学位論文要旨



No 112588
著者(漢字) 欅田,英之
著者(英字)
著者(カナ) クヌギタ,ヒデユキ
標題(和) 希ガス原子の光格子に関する研究
標題(洋)
報告番号 112588
報告番号 甲12588
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3866号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 五神,真
 東京大学 助教授 三尾,典克
内容要旨

 1970年代から1980年代半ばにかけて、中性原子のレーザー冷却技術が確立された。その結果はじめて観測可能になった物理現象に光格子がある。光格子とは、空間的に周期的に変化する光シフトポテンシャル中を原子が格子状に配列する状態を言う。原子と光が相互作用するとエネルギー準位はシフトするが、円偏光と、直線偏光とでは、このシフト量が異なる。図1(a)のような、お互いに直交する偏光からなる二本の光が対向している場合、円偏光と直線偏光が交互に生じてポテンシャルをつくる。原子が動く場合、図1(b)のようにポテンシャルの山を登り、光ポンピングによってボテンシャルの底に落とされるといったことを繰り返して原子は運動エネルギーを散逸し、最終的には光格子を形成する。原子の温度は10K以下に達する。

 レーザー冷却原子の高密度化の方法を探るのは有意義なことであると考えられる。従来の磁気光学トラップでは、原子同士の二体衝突により密度が制限されている。光格子中で、原子が格子点に束縛されれば、原理的には、格子点1個に原子1個まで密度を上げられる。今回の研究では、高密度化の可能性を探るため、光格子中での原子の衝突に着目した。準安定希ガス原子(1s5)は、遷移の下準位が基底状態より12eV高いエネルギーを持つ準安定状態である。イオン化エネルギーは約16eVであり、トラップ中で衝突すると容易にイオン化がおきる。原子が光格子中に存在する場合、原子が各格子点に束縛され、直感的には、衝突によるイオンカウントが減ると予想される。今回の実験では、原子が光格子中にいる場合と、光格子から解放されて自由に運動できる場合とのイオンカウントの比較を行い、光格子中の原子の振る舞いを調べた。

図1(b) 光シフトポテンシャル中の原子の運動(偏光勾配冷却)ポテンシャルの底から離れると、(矢印A)原子は別のポテンシャル曲線(主にbまたはc)に光ポンピングされる。(矢印B) 移った先のポテンシャル上で原子は移動し、(矢印C,D)円偏光の場所に来ると、再びポテンシャルaに光ポンピングされる。(矢印E) 矢印Aの過程で、原子の運動エネルギーはポテンシャルエネルギーへと変換され、再びポテンシャルの底へと戻るので全体として原子は冷却される。また、矢印Dの過程より原子は別の格子点へとホップする。

 準安定希ガス原子の2体衝突によるイオンカウントは

 

 と表せる。光格子と、原子が自由に運動できる状態とを連続的に切り替えた場合、準安定状態原子密度が変わらないなら、llattica/lfree=Klattice/Kfreeとなり、光格子中のイオンカウントと自由空間中との比から光格子中のイオン化衝突レートがわかる。今回得られた結果では、予想に反し、ほとんどの場合光格子中の方がイオンカウントが大きい。(図2)

図2 光格子中と自由空間でのイオンカウント

 光ポンピングレートはl/2に比例し、ポテンシャルの高さはl/に比例する。(lは光強度、は離調)lやを変化させることで、イオンカウントの比の光ポンピングレート及びポテンシャル依存性がわかる。アルゴンとクリプトンについてイオンカウントの比の光ポンピングレート依存性は図3ようになった。この結果、衝突レートは、光ポンピングレートの平方根に比例している。クリプトンの方が全体としてイオンカウントの比が小さく、さらに光ポンピングレートが小さな領域ではllattica/lfree<1が達成されている。光格子中の原子の最低温度が、単位時間当たりに散乱する光子の数で決定されるので、原子の質量が大きい方が、低温化、原子の局在化には有利である。そのためクリプトンの方が同じ格子点内に長くとどまると考えられる。

 光格子中でペニングイオン化が観測されることは、原子が動いていることを示している。定常状態でも原子の拡がり方に依存して光ポンピングが生じる。図1(b)より、原子が、準位cにポンプされると、ポテンシャルが平坦なため、別の格子点に移動する。2つの原子が同じ格子点に入ると速やかに衝突するので、衝突レートは格子点間のホッピングレートと格子点の体積で決定される。

 以上の議論を考えると、原子が別の格子点に移るレートは、光ポンピングレートに比例する。今回得られた結果では、衝突レートは光ポンピングレートの平方根に比例している。格子点間を原子がランダムに動く場合、どの方向にも原子が行けるとすると原子が単位時間当たりに通過しうる格子点は光ポンピングレートに比例する。しかし、1次元方向のみに原子の運動が制限される場合、単位時間当たりに通過しうる格子点は光ポンピングレートの平方根に比例する。今回行った実験では、定在波中に節が存在するために光シフトは等方的ではなく、原子はz方向のみに運動している可能性がある。

図3 アルゴン(a)とクリプトン(b)のイオンカウント比の光ポンピングレート依存性
審査要旨

 本論文は光格子に関する本邦初の、希ガス原子の光格子に限れば世界で初めての研究成果について述べた論文である。レーザーを使って極低温まで冷却した原子気体に数本の共鳴に近い平行レーザー光を照射すると、光双極子力により光波長のオーダーの周期的ポテンシャルが形成され、原子はその周期ポテンシャルの極小点にトラップされて周期的に配列される。これは丁度、通常の結晶における結晶と電子の関係が、レーザー光が作る周期場と原子に置き換わったものに相当する。したがって、光格子中の原子は結晶中の電子が起こすのと同様な種々の現象を示すと期待され、実際、ブロッホ振動などの研究が発表されてきた。しかし、光格子は通常の結晶と異なり、常時共鳴に近い光を照射し続けることで結晶性を保っている。ところが、共鳴に近い光は、原子に保存力である光双極子力を及ぼすだけでなく、原子の内部状態の実遷移も起こす。後者は光格子中の原子のコヒーレンスを消失させる過程であるから、内部状態の遷移による緩和過程やインコヒーレントな原子の拡散過程を調べることは重要である。

 これまで光格子の研究はもっぱらアルカリ原子について行われてきた。しかし、アルカリ原子のレーザートラップ中や光格子中での緩和過程は、超微細構造や数種類の非弾性衝突過程、また、大きな弾性衝突過程が混在するために、極めて複雑で、その解析から原子のダイナミクスを論じることは必ずしも容易でなかった。これに対して準安定状態の希タスが作る光格子では、支配的な衝突過程がペニングイオン化に限られていて単純である。しかも、衝突によって生成される希ガスイオンは容易に高効率で検出できる。本研究はこの点に注目し、準安定状態にいるアルゴン、およびクリプトン原子の光格子中でのペニングイオン化衝突過程を解析することにより、光格子中での原子のダイナミクスを実験的に調べたものである。

 論文は6章から構成されている。第1章は導入部でこの研究の背景が述べられている。光格子中の原子は数マイクロケルビンまで冷却されており、この温度を達成するために数段階のプロセスが必要である。第2章は、この第一段階のプロセスであるドプラー冷却と磁気光学トラップの解説に当てられている。この段階で準安定状態の希ガス原子はおおよそ100マイクロケルビンまで冷却され、空中にトラップされる。第3章は第二段階の冷却方法である偏向勾配冷却と光格子の生成について論じている。この二つのプロセスは実験的にはレーザー配置が全く異なる独立したプロセスであるが、物理的には同一の過程である。冷却された原子に数本のレーザー光を当てると、強度あるいは偏向が周期的に変化するのに伴って、周期的なポテンシャルが出来る。この周期的ポテンシャル面は原子の基底状態の縮退数だけ存在する。原子はこの周期的ポテンシャル面の中を運動すると同時に、実際にレーザー光を吸収して励起状態に励起されることを通じて別のポテンシャル面に光ポンプされる。レーザー光線の構成と周波数を適当に選べば、この光ポンピングの過程を繰り返すことによって、原子はさらに冷却される。そして、最終的には周期ポテンシャルの極小点にトラップされる。この最終状態が光格子であり、冷却過程は偏向勾配冷却と呼ばれている。

 第4章では前二章で論じた冷却、光格子生成過程を実際に準安定希ガス原子を使って実現した実験装置、実験方法についての記述がなされている。原子のダイナミクスを研究するためには十分に高密度の光格子を生成する必要がある。これには、まず、高輝度の準安定希ガス原子線源を作ることから始めなければならない。また、最終状態の原子は数マイクロケルビンの運動エネルギーしか持たないため、残留磁場などの摂動効果を十分に、かつ迅速に取り除く必要がある。本章ではこれらの方法が詳述されている。

 第5章は本論文の中心課題であるペニングイオン化過程の測定を通じた光格子中の原子のダイナミクスの研究である。彼は、ペニングイオン化速度を種々の光格子生成条件で測定し、これを自由空間にいて同じ運動エネルギーを持った原子のペニングイオン化速度と比較している。この実験から得られた重要な発見は次の二点である。ペンイングイオン化速度は大抵の条件下で、自由空間中よりも光格子中の方が大きい。光格子中のイオン化速度はレーザー強度に如何に関わらず、原子が励起状態に励起される速度の2分の1乗に比例する。これらは単純な考察に合致しない。まず、光格子中の原子は各々、別の点に束縛されているからイオン化速度は減少するはずである。また、原子が励起されて他のサイトに移動することが衝突の原因であるとすると、励起速度に比例してイオン化速度が増加しなければならない。彼は、光格子中で原子が一次元的な運動をしているとすれば上記の実験事実をうまく説明できることを見つけた。この帰結として、原子を格子点にピン止めすることで衝突速度を減らすのは必ずしも容易でなく、出来たとしても強力なレーザーが必要であることを示した。

 光格子は、その物理的性質の面白さだけでなく、原子を規則的に、かつ、高密度に配列させる可能性があることから、非線形光学材料として、また、原子光学の手段として注目を浴びている。したがって、その中での原子の緩和過程、ダイナミクスの研究は、実際に実現できる光格子を知るために大切な研究である。本研究はこの分野で重要な貢献をしている。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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