学位論文要旨



No 112552
著者(漢字) 白樫,了
著者(英字)
著者(カナ) シラカシ,リョウ
標題(和) 生体組織細胞の凍結保存プロセスの決定法に関する基礎的研究
標題(洋)
報告番号 112552
報告番号 甲12552
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3830号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西尾,茂文
 東京大学 教授 庄司,正弘
 東京大学 助教授 飛原,英治
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
 東京農工大学 教授 棚澤,一郎
内容要旨

 今日,生体間の生体組織移植が外科的治療法として.しばしば用いられているが,その歴史は1800年代にさかのぼる。当時は手術の技術が稚拙であったため.雑菌の混入等もあり,成功例は極端に限られたものであった。手術の技術が向上するにつれ,成功例もふえ,様々な生体組織について移植が行われるようになると,移植には生体組織内の細胞が生存していることが重要であることがわかってきた。生体組織の移植の需要が増える一方で,供給が追いつかず.摘出された生体組織が短期間しかもたないことから,生体組織の保存技術の必要がでてきた。凍結による保存法はその究極ともいえる方法であり.飽和液体窒素温度(-196℃)では半永久的に保存できることができる。今日では,角膜や血液,精子などで凍結保存法が成功を納めており,実用化もされているが,サイズの大きい生体組織については一般的な実用化には至っていない。需要のある生体組織の例として循環器系では心臓疾患の手術におけるバイパス手術に使う小管径血管や心臓弁,消化器系では肝臓や腎臓等のかなり大型な生体組織が挙げられる。例えば小管径血管は年間360,000本もの需要があるが,人工血管では血管の内壁の内皮細胞や血管壁内の平滑筋細胞がもつ生理学的機能の点で代替がきかないのが現状である。

 凍結保存は,このように要求の多い技術でありながら,最適な手順,方法は経験的に求められているのが現状であることを踏まえて.本研究では実際の凍結保存法の具体的な設計手順を一般化して示すことを目的とした。即ち,現象を熱物質輸送と相変化の観点から見ることにより.設計に必要な生体の情報や凍害防御剤の情報を数値として表現して,それらの数値の計測法を示す一方で,凍結保存の評価関数を提案し,その許容値を測定し,評価関数に基づいた凍害防御剤水溶液の濃度や冷却速度等の最適な制御パラメータを決定する方法を示した。

 生体は細胞群とそれを幾何的に支持する繊維によって構成されている。通常,生体は全重量の80%近くが水分であることより,凍結過程はこの水分の凍結に起因する細胞内外の化学ポテンシャル差がもたらす細胞膜を通じての水分の輸送現象と,氷晶の生成に伴う体積膨張によって特徴づけられる。細胞を冷却すると細胞外凍結が優先的におこり.それに伴う細胞外の化学ポテンシャルの低下により細胞の内外に化学ポテンシャル差が生じる。このポテンシャル差を駆動力として細胞内で過冷された自由水が細胞膜を通じて細胞外へ流出する。速度が速く.細胞内に自由水が存在しているうちに核生成温度に達すると細胞内凍結を起こして,細胞にとっては致命的な破損が生じ,冷却速度が遅いと細胞内の自由水は全て外部に流出し.細胞は過収縮をおこして,内部のイオン濃度が上昇するために細胞内の高分子の構造が不可逆変化をおこし致命傷に至る。そこで,細胞内の自由水を極力排出し.かつ細胞内の高分子の結合構造を変化させないために,凍害防御剤(C.P.A.)と呼ばれる溶質を加えた水溶液に生体をあらかじめ浸漬して,細胞内の自由水と凍害防御剤を置き換えたのち冷却-凍結をおこなうことにより上述のような凍害を防ぐのが一般に取られている方法である。従って,凍結保存は凍害防御剤を細胞内に吸収させる前処理過程と,それに続く凍結過程に分けられる。さらに,組織細胞の場合は組織内における凍害防御剤濃度と凍結過程における冷却速度を均一にする必要からも制約を受ける。

 以上より,まず,生体の凍結保存において熱物質輸送の観点より現象を決定する必要な特性値を凍害防御剤のみに依存する特性値と.生体と凍害防御剤で決まる特性値の二つにわけてそれぞれを測定あるいは定量化した。

 凍害防御剤のみに依存する特性値は.凍害防御剤水溶液の平衡状態図.粘性係数.有効熱拡散係数.密度である。

 温度変化に対する細胞外の水溶液の濃縮率と細胞外の固相率を決定する特性値である平衡状態図は,示差熱分析装置によりエチレングリコール水溶液を例にとり測定し,液相線の濃度に対する傾きが大きいほど,冷却速度に対する細胞外の水溶液の濃縮率が小さく,過濃縮を起こしにくく,共晶点温度が低濃度,低温度に存在するほど,固相率が小さく力学的ストレスが小さいことを示した。

 生体組織を均一に冷却できる限界値を与える特性値である有効熱拡散係数は,平衡状態図,密度,比熱,熱伝導率と凝固潜熱によって計算され,温度により,凝固潜熱の影響をうけて,最大2桁近く変化することを示した。

 凝固に伴う体積膨張は水溶液と氷の密度により計算され,凍害防御剤水溶液の濃度が高い方が体積膨張は小さいので細胞に与える力学的ストレスは小さいことを示した。

 生体と凍害防御剤で決まる特性値は,Tonerら細胞内核生成モデルのパラメータ,生体組織内における凍害防御剤の有効拡散係数,細胞の膜透過係数である。

 細胞内核生成の有無はTonerらの非膜透過性の水溶液中で細胞を凍結させた場合の細胞内核生成モデルを膜透過性の水溶液中で凍結する場合に拡張することにより,凍害防御剤水溶液に適応出来る様にした。即ち,細胞内の粘性係数に凍害防御剤水溶液の粘性係数を導入し.氷核の界面張力として,凍害防御剤水溶液の均質核生成温度から求めた氷と凍害防御剤水溶液の界面張力を導入することでモデルを拡張した。

 前処理過程において,生体組織内の凍害防御剤濃度を均一にする必要があるが,その際の浸潰時間を知るのに必要な生体組織内における凍害防御剤の有効拡散係数の計測法を提案し,ブタの頚動脈について,外膜と中膜にわけて計測した。その結果,凍害防御剤は外膜についてはほぼ無抵抗に浸透し,中膜については有効拡散係数の温度変化の傾向が自由空間の拡散係数とほぼ同じであることが判った。

 細胞内の水溶液の環境や細胞体積を決定しする細胞膜透過係数は.Kedem-Katchalskyの膜透過式で示される水力学的透過係数Lp,溶質透過係数,反発係数の3変数で表現される。これらをLpについては非膜透過性の水溶液を使い.はグリセリン水溶液をもちいて.細胞の体積変化を計測することにより求めた。また,上記3変数の細胞の体積変化によらない計測法を提案した。ヒト内皮細胞について上記の3変数を種々の温度について計測した結果,Lp,共に内皮細胞の細胞膜の相転移温度近傍で急激に値が減少することが判った。

 生体の凍結保存において熱物質輸送の観点より現象を決定する必要な特性値を測定あるいは定量化した後,凍結保存プロセスを評価する必要から,細胞のダメージを示す評価関数を定義し,その限界値を細胞の機能の喪失点として計測した。細胞のダメージは1)水分の凍結に伴う力学的破壊,2)非等浸透圧環境下における過収縮-過膨張,3)凍害防御剤(C.P.A)に起因する生化学的毒性が主要因であると言われている。これらのうち3)を除けば凍結の前後での細胞のサイズの大小が細胞死の評価基準として考えられるので,細胞を種々の濃度の非膜透過性水溶液に浸透圧平衡させて.そのときの細胞体積を基準濃度に対する細泡体積分率として定義し,細胞の機能を試験することにより限界最小細胞体積分率を求めた。細胞はブタ頚動脈の内皮細胞と平滑筋細胞を用いて,前者については色素排除法による膜透過機能を,後者については筋収縮-緩和機能を調べたところ,内皮細胞は限界細胞体積分率は0.2〜0.4.平滑筋細胞は0.5〜0.6程度になることが判った。

 以上で示した,特性値と評価関数を用いて.前処理-凍結過程の設計方法を提案した。前処理における凍結保存プロセスの制御パラメータは.1)凍害防御剤濃度の変化率,2)最終目的濃度,と3)凍害防御剤の生体組織への拡散緩和時間である。このうち,1)の最適条件は,生体の生存率の評価関数の一つである生体組織を構成する細胞の脱水収縮による最小体積分率.と細胞体積の緩和時間を図示した細胞収縮緩和時間-最小体積分率マップにより設計され.2)の最適値は冷却速度と凍害防御剤濃度を変数にして.生体の生存率の評価関数である凝固に伴う体積膨張率と最小体積分率を図示した凍害評価マップにより求められる。3)の最適値は生体組織内の凍害防御剤の有効拡散係数を用いた非定常拡散方程式と生体組織の代表サイズから求められる。また,凍結プロセスの制御パラメータである冷却速度は,上述の凍害評価マップを用いて最適値を推定できる。

 以上,凍結保存プロセスに必要な現象を表す特性値を計測し.計測された特性値をもちいて,生体の生存率を凝固に伴う体積膨張率と最小体積分率で評価,設計する方法を示した。これらを検証するため,ブタ頚動脈を用いて前処理-凍結に関する生存率を測定し,実験と同じ前処理-凍結プロセスをおこなった場合の評価関数を計算して得られた生存率と比較した結果,最適条件をある程度,定量的に予測することができることがわかった。

審査要旨

 本論文は、「生体組織細胞の凍結保存プロセスの決定法に関する基礎的研究」と題し、血管など多数の重層細胞よりなる生体組織を凍結保存する際に鍵となる2つの過程、即ち所定量の凍害防御剤を対象組織に浸透させる前処理過程と、この凍害防御剤を均一に含んだ組織を凍結する凍結過程とを対象に、従来経験的に模索されてきたこれらの過程を熱・物質輸送および相変化の観点から、計算機を援用して設計する手法について論じたものである。

 論文は6章より構成されており、第1章「序論」では、従来の研究および研究目的をまとめている。即ち、凍害防御剤を使用しない場合にはviabilityは冷却速度に対して極大値を持つこと、膜透過性の凍害防御剤を使用した場合には濃度が高いと冷却速度が低い場合でもviabilityが高くなることから、均一かつ高い冷却速度の実現が困難な大きさを有する生体組織を凍結保存するには、高濃度の凍害防御剤水溶液を細胞に負担がかからないように浸透させる前処理過程が必要である。前処理過程では、一般に細胞内自由水の流出と凍害防御剤の流入との競合により細胞は一旦収縮した後に体積が緩和する現象が起こる。一方、凍結過程では、緩冷却においては細胞外氷生成に起因する細胞外凍害防御剤濃度の上昇に基づく細胞内自由水の流出により細胞収縮が起こり、ある程度の急速冷却では細胞内氷生成により細胞膨張が起こる。こうした細胞の体積変化は、前処理・凍結過程における細胞の健全性を支配している。これらのことより、組織細胞体積変化を支配する熱・物質輸送過程および相変化過程を具体的に再現し凍結保存プロセスを決定する計算機援用設計法の構築を目的と定めている。

 第2章は「凍害防御剤の物性値」と題し、凍害防御剤水溶液の物性について調べ、計算機によるプロセス再現の準備を行っている。即ち、凍害防御剤水溶液の熱平衡状態図やガラス化率などを初めとする物性値の測定および定式化を行い計算の準備をするとともに、凍害防御剤水溶液としては共晶点が低濃度・低温度に存在し、液相線の濃度に対する勾配が大きいものが適していることなどを指摘している。

 第3章は「生体内の輸送特性の測定」と題し、血管内皮細胞を用いて細胞膜透過係数などの測定を行い貴重なデータを集積するとともに、膜透過係数に関する新しい測定法を提案している。また、細胞内氷核生成に関する古典的核生成理論を凍害防御剤水溶液に拡張し、計算の準備を行っている。

 第4章は「viabilityの評価」と題し、まず、色素排除法や神経伝達物質による収縮-緩和機能試験により内皮細胞や平滑筋細胞が過収縮した場合のviabilityを測定している。そして、これが細胞の等価細胞体積分率(収縮率)と関連を持つことから、浸透圧ストレスによる細胞死を限界浸透圧=等価細胞体積分率により表現することを提案し、その具体的値を求めている。

 「生体前処理-凍結プロセスの計算機援用設計」と題する第5章では、以上の物性値およびviability評価といった準備および膜透過モデルと氷核生成理論に基づき、前処理・凍結過程における熱・物質輸送過程を計算機シミュレーションしている。前処理過程については、細胞収縮緩和時間-最小体積分率マップを提案し、これと生体組織内における凍害防御剤の有効拡散係数および組織代表長さを用いることにより、段階的に凍害防御剤濃度を上げてゆくことによるviabilityの高いプロセスが設計できることを示している。凍結過程については、凍害評価マップを提案し、これと生体組織の有効熱拡散係数および組織代表長さを用いることにより限界最大冷却速度が決定できることを示している。さらに、ブタの頸動脈について、以上の方法により前処理-凍結過程を設計し、実験により提案した方法の妥当性を確認している。以上のように、本論文は、熱・物質輸送過程あるいは相変化過程といった機械工学が専門とする学域を核として生体組織の問題に取り組んだものであり、機械工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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