走査トンネル顕微鏡(STM)ならびに原子間力顕微鏡(AFM)は大気中、液中、真空中を問わず、原子・分子スケールの分解能を持つ表面解析手段であり、これまで様々な分野の研究において成功を収めている。しかし、これらの手法を有機分子、特に高分子に応用した例は、開発当初になされた期待ほどは多くない。その理由は、多くの有機分子が導電性を有しないというSTMの原理的制約のため観察が困難なこと、AFMについては観察対象が力学的に柔軟であるため得られた像が何を表現しているかの判断が困難であるためである。またSTM、AFMを通じてその大気中観察で除振対策、表面の汚染の問題など技術的な困難も多い。 本論文は、このような従来の認識を乗り越え、STM、AFMが如何に高分子観察に有効かを追求した研究である。そのため本論文中には、高分子物理、高分子化学、高分子工学において興味のある幾つかの話題が展開されている。 本論文は12章よりなる。 第1章は序論である。ここにはこの分野の簡単な歴史的経緯とSTM、AFMを用いた高分子研究についての著者の見解が述べられている。特に将来の研究の方向としてナノモルフォロジー、ナノテクノロジー、ナノレオロジーという新しい3本の柱が重要であることが述べられている。 第2章ではSTMの原理、ならびに理論が解説されている。特に現段階では未だに定説のない有機分子のSTM観察における導電メカニズムについての見解が述べられている。そこでの総括は、従来の分子吸着による基板表面の仕事関数の変調による説明、共鳴トンネル効果だけではなく多体量子論の効果が重要であることが示唆されている。 第3章ではAFMの原理、理論が解説されている。特にAFM観察の1つの代表的なモードであるフォースカーブに関わる原理と理論に多くの紙数が割かれている。ここではAFMの探針とソフトマテリアルと呼ばれる物質群の相互作用を詳細に記述するために、従来のヘルツ力学のみではなく、凝着の効果、表面吸着水による毛管効果を取り入れた理論についての言及がある。ここでの記述は、高分子表面の力学的挙動がAFMを用いてナノメートルのスケールで定量的に調べることができることを示唆している。著者はこの新しい試みを「ナノレオロジー」と呼ぶ。実際の研究は、第11章において展開される。 第4章は高分子の粘弾性的性質、ならびにガラス転移についての記述がなされている。この章の内容は第11章において実験結果を解釈するために利用される。 第5章はSTM、AFMの装置的な議論が展開されている。STMは市販の装置を利用しているが、その際に必要な注意が網羅されている。特に探針形状の影響の議論は実際の実験において大変重要であるが、そのことがよく理解されている。AFM装置は自作であり、その作製の手続きの詳細がここで述べられている。重要な点は、自作であるが故に市販の装置では到達できない条件を出せるということである。それはフォースカーブの測定に関する走査速度の広範なダイナミックレンジである。このために高分子表面の力学的挙動が温度を固定していてもかなり詳細に調べられる。この意義は大きい。またAFMを表面力測定装置として認識しているため、通常用いられるカンチレバーよりはバネ定数の大きいものが使われていることも本研究の特徴である。本章の最後には、自作である除振、防音装置についての記述がある。通常、大気中観察においてはこの対策が最も重要であるが、除振装置に施された幾つかの工夫は、何の処理の必要もない像の取得を可能にしている。 第6〜8章には著者が「ナノモルフォロジー」と呼ぶ新しい研究分野の例が記述されている。そこでは主にSTMを用いた高分子の「高次構造」の観察結果が紹介されている。 第6章は、ジェランガムという高分子多糖のダブルヘリックス構造が会合して形成されるゲルの架橋構造のSTM観察の結果が述べられている。このような観察結果は極めて稀で、その意味において本研究の重要性が確認できる。また共存するカチオンの存在が架橋構造に与える影響をSTM観察により解析し、その効果をゲルの巨視的強度の変化へ直接に結びつけ、理論的な議論も行っている。このような微視的観察を巨視的な物性の理解のサポートとするような研究は、その将来性が特に期待できる。 第7章では、ポリマクロモノマーという枝分かれ高分子が観察されている。このような特異的構造の観察はSTMが高分子の高次構造の観察に対して大変有用であることを意味している。 第8章では、高分子液晶の構造が分子オーダーで得られている。さらに液晶状態において試料にアニール処理を施すことで生じることが報告されているメソフェイズの微視的解明も行っている。 第9章はトポケミカル光重合を行う芳香族化合物のSTMによる研究例が報告されている。特に様々な基板上での分子配列制御が、基板温度をコントロールすることで実現できることを示しており、将来のナノテクノロジーの発展に寄与しうる研究である。また、真空蒸着の際に同時に光を照射しながら試料を作成した場合に、重合した構造が直接観察されている。この研究の将来が目指すものは「重合過程の直接観察」だと著者は記述しているが、そのような研究は高分子化学の重要な問題を切り開く糸口になるだろう。 第10章では、第9章と同一の分子を超高真空中でシリコン表面ならびに水素終端シリコン表面へ吸着させ、STM観察を行っている。観測された構造の詳細な解析の結果、分子吸着の影響で変調を受けたシリコンの電子状態が観測にかかっているということが結論されている。このような解釈は有機分子のSTM観察においては稀で、今後の理論的なアプローチのよい発端を与える可能性がある。また本章においては、分子初期吸着過程のメカニズムについての議論も展開されている。著者の提出する単純なモデルは、実験結果を非常にうまく説明している。このような研究もやはり将来のナノテクノロジー、特に分子デバイスといった分野の将来に対して大きな意義を持っている。 第11章は、これまでの章とは異なり、AFMによる高分子ブレンド表面の力学的物性の研究について述べられている。現状では装置の技術的な問題から試料の温度をコントロールできないため、試料として高分子ブレンドを選定し、そのブレンド比、従って試料のガラス転移温度を変化させ実験を行っている。特に興味深いのはそのガラス転移温度が室温に近い試料を用いた場合のフォースカーブの走査速度依存性である。5桁の走査速度の変化に伴い、試料がガラス的な振る舞いから粘性流体的な振る舞いへと徐々に変化していく様が観測されている。また、その間のガラス転移温度に相当すると考えられる領域では、非常に奇妙なフォースカーブが観測されており、著者はガラス転移領域における試料の不安定な力学的性質にその起源を求めている。著者のいう「ナノレオロジー」という新しい研究は、近い将来、高分子物理学において現在解きあかされていない多くの問題に応用できるものであると判断できる。 第12章は終章として、本研究で得られた一連の知見に総括が加えられている。また今後行っていくべき研究の方向性についての著者の目論見についての記述も窺える。本研究は、STM、AFMという新規な表面解析手段が、高分子を研究するのに大変有効な手段足り得ることを十分示唆できる内容を含んでいる。この分野はおそらく将来、広く発展する分野と考えられる。本研究はこの分野に多くの寄与をする研究であると見なせる。 よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。 |