学位論文要旨



No 112597
著者(漢字) 中嶋,健
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,ケン
標題(和) 走査型プローブ顕微鏡による高分子表面・界面の微視的物性の研究
標題(洋) Nanoscopic Studies on Polymer Surfaces and Interfaces by Scanning Probe Microscopy
報告番号 112597
報告番号 甲12597
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3875号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 河津,璋
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 助教授 田中,肇
内容要旨 §1始めに

 走査型トンネル顕微鏡(STM)並びに原子間力顕微鏡(AFM)は、表面・界面の解析手段として原子、分子スケールに到達する高い分解能、測定のリアルタイム性など従来の顕微法の追随を許さない特質を持つか故に、発明以来様々な分野の研究者たちに注目を浴びており、これらの新しい顕微法を有機分子、高分子などに応用しようという試みも世界中で始められている。しかし半導体・金属などの平滑な固体表面上で威力を発揮したSTM、AFMもこれらのより柔軟な系では、多くの困難が伴いそれほど多くの研究例はない。本研究の目的は現状におけるこれらの装置の限界を知り、さらにそれを克服し、STM、AFMが高分子研究にとって如何に有効であるかを示すことである。これまで著者はある特別な調整法とある測定条件の元では嵩高い構造を有する高分子のSTMによる研究が大変有効であることを示し、報告を行ってきた。これまでに、

 1.枝分かれ構造を有するポリ(マクロモノマー)

 2.ヘリックス構造を架橋点とする高分子ゲル、ジェランガム

 3.アニールによりメソ構造を形成する高分子液晶

 4.不斉認識技術により右巻き、左巻きヘリックス構造を別個に合成できる高分子

 などのSTM観察を行った。それぞれの系では、X線などの逆空間を利用する方法では決定できない特異的な構造が存在することが予言されており、それを実空間で観察することが求められていた。そういう高分子を選定して観察を行った理由は、まさにSTMの有効性を示したいがゆえであった。本要旨においては、これらの観察例の内2番目の高分子ゲルの観察結果について報告を行う(§2)。なお、本論文においては3番目の高分子液晶の結果についても記述を行っている。

 さらにSTM、AFMを用いた原子、分子オーダーの微細加工が近年世間を騒がせている。現在では半導体・金属の清浄表面上で個々の原子を格子から引き抜いたり、加えたりする技術が確立されつつある。これらの手法を用いた新規のデバイスなどの創造は、我々に近い将来目覚ましい技術革新を堤供するであろう。本研究の一部(§3、4)はそういった方向性を持つ研究の一担を担うものとして位置付けされる。

 AFMは、試料に導電性を必要としないという利点のためにSTMでは観察不可能な試料に対しても適用可能である。さらにこの方法はある利用の仕方をすると、表面の弾性率の測定が行える。しかし、現状ではその測定の感度がいかほどかについては殆ど情報がない。例えば、AFMによる弾性率の測定では、弾性率が桁で1つ異なる表面を見分けることが出来るとは言われているが、その感度に関する限界がいかほどのものであるかといった基本的な問題を系統的に調べた研究例は皆無に近い。本研究の一部はそういった基本的な部分に焦点をあてた研究を行っている。§5では、その一端としてAFMを積極的に表面力測定装置として位置づけ、接着、潤滑の分野で特に重要な高分子表面の粘弾性的性質の研究を行った例が示される。

§2STMによる高分子ゲル、ジェランガムの架橋構造の直接観察

 本研究では2重螺旋構造の形成とその会合によるゲル化メカニズムを持つ高分子多糖類ジェランガムをSTMを用いて観察した。ジェランガムは、溶液中で高温においては糸まり状、低温においては2重螺旋状態になるというコイル-ヘリックス転移が起こると考えられており、さらに低温では、ある程度以上の濃度で、これら螺旋分子が会合して架橋ドメイン構造を形成する。そしてこの架橋ドメイン構造の形成はヘリックスの融点以下の温度では、アルカリ金属イオンなどのカチオンの存在により促進されることが知られている。以上の予測をSTMでどの程度理解できるか、特に架橋構造がどのようになっているかを可視化したいというのが本研究の目的である。

図1 K+添加型ジェランガムのSTM像

 図1に得られたSTM像を示す。走査範囲は60×60nm2で、トンネル電流は0.50nA、バイアス電圧は-1.0Vであった。像の中央付近に3本のストランドが並んで配列しているのが分かる。また各ストランドの内部にも、繰り返し構造が存在している。この繰り返し構造の周期は2.59nmであった。また隣り合うストランド間の距離は2.32nmであった。以上の数値を固体状態のジェランガムのX線解析の結果と比較すると、この集合体が予想された架橋ドメインである可能性が非常に高いことが分かった。さらに像の左下と左上に別のストランドが何本か存在しており、それらがまた架橋ドメインを形成し、全体としてのゲル状態を実現していると推論される。

 さらに本研究においては、添加塩の種類を変えた場合、架橋ドメインの長さが有意に変化することも解明した。このことは第一近似的には統計力学的な架橋ドメインの長さがイオン間の結合力に比例することを考えれば説明可能であり、もしこの架橋ドメインの長さがゲルの力学強度に対して相関を持っているとすれば、この観察は巨視的・微視的な物性をつなぐ架け橋になったことになる。本研究はほんの一例に過ぎないが、最近2、3年の間にSTMは単なる観察するためのツールから、系を「調べる」ためのツールとして変貌しつつある。このような系に関する観察メカニズムが未だ解明されていないと言う問題点のみを指摘するのではなく、このような研究こそ今後増やしていくことが必要であると考えている。なぜならば、このような研究こそが、STMの有効性を示していくものだと考えているからである。

§3光重合性芳香環化合物のAu(111)面上の蒸着超薄膜のSTMによる観察

 本節ではトポケミカル光重合という一種の固体重合をする共役系芳香環化合物である1,4-bis[-pyridyl-(2)-vinyl]benzene(P2VB)分子の高真空ベースで作製した蒸着超薄膜をSTMを用いて観察した結果について述べる。トポケミカル光重合とは、図2のように、モノマー単結晶に紫外光を照射することで二重結合を開き、シクロブタン環を形成させるという特徴的な固相重合過程であるが、この系は重合前後に大きな構造変化を伴う系であるためにSTMでこの変化を検出できる可能性がある。さらに光照射前後のSTM像の比較は、構造変化に加え電子状態変化の追跡も行うので、より一般的な命題として「重合の微視的メカニズム」の解明の一助ともなりうる。

図2 P2VBとpoly-P2VBの化学構造図3 HOPG上の(a)P2VBと(b)poly-P2VB超薄膜のSTM像図4 Au(111)上のP2VB超薄膜のSTM像

 図3(a)に示すのはHOPG上のP2VB針状結晶表面のSTM像である。一方、図3(b)に示したのは、紫外光照射を行いながらの蒸着を行った場合に得られたSTM像である。図3(a)のP2VB薄膜で得られた像とは全く異なったパターンが得られた。そしてこれはpoly-P2VBに対するX線回折のデータと全くよい一致を見せている。表面を用いた新規な重合法の可能性がここに示唆されていると考えることができる。

 同様の観察を基板をAu(111)に変えた場合にも行った。この場合は薄膜成長様式に関して明確な基板温度依存性が観測された。すなわち、基板温度を室温に保った場合は、薄膜成長様式は3次元核生成&成長であったのに対し、図4に示したように蒸着中のAu基板を40℃に加熱した場合には、広い範囲で分子の配列が制御されており、単層成長様式に移行したものと考えられる。このような有機分子の配列制御については最近の報告では國武らのヨウ素修飾金基板上でのウェットプロセス法が群を抜いているが、ドライプロセスでも基板温度の制御によりそれと同等の効果が期待できることを示したことは本研究の成果の1つである。

 なお、図4の配列構造はバルクの結晶構造とは大きく異なっている。本論文においては、それがAu(111)面に特有な再構成表面であるヘリングボーン構造に強く影響を受けた選択的吸着による核生成が生じていると見なすことで解釈ができることを詳細に報告している。

§4UHV-STMを用いた光重合性芳香環化合物のSi(100)清浄表面並びに水素終端Si(100)表面への初期吸着過程

 本節で述べる研究は、STMを用いた単分子操作技術の確立と単分子物性の評価を第一の目標としている。具体的には、Si(100)表面における孤立分子の吸着状態の解明、さらにはSTMを用いた分子の電子物性の測定の可能性の検討を行うことを目的としている。ここでは、その第一段階として、将来の分子デバイスの機能発現の場として期待されるSi(100)表面への孤立有機分子の吸着挙動と電子状態をSTMを用いて調べた結果について述べる。なお本研究は日立基礎研究所との共同研究に基づく結果であり、そちらに設置されているUHV-STMを用い、蒸着P2VB分子の吸着量が10-5MLと非常に少ない条件を実現できたため、分子の初期吸着過程の研究に適していた。

 Si(100)-2×1表面へP2VB分子を蒸着した場合、各分子はランダムに、安定に吸着していることが分かった。つまり、Si(100)-2×1清浄表面のように化学的に活性な表面上では、分子はSiのダングリングボンドに強く化学吸着しており長距離拡散はほとんどできないと示唆される。さらに図5に示したように、分子の吸着構造は4種類と有限であった。各分子は図5(d)を除いて、すべて3つの輝点として観測されている。一見すると、この3つの輝点は分子の3つの芳香環に対応しているように見える。そして図5(a)から(c)では、それぞれ分子がタイマー列に対して、(a)斜めに、(b)平行に、(c)重直に吸着しているとみなせる。しかし、そういった単純なモデルでは図5(d)の2つの輝点の起源を説明することはできない。結論を述べれば、吸着位置の詳細の同定と各像の電圧依存性を調べることにより、本研究で得られた像はすべて占有状態の増大を伴うSiダイマーの電子状態の変化で説明でき、その原因として吸着分子の化学吸着が寄与していると考えられることが分かった。つまり分子そのものではなく、分子吸着によって変調を受けたSiダイマーの電子状態を観察しているのである。こういった観察は、こと有機分子のSTM観察に置いては珍しい。本研究の特徴がここに表れている。

図5 Si(100)-2×1表面上のP2VBの異なる4種類の吸着構造

 なお、図5の4種の吸着構造は、その出現確率を異にしている。本論文においては、その現象が分子の形と大きさを考えるだけの単純なモデルでかなりうまく記述できることを示している。さらに水素終端Si(100)表面上への分子の吸着が、自然に欠陥として残っているダングリングボンドへ選択的に起こっていることにも言及している。

§5原子間力顕微鏡を用いた高分子ブレンド表面のナノレオロジーの試み

 著者はAFMが微視的な表面力測定装置として積極的に位置付けられないかどうかという課題に興味がある。特にソフトマテリアルの力学的挙動をAFMを用いてナノメートルスケールで検出する際の利点、並びに問題点を網羅しておきたいという目的意識を持っている。そこで本研究では、自作のAFMを用い接着、潤滑の分野でも重要な因子となる高分子ブレンド表面の粘弾性的性質の研究を行った。

 以上の目的意識のために、主にフォースカーブ(force curve:FC)の測定を行った。FCは通常、顕微鏡としての動作点の特定のために測定するものであり、試料表面の弾性率よりも相対的に柔らかいカンチレバーを用いるため、測定にかかるのはカンチレバー自身の変形である。しかし用いるカンチレバーの弾性定数が試料表面のそれを上回る場合には、試料側の変形を促すこともできる。ここで述べるのはそういった方向性でFCを測定した例であり、そこに本研究の独創的な点がある。

 用いた試料は、ブレンド比を制御することでその力学的性質を自由に変化させることのできるポリスチレン(PS)とポリビニルメチルエーテル(PVME)のブレンドのキャスト膜である。通常PSは室温では完全にガラス状であり、その弾性率がGPaのオーダーである。一方、PVMEは流動状であり、MPaのオーダーの弾性率を持っているため、ブレンド比により弾性率をその範囲で連続的に変化できる。力学的物性の標準としてこのブレンドを採用した理由はここにある。

 異なる2種類のFC測定モードを採用した。1つ目は準静的FC測定と呼ぶべきもので、これはピエゾ素子にかける電圧をマニュアルに設定し探針が1nmずつ試料に近づくようにし、系が安定するのを待ってその時の力を測定するというものである。このような測定は自作AFMならではのもので市販の装置を用いては実現できない。この場合は、通常分離の難しい起源の異なる熱力学的な面と面の凝着力と界面に存在する水等に起因する毛管力を分離して観測することに成功した。

 2つ目の実験では、高分子ブレンド系の粘性的な寄与を浮き彫りにするために、FCの速度依存性の検証を行った。測定結果の一例として、PS濃度が40%の場合の結果を図6に示す。このような動的な方法では巨視的な実験でもしばしば観測されるように、温度-時間換算則的な高分子の振る舞いが顕著に現れているのが分かる。PS40%の試料は室温では流動状態にある。しかし速い刺激に対してはガラスのように振る舞うのである。驚くべきことはこれがナノメートルサイズの領或でも観測されたということである。このような微視的な領域でもこの法則が成立することを発見したことは、本研究の大きな成果である。このように微視的な粘弾性の測定では、様々な現象が生じうる可能性があり、それを調べるのにAFMが非常に有効な手段だと分かる。今後この分野をナノレオロジーと名付け、さらに研究を続けていきたいと考えている。

図6 PS40%の試料に対するFCの速度依存性
審査要旨

 走査トンネル顕微鏡(STM)ならびに原子間力顕微鏡(AFM)は大気中、液中、真空中を問わず、原子・分子スケールの分解能を持つ表面解析手段であり、これまで様々な分野の研究において成功を収めている。しかし、これらの手法を有機分子、特に高分子に応用した例は、開発当初になされた期待ほどは多くない。その理由は、多くの有機分子が導電性を有しないというSTMの原理的制約のため観察が困難なこと、AFMについては観察対象が力学的に柔軟であるため得られた像が何を表現しているかの判断が困難であるためである。またSTM、AFMを通じてその大気中観察で除振対策、表面の汚染の問題など技術的な困難も多い。

 本論文は、このような従来の認識を乗り越え、STM、AFMが如何に高分子観察に有効かを追求した研究である。そのため本論文中には、高分子物理、高分子化学、高分子工学において興味のある幾つかの話題が展開されている。

 本論文は12章よりなる。

 第1章は序論である。ここにはこの分野の簡単な歴史的経緯とSTM、AFMを用いた高分子研究についての著者の見解が述べられている。特に将来の研究の方向としてナノモルフォロジー、ナノテクノロジー、ナノレオロジーという新しい3本の柱が重要であることが述べられている。

 第2章ではSTMの原理、ならびに理論が解説されている。特に現段階では未だに定説のない有機分子のSTM観察における導電メカニズムについての見解が述べられている。そこでの総括は、従来の分子吸着による基板表面の仕事関数の変調による説明、共鳴トンネル効果だけではなく多体量子論の効果が重要であることが示唆されている。

 第3章ではAFMの原理、理論が解説されている。特にAFM観察の1つの代表的なモードであるフォースカーブに関わる原理と理論に多くの紙数が割かれている。ここではAFMの探針とソフトマテリアルと呼ばれる物質群の相互作用を詳細に記述するために、従来のヘルツ力学のみではなく、凝着の効果、表面吸着水による毛管効果を取り入れた理論についての言及がある。ここでの記述は、高分子表面の力学的挙動がAFMを用いてナノメートルのスケールで定量的に調べることができることを示唆している。著者はこの新しい試みを「ナノレオロジー」と呼ぶ。実際の研究は、第11章において展開される。

 第4章は高分子の粘弾性的性質、ならびにガラス転移についての記述がなされている。この章の内容は第11章において実験結果を解釈するために利用される。

 第5章はSTM、AFMの装置的な議論が展開されている。STMは市販の装置を利用しているが、その際に必要な注意が網羅されている。特に探針形状の影響の議論は実際の実験において大変重要であるが、そのことがよく理解されている。AFM装置は自作であり、その作製の手続きの詳細がここで述べられている。重要な点は、自作であるが故に市販の装置では到達できない条件を出せるということである。それはフォースカーブの測定に関する走査速度の広範なダイナミックレンジである。このために高分子表面の力学的挙動が温度を固定していてもかなり詳細に調べられる。この意義は大きい。またAFMを表面力測定装置として認識しているため、通常用いられるカンチレバーよりはバネ定数の大きいものが使われていることも本研究の特徴である。本章の最後には、自作である除振、防音装置についての記述がある。通常、大気中観察においてはこの対策が最も重要であるが、除振装置に施された幾つかの工夫は、何の処理の必要もない像の取得を可能にしている。

 第6〜8章には著者が「ナノモルフォロジー」と呼ぶ新しい研究分野の例が記述されている。そこでは主にSTMを用いた高分子の「高次構造」の観察結果が紹介されている。

 第6章は、ジェランガムという高分子多糖のダブルヘリックス構造が会合して形成されるゲルの架橋構造のSTM観察の結果が述べられている。このような観察結果は極めて稀で、その意味において本研究の重要性が確認できる。また共存するカチオンの存在が架橋構造に与える影響をSTM観察により解析し、その効果をゲルの巨視的強度の変化へ直接に結びつけ、理論的な議論も行っている。このような微視的観察を巨視的な物性の理解のサポートとするような研究は、その将来性が特に期待できる。

 第7章では、ポリマクロモノマーという枝分かれ高分子が観察されている。このような特異的構造の観察はSTMが高分子の高次構造の観察に対して大変有用であることを意味している。

 第8章では、高分子液晶の構造が分子オーダーで得られている。さらに液晶状態において試料にアニール処理を施すことで生じることが報告されているメソフェイズの微視的解明も行っている。

 第9章はトポケミカル光重合を行う芳香族化合物のSTMによる研究例が報告されている。特に様々な基板上での分子配列制御が、基板温度をコントロールすることで実現できることを示しており、将来のナノテクノロジーの発展に寄与しうる研究である。また、真空蒸着の際に同時に光を照射しながら試料を作成した場合に、重合した構造が直接観察されている。この研究の将来が目指すものは「重合過程の直接観察」だと著者は記述しているが、そのような研究は高分子化学の重要な問題を切り開く糸口になるだろう。

 第10章では、第9章と同一の分子を超高真空中でシリコン表面ならびに水素終端シリコン表面へ吸着させ、STM観察を行っている。観測された構造の詳細な解析の結果、分子吸着の影響で変調を受けたシリコンの電子状態が観測にかかっているということが結論されている。このような解釈は有機分子のSTM観察においては稀で、今後の理論的なアプローチのよい発端を与える可能性がある。また本章においては、分子初期吸着過程のメカニズムについての議論も展開されている。著者の提出する単純なモデルは、実験結果を非常にうまく説明している。このような研究もやはり将来のナノテクノロジー、特に分子デバイスといった分野の将来に対して大きな意義を持っている。

 第11章は、これまでの章とは異なり、AFMによる高分子ブレンド表面の力学的物性の研究について述べられている。現状では装置の技術的な問題から試料の温度をコントロールできないため、試料として高分子ブレンドを選定し、そのブレンド比、従って試料のガラス転移温度を変化させ実験を行っている。特に興味深いのはそのガラス転移温度が室温に近い試料を用いた場合のフォースカーブの走査速度依存性である。5桁の走査速度の変化に伴い、試料がガラス的な振る舞いから粘性流体的な振る舞いへと徐々に変化していく様が観測されている。また、その間のガラス転移温度に相当すると考えられる領域では、非常に奇妙なフォースカーブが観測されており、著者はガラス転移領域における試料の不安定な力学的性質にその起源を求めている。著者のいう「ナノレオロジー」という新しい研究は、近い将来、高分子物理学において現在解きあかされていない多くの問題に応用できるものであると判断できる。

 第12章は終章として、本研究で得られた一連の知見に総括が加えられている。また今後行っていくべき研究の方向性についての著者の目論見についての記述も窺える。本研究は、STM、AFMという新規な表面解析手段が、高分子を研究するのに大変有効な手段足り得ることを十分示唆できる内容を含んでいる。この分野はおそらく将来、広く発展する分野と考えられる。本研究はこの分野に多くの寄与をする研究であると見なせる。

 よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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