本論文には、日本におけるダイオキシン類の環境汚染の現状把握に寄与すべく行った研究の内容を記した。論文は5章構成であり、第1章で序論を、第2章で研究の背景と目的を述べた。第3章で試料の採取,分析,データの取得について、第4章でデータの解析について記し、最後に第5章で結論を述べた。 第1章において、ダイオキシン類(polychlorinated dibenzo-p-dioxinsおよびpolychlorinated dibenzofurans)が、これまでとは異なる新しいタイプの環境汚染物質であることを述べるとともに、論文の構成を示した。 第2章では、研究の背景と目的を述べた。ダイオキシン類は、さまざまな人為過程により副次的に生成し、環境中には微量ながら遍く存在する。世界的に、人間の平均的な曝露量が許容摂取レベルと同程度であり、その汚染状況の解明と対策が強く求められている。人間への毒性影響を考える際には、発生源から人間の暴露に至る経路を把握することが肝要であるが、この点に関する成果は未だ十分なものではない。pg(10-12g)/g以下のレベルでの微量分析の困難さにより、現在でもデータの整備が十分とは言えないことと、この物質群を構成する多数の化合物について、異なる媒体間の関係を定量的に記述する手法の検討が不十分であることとが、現在における問題点として挙げられる。 この認識のもと、日本の水系におけるダイオキシン類汚染の特徴を代表していると考えられる水系(水系とその周辺地域)を対象地域とし、底質と土壌を対象媒体として、これら地域のダイオキシン類汚染の特徴を記述することと、ダイオキシン類とその起源の対応を定量的に検討することとを、本研究における目的とした。底質と土壌は、環境中に存在するダイオキシン類の大部分がこれら媒体中に存在すること、ダイオキシン類はこれら媒体中で安定と考えられ、起源の情報が保存されていると期待できること、そして食物連鎖へのダイオキシン類の入力を反映していることから重要である。ダイオキシン類の環境動態を考慮すると、対象地域としては水系を設定するのが妥当である。 第3章では試料の採取とダイオキシン類の分析方法の検討を中心に述べた。まず、流域の産業構成から特徴的と考えられる霞ヶ浦と東京湾の二水系を対象地域とし、対象地域において、地理的な代表性を考慮して底質15試料、土壌2試料を採取した。分析は既存の枠組みに則り、試料の抽出から多段階にわたる夾雑物質の除去過程を経て、高分解能ガスクロマトグラフ/高分解能質量分析計(HRGC/HRMS)を検出器として用い、内部標準法による定量を行った。さらに、上述の目的に必要なデータを得るために、分析方法の検討を行った。本研究で用いた分析方法の特徴は、試料乾重あたり0.1pg/g程度あるいはそれ以下の定量下限を達成したこと、4〜8塩素化化合物136のすべてに対応する87のGC/MSピークの定量値を、対象濃度の低さを考慮すると十分高い精度で得られること、毒性の観点から重要な2,3,7,8位塩素置換体のすべてについて単離定量値を得たことである。分析値のばらつきは、試料乾重あたり1pg/g以上では数%〜10%程度であった。 第4章ではデータの解析を行った。日本においては、ある地域におけるダイオキシン類の存在状況を、このように詳細に明らかにした報告はまだない。まず、多変量解析を用いない手法で、データを整理した。総濃度の範囲や同族体組成はこれまで一般に報告されているものに近かったが、地点によって地域的な特徴も見られた。地点による特徴はダイオキシン類の起源の寄与を反映していると考えられるが、これらの情報のみではこの点に関し十分検討できない。一方、化合物組成の一部に注目した解析からは、対象地域のダイオキシン類の起源について一定の知見が得られた。しかし、データ構造の全体を捉えた解析でないことが問題である。本研究で得た分析値の情報の全体を定量的に解析するには多変量解析法の適用が必要である。 さまざまな起源のダイオキシン類の重ね合わせを表現可能なことと、対象地域についてのダイオキシン類の発生源等について代表的な情報が殆ど得られない状況とを考慮すると、多変量解析法のうち、主成分分析法を用いるのが適切と考えられる。すべての試料において定量値を得られた73ピークを入力変数とし、データの主成分分析を行った。これらの変数は、主成分分析法の線形モデルが最も自然な解釈を与えるよう、対数変換等の変数変換は行わなかった。また、試料間の濃度差を説明する要因が明らかではない段階では、この濃度差の情報を解析に含めておくのが好ましいと考え、試料間の濃度の規準化は行わなかった。一方、起源との対応付けに注目する場合には、各変数の相対的な変動を重視するのが適切と考えたので、変数についてはすべて分散を規準化した。 結果として4つの主要な主成分が得られ、第4主成分までで入力変数の分散の81%を説明した。これら主成分はデータ変動の主要な部分を説明するものであるから、対象地域の底質・土壌中のダイオキシン類は4つの主要な起源によると解釈できる可能性がある。既存の文献との化合物レベルでの組成の比較により、このうち3つの主成分は大気降下由来、農薬CNP起源、ペンタクロロフェノール(PCP)起源と対応付けられた(図1参照)。これは、先に化合物組成の一部に注目して行った解析より得られた知見と矛盾せず、より包括的な理解を与えるものであった。また、この結果は、対象とするサンプル群、変数の選択、変数の変換・規準化等に左右されないデータの本質的な構造であることを確かめた。このような起源との対応付けが可能であったことには、全化合物に対応するピークを解析の対象としたことが決定的であった。ただし一主成分は既知のどの起源あるいは過程の化合物組成とも対応しなかった。この一主成分に対応する起源あるいは過程について、広く研究が必要である。また、大気中に存在するダイオキシン類と、その発生源の関係には不明確な点が多い。対象地域の底質・土壤中のダイオキシン類の主要な起源の一つが大気降下であることが示されたので、この関係についても研究が求められている。 図1 主成分に対応する化合物組成と文献に報告されている化合物組成の比較の例ここでは第4主成分とPCPの場合を示した。 さらに、これら主成分の各試料における寄与を表す主成分スコアの検討から、ダイオキシン類の環境中での動態についても示唆を得た。図2に主成分スコアの地理分布を示す。東京湾内においては、北西部で採取した試料で大気降下由来のダイオキシン類(PC1:第1主成分)の寄与が大きく、この分布は、文献に報告されている多環芳香族炭化水素(PAH)の東京湾底質での分布と類似していると考えられる。一方、湾の北東部で採取した試料ではPCP(PC4)とCNP(PC2)を起源とするダイオキシン類の寄与が大きいことが示された。これは江戸川およびその上流の利根川の影響と考えられる。この双方の地理分布において河川からの輸送が大きな役割を果たしていることが示唆された。また、主成分スコアと有機物量の相関を検討した結果、起源・由来によって両者の関係が異なる可能性が示された。これは、ダイオキシン類の環境中での動態を追跡する場合には、起源・由来を考慮する必要があることを示唆している。 図2 主成分スコアの地理分布:LC,TK,TT,TZは霞ヶ浦の湖心,高浜入り,土浦入り,天王崎沖を,Koi,Sak,Ono,Shiは恋瀬川,桜川,小野川,新利根川を,TBは東京湾での採取地点を指す。Pfは水田土壤、Tyは都市土壤を表す。棒グラフの位置は、採取地点とは正確には対応していない。 第5章ではこれまでに得られた成果をまとめ、結論とした。以上のように、本研究では日本の特徴的と考えられる二水系を対象地域とし、その地域のダイオキシン類汚染の特徴を記述した。さらに、データに多変量解析の手法を適用することで、対象地域におけるダイオキシン類の主要起源を定量的に示した。同時に、今後さらに研究の必要な分野を示した。ダイオキシン類および類縁の有機ハロゲン化合物群の、発生源から人間の暴露までの挙動を調査するにあたり、本論文で述べた手法は有効だと考えられる。 |