学位論文要旨



No 112589
著者(漢字) 井上,純一
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ジュンイチ
標題(和) 励起子ボーズ凝縮とその輸送現象の理論的研究
標題(洋) Theoretical Study on Excitonic Bose-Condensate and Its Transport Phenomena
報告番号 112589
報告番号 甲12589
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3867号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 花村,榮一
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 助教授 五神,真
 東京大学 助教授 永長,直人
 東京大学 助教授 時弘,哲治
内容要旨 1研究の背景と目的

 ボーズ凝縮とは、巨視的な数のボーズ粒子が1つのエネルギー準位を占める現象である。理論的には今世紀の初めに予言されていたが、実験的な裏付けは乏しく、これまで液体ヘリウムでの超流動現象として観測されているのみである。しかしながら、近年の実験技術の進歩によって新たな系でのボーズ凝縮の可能性が見い出され、1995年にはレーザー冷却の手法を用い、3種類のアルカリ金属原子系においてボーズ凝縮が観測された。一方、固体中の現象に目を転じると、ボーズ凝縮の可能性があるとしてかねてから注目を集めていた素励起の1つである励起子においてもボーズ凝縮が近年観測され、さらにはそれに伴う超流動と考えられる特異な輸送現象も報告されている。本博士論文は励起子系で観測されたこの輸送現象を理論的にとらえ、記述していくことを目的としている。

 初めに実験の内容を簡単にまとめる。サンプルはCu2Oの単結晶を用い、着目する励起子は、電気双極子・電気四重極子禁制で10-5[s]オーダーの長い寿命を持つパラ励起子である。このサンプルの一端にレーザー光を照射して電子正孔対を励起し、緩和過程を経て励起子を形成する。励起子は他端に向かって伝播していくが、その様子はレーザー光の強度に依存しており、弱励起時は拡散的であるのに対し、励起子濃度がボーズ凝縮の臨界値を越える程度に強励起した場合には、励起子が空間的に波束を形成し弾動的に伝播していく。この伝播スピードは格子フォノンの速度に漸近していくということも見い出されている。さらに、温度依存性も報告されており、低温では弾道的に伝播するようなレーザー光強度で励起子を形成した場合でも、温度を上げていくと拡散的な振舞いをするようになっていく。以上の実験結果は、強励起下では生成される励起子がボーズ凝縮の臨界濃度を越えていること、及び波束が弾動的な伝播するという2つの点から、励起子の超流動ではないかと注目されている。

 一般に粒子が伝播する際には各種の衝突が存在し、この相互作用が拡散現象の起源となっている。このことを考えると、粒子数の増加にともなって拡散的な効果は増強されると考えられるが、励起子系で報告された実験結果はそうなっていない。この点は極めて興味深く、理論的な裏付けをすることは重要であると考えた。

2輪送方程式の導出

 理論的にこの現象を記述するに当たり、全系を他数の部分系から成っているとして、その各部分系内部は常に平衡状態である、つまり局所平衡にある、という仮定をおいた。実験系は明らかに非平衡系である。この非平衡過程の中にはいくつかの時間スケールが存在するが、ここでは3つの時間スケールを導入した。1つはレーザー光が照射され、多数の電子正孔対が励起された後、余分なエネルギーをフォノン系に放出しつつ励起子が作られるピコ秒オーダーのスケールである。この時間領域は最も平衡状態からのずれが大きい状態であり、今回は議論の対象としない。2つ目は、各部分系での運動量空間における緩和が起こるナノ秒オーダーの時間領域である。この時間領域では生成された励起子が主に音響フォノンを放出しながら、励起子の最低エネルギー準位に緩和していく。今の系ではこの準位がパラ励起子に相当している。第3の時間スケールでは各部分系の間で粒子数の交換が行なわれる。つまり、内部に含む粒子数は異なっているが、互いにエネルギー的に平衡に達した接触する部分系同士が粒子数勾配を減少させようとするものである。第2の時間スケールが運動量空間の緩和であったのに対し、この第3の時間スケールは謂わば実空間での緩和であると考えることができる。これらの時間スケールのうち、時間の分割として第3の時間スケールを採用すると、つねに局所平衡が達成され、議論すべき対象を励起子数の運動のみとすることができる。しかしながら励起子の自由度のみを考えれば十分であるというわけではなく、今の場合は格子フォノンも考慮しなければならない。これは励起子間の散乱よりも励起子フォノン間の散乱が主要であることに基づいている。この点が励起子系と液体ヘリウム系を比較した時の大きな差となっている。ヘリウム系は自由度として、ヘリウム原子のみを考えれば十分であった。従って、緩和エネルギーの放出先も原子系であったため全体として断熱過程となっている。これに対して励起子系では励起子系の持つ余分なエネルギーを格子フォノン系に移すことができる。従って、励起子は等温過程下にあると考えることができる。

 局所平衡に達している、という仮定をおいているので、各部分系では平衡状態の統計力学の結果を部分系のインデックス付きで用いることができる。つまり時刻tに代表点rで表される部分系に含まれる粒子数密度をn(r,t)とし、これをもちいて各部分系の分散関係、化学ポテンシャル、格子フォノンとの緩和系数などを表すことができる。

2.11成分モデル

 まず、ボーズ凝縮が存在しない場合を考える。この時、励起子が各部分系で従う分散関係は第ゼロ近似で放物型であるが、これでは観測された伝播の粒子密度依存性は明らかに期待できない。そこで分散関係の近似を高め、双曲型の分散に粒子数依存性を持つ項を補性項として用いることにする。この分散を持つ粒子とフォノンとの散乱による緩和時間は、半導体理論から波数の大きさに反比例することが知られている。これらを用いて一般化されたボルツマン方程式を経由し、励起子が従う輸送方程式を導くと、

 

 となる。ここでgは励起子間の斥力の強さを表し、Dは拡散系数、Bはボルツマン定数、Tは温度である。なお、照射するレーザー光の面積とサンプル断面積の比が0.7程度であることを考慮して、1次元方向のみの運動を考えた。この方程式は∂(z,t)/∂t=D’∂2u2(z,t)/∂z2という非線形拡散方程式と等価である。以上のことからボーズ凝縮を考えない場合、励起子の伝播は弾道的にはならず、波束も形成されないことが明らかになった。

2.22成分モデル

 次に、励起子がボーズ凝縮している場合を考える。この時、励起子のカレントはボーズ凝縮成分と、凝縮成分からの励起に対応するノーマル成分の2成分に分けられる。局所平衡を仮定しているので、ノーマル成分の分散関係は√n(z,t)に比例する線形分散になり、平衡分布関数としては、この分散をもつボルツマン分布を考える。一方、凝縮成分はある準位にデルタ関数的に分布しているとする。この準位はランダウのポテンシャル流方程式によって決定される。この方程式は粒子数勾配を減少させるよう速度場を決めるものであり、微視的モデルから導かれるジョセフソン方程式と等価である。また、各部分系における2つの成分の割合は、ノーマル成分の分散関係と同様にn(z,t)依存した形で書き表される。つまり、2成分の比は粒子数の移動によって変化する量となっている。なお、上述のn(z,t)依存性はHugenholtz&Pinesの理論から導かれる。

 格子フォノンとの散乱に関してはノーマル成分との間でのみで起こるとする。ここで、粒子数が非常に多く、ノーマル成分の線形分散の傾きが、格子フォノンの分散の傾きを越えている場合には緩和できず、このことが弾道的な伝播の速度の漸近値を決めていると考えられる。緩和可能な場合の緩和系数は、1成分モデルでの計算と同様にして求めることができ、緩和時間が波数の2乗に反比例するという結果を得た。

 以上から、励起子の伝播を記述する2成分モデルの方程式は、次の連立移流拡散方程式となる。

 

 ここでmは励起子の有効質量、l0はs波の散乱長である。(2)の右辺第2項が凝縮成分の伝播を表しており、sが定数であれば弾道的な性質を与える項であるが、今のモデルでは定数ではなくポテンシャル流方程式(3)によって決まっているので、弾道的な解を持つかどうかは自明ではない。そこで、これらを数値的に解く。この時、粒子数が臨界値〜1016[cm-3]を越える部分系では、連立偏微分方程式(2)、(3)を、越えていない場合には通常の拡散方程式を適用することとした。その結果、実験で得られていた、励起子の波束の形成とその弾道的な伝播という2つの実験結果の特徴を再現することができた。1成分モデルでの結果を合わせた本節での考察から、2成分を考えること、つまりボーズ凝縮の存在が本質的であると考えられる。

3超流動性に関する議論とまとめ

 次にこの現象が超流動であるか否か、という問題を考える。通常の超流動は平衡系で定義されたものであり、化学ポテンシャルの勾配なしに粒子の流れが起こるものとされている。我々が議論している系は非平衡であって、この議論をそのまま適応することはできない。そこで、超流動の定義を次のように拡張する。平衡系での超流動を電荷のある系で考えると、化学ポテンシャルの勾配がないということは電圧差ゼロとしてあらわされる。このことは電荷が抵抗をうけずに弾道的に伝播している、と解釈することができる。以上のことから、励起子が弾道的に伝播するという実験結果は正味の摩擦が働いていないことを意味し、Cu2Oで観測された結果は、この意味において超流動と呼ぶことが可能である。

 最後に、この現象を励起子の超流動ではなくフォノンウインドという概念を用いた理論との比較を行なう。伝播を記述する方程式は、非線形の移流拡散方程式であるという点は我々と共通している。しかしながら、この理論は弾道的な伝播の起源を励起子ではなくフォノンに求め、弾道的に伝播するフォノンの「風」にのって励起子が伝播すると考おり、励起子そのものが弾道的な伝播の起源になっているとする我々のモデルと対照的になっている。彼らは、超流動対フォノンウインドという観点に立っているが、そもそも彼らのフォノンウインドの定義は明らかにされていない。そこで、Abrikosovに従い、フォノンと他の粒子との衝突積分がゼロになることをフォノンウインドの定義とすると、次の議論から超流動とフォノンウインドは相反する概念ではないことがわかる。我々のモデルでは凝縮成分とフォノンとの散乱はないとしているが、これは散乱積分がゼロであることと等価である。これが弾道的な伝播を与える起源となっているが、一方ではAbrikosovの意味においてフォノンウインドであるとも考えることができ、そもそも超流動とフォノンウインドを対立させるという問題設定自身に意味がないことを指摘した。

 以上、本博士論文において、半導体中で観測された励起子の波束形成を伴った弾道的な輸送現象に関して、2成分モデルの観点から輸送方程式を求め、現象の理論的説明に成功した。

審査要旨

 本論文は「Theoretical Study on Excitonic Bose-Condensate and Its Transport Phenomena(邦題励起子ボーズ凝縮とその輸送現象の理論的研究)」と題し、Cu2O単結晶で観測された励起子のボーズ凝縮の結果生ずると思われる、波束の形成を伴うバリスティックな輸送現象を記述する理論の構築を行ったものである。

 ボーズ凝縮は、巨視的な数の粒子が1つの量子状態を占有することによって発現する現象であり、その研究は理論・実験共にきわめて精力的に行われている。しかしながら、理論・実験両者の対応は必ずしも良くない。その理由の1つには、ボーズ凝縮を起こす実験系としては、近年まで液体ヘリウムのみが存在し得たのだが、この系は強い相互作用を行っている系である為に、ボーズ系の理論の中心である「弱く相互作用するボーズ粒子の理論」によって記述することは困難であった。そこで、弱く相互作用するボゾン系として励起子系が注目されるようになり、そこでのボーズ凝縮、さらには超流動現象に興味が持たれるようになった。従って、本論文の取り扱う系、及び現象はきわめて重要であると言える。

 論文は6つの章と2つのAppendixからなっている。

 第1章では「Introduction」と題して、液体ヘリウム・アルカリ原子系・励起子系の3つを中心に、ボーズ凝縮という観点から現在行われている研究を概観している。特に、ボーズ凝縮に対して標準的な系である液体ヘリウムと励起子系を比較し、その差異が相互作用の大きさだけではなく、液体ヘリウム系が断熱過程であるのに対し励起子系は結晶の格子振動という大きな熱浴と接した等温過程に従う点を強調し、本研究の目的について述べている。

 第2章では「Experiments on Excitonic BEC and Superfluid」と題してCu2O単結晶中で観測された、ボーズ凝縮、および波束の形成を伴うバリスティックな輸送現象に関する測定結果のまとめが行われ、これの持つ意味と重要性を指摘している。

 第3章では「Theoretical Tools」と題して、現在までに確立されている弱く相互作用するボーズ粒子系の理論と、励起子ボーズ凝縮に関する理論を概観し、第4章で用いる道具立ての整理を行っている。

 第4章では「Transport Equation--Description of Excitonic Flow--」と題して、励起子が従う輸送方程式を導き、それを数値的に解くことによって、実験結果との良い一致を見ることを示している。本章は、本博士論文の主たる部分である。まず、非平衡状態下にある実験系に対して、励起子のフォノン緩和を記述するナノ秒の動力学的時間と、局所平衡に達した励起子系のマイクロ秒の流体力学的時間という特徴的な時間スケールを導入し、局所平衡に達した系に対しては、平衡状態の統計力学の結果を利用できる形にした。その後、一般化されたボルツマン方程式を経由することによって、励起子が流体力学的時間スケールで従う輸送方程式を導き出した。本論文では、(1)励起子のボーズ凝縮が存在しない場合と、(2)凝縮成分が存在する場合の2つのモデルを考察している。(1)の場合では、励起子の輸送特性が拡散型であることを示した。一方(2)の場合においては、2流体モデルを応用することにより、励起子の密度分布が、非線形の移流拡散方程式と、凝縮成分に対するポテンシャル流方程式の2つからなる連立方程式で記述されることを導いた。さらに、局所平衡に対してボーズ凝縮の判定を行いつつ、この連立方程式の初期値問題を数値的に解くことによって、実験で観測されている特徴的なバリスティックな励起子系の伝播を説明することに成功した。

 第5章では「Discussion」と題して、一般には平衡状態下で定義される超流動の概念を拡張することにより、波束の形成を伴う励起子のバリスティックな輸送現象が超流動と見なせることを論じた。また、現在までに報告されている励起子のバリスティックな輸送現象に対する他の理論との比較検討を行っている。凝縮成分の伝播速度が結晶の音速で頭打ちする実験事実は、現理論においても励起子系の集団運動を記述する音速が結晶の音速を越えると凝縮成分が破壊される事実と符合していると思われる。

 第6章では「Conclusion and Further Looking」と題して、本論文のまとめと、今後考えられる実験手段の提案、さらには将来望まれる光物性理論の展望を与えている。

 「General Review of Non-equilibrium Theory」、「Derivation of Generalized Boltzmann’s Equation」と題する2つのAppendixでは一般化されたボルツマン方程式を導くための準備と、その導出が与えられている。

 以上を要約すると、本研究はCu2O単結晶で観測された励起子のボーズ凝縮と波束の形成を伴うバリスティックな輸送現象に対する理論の構築を目的に遂行され、2流体モデルの概念を援用して直感的な概念を導入することなく、励起子の従う輸送方程式を微視的な観点から導き出し、実験結果を説明することに成功した。

 本研究の結果は物理工学への貢献が大である。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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