路可がデザインを行なった。片瀬では隣地の鵠沼という別荘地文化をバックグランドに持ちながら住宅地整備が行われた。 住宅地と購入者の社会的階層を考えると次の様である。第1章の「大美野田園都市」は南海高野線の商工業ゾーンとして発展していた。そのため新中産階級(「新中産階級」は官公吏、教員、銀行会社員、など管理的な立場で知識労働を行う俸給生活者)よりも、船場・島之内で成功を収めている中小企業主や、鉄工所の工場主といったむしろ旧中産階級(「旧中産階級」は商・工・農業といった自営的業種)、あるいは用地収用前の小土地所有の地主が土地・住宅を購入した。この背景には俸給生活者の多くが大阪近郊の長屋住まい(大阪では昭和初期には比較的良質な長屋が建設された)であったことが考えられる。第2章の「鵠沼・片瀬」の場合、鵠沼における1万坪単位の分譲は俸給生活者向けの土地分譲ではなかった。昭和初期の片瀬において一区画150坪で分譲されるに至り、俸給生活者も購入可能になった。しかし実際には、官公庁勤務、有爵者、企業の最高幹部、医師などが2区画以上を別荘や隠居所として購入することが多かった。 第3章では自然発生的郊外住宅地として桐生市(群馬県)における昭和初期の’山の手’が形成される要因や背景を明らかにした。桐生の宮本町は、桐生ヶ岡公園のふもとで、また街の財力・権力の集中する本町にも近接している。その宮本町が銀行員や学校教員のみが居住する住宅専用の’山の手’エリアとして認められたのは昭和初期である。この時期には、洋風住宅や、一室型の和風書斎又は洋風応接室が付属した賃貸方式の文化的小住宅が宮本町に最も多く建設された。この背景には時代の機微に応じた新しい貸家の運営、その背景にある地元の建築請負会社の成長、清水組で修行を積んだ建築家の活動、桐生全体でみた教育・文化施設の充実などがあった。宮本町の貸家運営は買継業の成功者や株取引人などにより、貸家の居住者は、織物産業の近代化に伴い出現した俸給生活者(銀行の桐生進出や番頭クラスのサラリーマン化により生じた)や織物関係の教育関係者などであった。その一方で宮本町は本町の別荘地的意味合いもあった。しかし俸給生活者が住宅を購入する段階には至っていなかった。 第4章では大阪三越住宅建築部(S.5開設)と建築家岡田孝男の活動、及びその比較として白木屋(東京)住宅部(S.8頃開設)について考察した。昭和初期の百貨店は電鉄と共に、ターミナルデパート-私鉄沿線-郊外住宅地という構図を成立させていた。百貨店の住宅建築部も当初は幅広い社会的階層を対象とし、大阪三越の場合は新世帯を対象に「三越型小住宅」(S.5)を商品化したが成功せず、結果として「注文式一品生産」を主力商品とした。三越・白木屋共にその作品群は、規模・内容でいえば「大美野田園都市」の茶室付住宅あるいはそれ以上であった。室内装飾もいずれもその技術を生かして格調のある特異性をもった。顧客層としては企業の経営者や幹部が主であり、別荘建設もみられた。 第5章では昭和5年頃から数量上の興隆期を迎える民間のアパートメント・ハウスについて、その形成過程と特徴を<アパートメント・ホテルの影響「旅館下宿」の発展形、郊外住宅地の購買組合・家事の社会化の提案アパートメント・ハウスにおける家事の社会化、郊外住宅地の「倶楽部」アパートメント・ハウスの娯楽室等の設置>という観点から捉えた。アパートメント・ハウスと郊外住宅の相関関係は、(1)対峙的な関係としては、都心か郊外に居住するかの選択 (2)併置的な関係としては、1.田園都市思想においては多様な居住形態が同一の住宅地内に設置されていた,2.郊外住宅、アパートメント・ハウス共に住宅改良の成果が期待されていた,3.住空間的なレベル差はあるが、都市中間層という特定の住民階層による同質的コミュニテイを形成する 昭和10年頃までに建設されたRC造アパートメント・ハウスは、一室型の居室が主であったにも関わらず、賃貸料は東京周辺の郊外に建つ居室3室程度の独立建ての貸家に相当した。現実的には木造アパートが増加していく中で、例えば「和朗フラット」(S.10頃、飯倉片町)が「中流」の指標であった’女中室’を設置したことは、この種の建物が中流意識を満たすべく登場したことを示す。但しRC造・木造共にアパートメント・ハウスは基本的に若い単身者・夫婦単位を居住対象とし、そのコミュニテイにおいて制約が認められた。 <結> 第1章の大美野田園都市、第2章の鵠沼・片瀬共に、都市に依存することによって成立した鉄道郊外である。また労働の場やその労働者の為の住宅地を含有せず、自己完結を目指していない点であくまで田園都市の概念とは対置的な田園的郊外(Garden suburb)であった。両住宅地とも無秩序な郊外とは一線を画し理想的なエリアを形成していたが、昭和戦前までは別荘地的に用いられ、職住分離から成立する「郊外住宅地」としては成熟していない。この為理念レベルで考えられていた中流以下の俸給生活者一般という郊外住宅の購入者層と、実際の購入者には差異が生じている。この様な中で、茶室の需要が認められたことはその購入・居住者層を捉える上で特筆すべき事である。茶室は趣味、教養であり、郊外住宅の格の表現、価値であった。 計画的郊外住宅地と自然発生的郊外住宅地の2つの指標は郊外に位置する住宅地の成長過程の相違を把握する上で意味があり、この指標から郊外の住宅地の状況がある程度認識できる。しかし2つの指標は二極分離するわけではない。計画的、自然発生的いずれの場合も住宅地は、全体性と部分性というメカニズムにおいて成立していることが認識されなければならない。また住宅地には計画レベルとは別に潜在的な力によって自己組織化を行っていく側面があるといえよう。それゆえ活字としては残らない一つ一つの事象や心象までが住宅地において相互に関係しあっていると考えるべきである。 本研究では郊外住宅地の開発者ではなく郊外住宅地の性格から分類し各事例の考察を行なった。郊外住宅地の形態的考察と時系列的考察という横軸と縦軸の考察を同時に行い、その中で啓蒙レベルからその大衆的な拡がりまでを把握したのである。本研究における事例を通して得た成果は、郊外住宅史として位置付けられていくべき内容を多く明らかにしていると考える。 |