学位論文要旨



No 112583
著者(漢字) 松浦,幹太
著者(英字)
著者(カナ) マツウラ,カンタ
標題(和) 生体磁場逆問題における複数信号源の線形推定に関する研究
標題(洋)
報告番号 112583
報告番号 甲12583
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3861号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 廣瀬,啓吉
 東京大学 助教授 横山,明彦
 東京大学 助教授 相澤,清晴
 東京大学 助教授 廣瀬,明
内容要旨

 SQUID(超伝導量子干渉素子)を用いた生体磁気計測は、受動的かつ非侵襲的に生体の電気生理学的機能情報が得られるという点で注目されている。機能情報を調べる非侵襲的な手段としては、他に、脳波や心電図のような電位計測、機能的核磁気共鳴像(fMRI)などが知られている。生体磁気計測は、電位計測と比べると、基準電極の問題がない点、そして、生体内外を通じて透磁率が一定と見なせる点などで有利である。また、fMRIと比較すると時間分解能が1桁以上優れており、msのオーダーである。このような生体磁気計測を応用する際には、測定された磁場から生体内の磁場発生源を推定する問題すなわち生体磁場逆問題を解くことが重要である。しかし、その測定磁場が1個の信号源の作る磁場として近似できない場合にも使用できる逆問題解法は確立されておらず、様々なものが提案されているに過ぎない。本研究では、それら従来の提案では同時に達成できなかった5つの要求、すなわち

 ・計算時間が現実的であること

 ・空間的局在性の強いスパースな解が得られること

 ・個数が未知の信号源分布に対応できること

 ・3次元モデルに適用できること

 ・現実的な雑音レベルに耐えられること

 を満足すべく、逆問題解法の開発を進めた。本論文は、このようにできる限り先見情報に頼らず複数信号源を推定することによって生体磁気計測の応用範囲を広げることを目指し、理論と解析の両面から進めた研究をまとめたものである。

 本研究で提案する逆問題解法は選択的最小ノルム(SMN)法といい、生体内を細かく離散化したメッシュ点モデルを用いる。そのプロトタイプは、重み付けした信号源強度を表す未知数から、測定データと同数個を活動中の信号源として選択する。選択する組み合わせは多数存在するが、未知ベクトルのL1ノルムが最小となるものを最適解(選択的最小ノルム解)とする。他の解法と比較分類するならば、優決定領域(信号源の自由度が不十分なため測定磁場が説明できない設定)と劣決定領域(十分な自由度で測定磁場が説明できる設定)の境界に位置付けられる。この基本姿勢が、「信号源強度を表す電流双極子モーメントの線形和を評価量とする高速計算」を可能としている。その高速計算は、線形計画法の分野で確立されているシンプレックス・アルゴリズムによる。

 理論的には、システム方程式の係数行列の列ベクトルを正規化する重み付けによって各信号源が平等に評価できることを示した。その証明における仮定からのずれがあっても個数が未知の局在した双極子分布の推定にSMN法が有効であることを、古典的な最小自乗ノルム法と比較した1次元モデルの計算機シミュレーションで確認した。

 実際的な計測・解析環境への対応策としては、まず第一に、解剖学的先見情報に頼らず3次元モデルを扱う方策を2つ示した。双極子モーメントの直交2成分を独立な変数として扱う方法(直交表示SMN法)とモーメントの極表示を使用する方法(極表示SMN法)である。後者では線形計画法が利用できないが、評価関数値が局所座標系に依存しないために推定精度が向上する場合がある。その傾向は、特に立方体モデルの計算機シミュレーションで顕著であった。技術的には、線形計画法に代わるアルゴリズムとして新たにパラメトリック・シンプレックス法を考案し、実装法と高速化技法を詳述した。

 第二に、制約条件を等式から不等式へ緩和することによって、SN比が10dB以下のデータに対応できる雑音耐性を実現させた。不等式制約を規定する際には雑音の標準偏差を見積もらねばならないが、その見積もり誤差を評価した結果、真の値の±60%まで許されることが分かった。これは十分達成できる精度であり、プロトタイプの長所を損なうことなく、雑音のある3次元モデルへとSMN法が拡張された。

 実測データを3次元モデルで処理できることは、信号源が既知である生体模型実験データの解析で検証された。すなわち、「脳を模した球状ファントム実験データ」および「実験データに計算機上で人為的に雑音を加えてSN比を9.6dB以下に下げたデータ」を解析し、メッシュ点間隔以下の位置推定誤差が実現できた。さらに、理論的には任意性の残されていた正規化パラメータを実験的に評価し、自乗ノルムによる正規化が適度な重み付けであることを示した。

 次に、実際の生体磁場として、健常者の心臓磁場を解析した。その結果、P波,QRS波の発生源がそれぞれ心房興奮,心室興奮を反映した領域に推定され、定性的な生理学的知見に合致した。また、いずれの解析でも解剖学的先見知識を使わずメッシュ点を広範囲に配置したにも関わらず、支配的な解双極子は心筋組織部分に推定された。すなわち「興奮する可能性のある位置」に主要な解双極子が自動的に収束し、SMN法の3次元モデル適用可能性を支持する結果となった。P波の解析例を図1に示す。

 最後に、平仮名と片仮名を照合する短期記憶走査課題を用いた脳磁場計測実験のデータを解析した。その結果、主要な解双極子は脳溝に位置した。脳溝の詳細な判定は不十分だが、少なくとも解剖学的先見情報を使わず、神経興奮の可能性のある部位に推定された。これにより、実際の3次元モデルにおけるSMN法の有効性があらためて示された。

図1:心臓磁場のP波発生源の等磁場線図重畳表示(胸を正面から見た図).等磁場線間隔は0.5pTで,実線が体内から体外へ湧き出す磁場,破線が吸い込まれる磁場を表す.右図の波形は測定磁場と心電図の時間波形であり、丸印が推定を行った時刻を示す.電流双極子の位置は左図の太い丸印の中心で、向きは棒の指し示す向きである.モーメント強度は太い丸印の面積に比例している.

 特に、単一双極子推定解との比較検証に利用できると判断された潜時(270ms付近)では、再現性のある選択的最小ノルム解が得られた。その位置推定誤差は5mm以内であり、かつ、少なくとも20msの間はその近傍ほぼ2cm以内に安定して推定された。解剖学的には上側頭溝ないしはシルビウス溝に位置すると考えられ、視覚・聴覚双方との関連が示唆された。その潜時において単一双極子推定では測定磁場を十分フィッティングできない場合でも、選択的最小ノルム解の主要な解双極子の一部がシルビウス溝に位置する例が見られた(図2)。他の解双極子が実際の脳活動を反映しているのか雑音源を相殺するアーチファクトなのかは不明だが、当該実験パラダイムで着目した脳活動を単一双極子推定よりも確実に捉えられる可能性が示された。すなわち、SMN法による複数双極子推定は、複数の活動部位の同時観察だけでなく、擾乱の緩和にも寄与し得ることが分かった。

 以上により、開発・拡張したSMN法が冒頭の5つの要求に応える逆問題解法として有効であることが示された。

図2:潜時272.2msにおける主要な解双極子の一部のMRI重畳表示.側頭部から見た左脳の断面(Sagittal.Image)に、推定された双極子の位置をマーキングした.
審査要旨

 本論文は「生体磁場逆問題における複数信号源の線形推定に関する研究」と題し、生体磁場の複数信号源を推定して生体磁気計測の応用範囲を拡大することを目指して行った研究をまとめたものである。手法としては広義の線形推定法に基づき、できる限り先験情報に頼らず生体磁場逆問題を解くことを試みたもので、8章により構成されている。

 第1章は「序論」であり、本研究の背景と目的、および本論文の概要と構成について述べている。さらに、生体磁気計測システムに関して簡明な解説を加えている。

 第2章は「生体磁場逆問題」と題し、自由度に着目して生体磁場逆問題とその各種解法をまとめ、本研究で提案する選択的最小ノルム(SMN)法という解法を、優決定領域と劣決定領域の境界に位置づけている。さらに、その境界では信号源強度を表す電流双極子モーメントの線形和を評価量とする高速計算が可能となることを述べている。

 第3章は「選択的最小ノルム法」と題し、SMN法のプロトタイプについて、理論と計算機シミュレーションの両面から議論している。理論的側面では、未知ベクトルの絶対値ノルムを最小化する最適化問題として定式化すれば、線形計画問題を解くシンプレックス・アルゴリズムが利用できるということを述べるとともに、信号源と磁場を関係づける係数行列を正規化すれば、各信号源が平等に評価できることを証明している。その証明における単純化した仮定からのずれがあっても、局在した双極子分布の推定にSMN法が有効であることを、古典的な最小自乗ノルム法と比較した一次元モデルの計算機シミュレーションで確認している。とりわけ、SMN法の長所として、信号源の個数が未知であっても適切な強度の解が信号源に隣接した位置に推定されることを挙げている。

 第4章は「三次元モデルと雑音への対応」と題し、実際的な環境への対応策を導入している。まず第一に、解剖学的先験情報に頼らず三次元モデルを扱う方策として、電流双極子の向きを可変とした系を扱うパラメトリック・シンプレックス法を考案している。その実装法と高速化技法は付録に詳述している。このパラメトリック・シンプレックス法を使えば評価関数値が局所座標系に依存しないために推定精度が向上することを、立方体モデルにおける計算機シミュレーションで示している。第二に、不等式制約によって、SN比が10dB以下のデータに対応できる雑音耐性を実現している。不等式制約を規定する際には雑音の標準偏差を見積もらねばならないが、その見積もり誤差を評価して真の値の60%まで許されることを明らかにし、十分達成可能な値であると結論している。

 第5章は「ファントムデータ解析」と題し、信号源が既知である生体模型実験データの解析によって、SMN法を評価している。すなわち、脳を模した球ファントム実験データおよびそのデータに人為雑音を加えてSN比を10dB以下にしたデータを解析してメッシュ点間隔以下の位置推定誤差が実現できたことにより、実測データを三次元モデルで解析できることを検証している。さらに、第3章の理論では任意性が残されていた正規化パラメータを実験的に評価し、自乗ノルムによる正規化が適切であることを示している。

 第6章は「心臓磁場解析」と題し、健常者の心臓磁場を解析している。その結果、P波、QRS波の発生源をそれぞれ心房興奮、心室興奮を反映した領域に推定し、定性的な生理学的知見に合致したということが述べられている。また、解剖学的先験知識を使わずメッシュ点を広範囲に配置したにもかかわらず支配的な解が心筋組織部分に推定されたことにより、SMN法の三次元モデルにおける有効性への支持を強めている。

 第7章は「脳磁場解析」と題し、スクリーンに呈示された平仮名と片仮名を照合する短期記憶の走査過程を調査する課題に対する脳磁場計測実験のデータを解析している。ここでも解剖学的先験情報を使わず、神経興奮の可能性のある部位に信号源を推定している。これにより、実際の三次元モデルにおけるSMN法の有効性をさらに強固なものとしている。特に、単一双極子推定でも信頼性の高い解が得られるタイミングでは、位置誤差が5mm以内の解を、20ms以上の間、近傍2cm以内に安定して推定でき、単一双極子推定とのよい一致を見ている。この場所は、解剖学的には左脳上側頭溝に位置し、視覚と聴覚の双方との関連を示唆している。さらに、単一双極子では測定磁場を十分フィッティングできない場合でも、複数双極子の一部が上側頭溝に位置する解を得ている。他の解双極子が背景的な脳活動を反映しているか否かは不明としながらも、こうして当該実験パラダイムで着目した脳活動を単一双極子推定よりも確実に捕捉できることを示し、SMN法による複数信号源推定が「複数の活動部位の同時観察」だけでなく「広義の擾乱の緩和」にも寄与し得る可能性を指摘している。

 第8章は「結論」であり、本研究の成果を要約して述べている。

 以上を要するに本論文は生体磁場逆問題を解くにあたって線形推定の技術を応用し、先験情報に頼らず複数信号源を推定する手法を提案したものであり、生体磁気計測の分野へ貢献するところ大である。

 よって博士(工学)の学位論文審査に合格したものと認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54576