学位論文要旨



No 112599
著者(漢字) 若尾,泰通
著者(英字)
著者(カナ) ワカオ,ヤスミチ
標題(和) 動的赤外分光法による緩和現象の微視的研究
標題(洋)
報告番号 112599
報告番号 甲12599
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3877号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 田中,肇
 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 高木,堅志郎
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 助教授 酒井,啓司
内容要旨 1.はじめに

 緩和現象は分子レベルのダイナミクスを反映している。これまでの一般的な緩和測定は系に外場を加え、系の示す外場の熱力学的共役量を測定するものであった。例として誘電緩和測定では系に電場を加え、系に流れる変位電流を測定する。このような巨視的緩和測定の結果から分子レベルのダイナミクスについて知見を求めることは、本質的に困難を伴うこととなる。本研究では特にソフトマテリアルと称される内部自由度の大きな系の緩和現象に注目している。そこで緩和過程における分子レベルのダイナミクスをより直接的に測定する手法として動的赤外分光法(以下DIR)を開発した。DIRは官能基をプローブとして用いることにより分子レベルのダイナミクスを測定する。

 具体的に図1に示すような分子の外場に対する応答が分子上の場所によって異なるモデルを考える。分子上で誘電率の異方性が異なる場合などがこれにあてはまる。このような系に線形応答性を保証する程度の弱い正弦的に変化する外場を加える。この時外場に強く応答する部分Aはそれ以外の部分Bよりも早く電場に応答する。そこへ偏光赤外光を入射させ、官能基が示す吸光度を測定する。吸光度は偏光赤外光の電場ベクトルと官能基の双極子モーメントとの内積の二乗に比例する。分子上の各官能基はその部分の外場応答に伴ってその方向を変化させるため官能基の偏光赤外光に対する吸光度は正弦的に変化する。吸光度の変化はその官能基が存在する部分のダイナミクスを反映する。つまり部分Aに存在する官能基の吸光度変化は電場に対して位相遅れが小さく部分Bのものは位相遅れは大きくなる。これを緩和挙動の点から見ると部分Aは部分Bに比べ緩和周波数、緩和強度が共に大きい。逆に官能基の吸光度変化から分子局所の応答について情報が得られる。また、図1で示した官能基に対して直交する官能基を考えると電場下で吸光度が小さくなることから、官能基の方向に応じて緩和強度が負になる場合もあることが分かる。

図1 外場に応答する分子と官能基の方向変化

 動的赤外分光法は正弦的に変化する外場を系に加え偏光赤外光に対する吸光度の変化を測定し、さらに、摂動周波数を変えて測定を繰り返すことにより周波数領域における緩和測定を実現する。上で見たように動的赤外分光法は系を分子の集合としてでなく官能基の集合として捉えた緩和測定装置である。本研究では動的赤外分光法装置を用いて強誘電性液晶の電場配向緩和現象を測定した。液晶のダイナミクスを赤外分光法を用いて測定した例はあるが、それらは強い電場下における非線形なステップ応答の測定であった。本研究では弱い電場下における線形な緩和ダイナミクスを測定する。我々の興味は強誘電性液晶の平衡状態における分子ダイナミクスにある。

2.動的赤外分光法装置

 フーリエ変換赤外分光法装置(以下FTIR)を改良して作製した。FTIRはマイケルソン型干渉系を用い干渉系の出力光(インターフェログラム)を光路差の関数として測定する。これを光路差についてフーリエ変換すると透過スペクトルを得ることができる。一般に移動鏡は等速度で移動するためインターフェログラムは時間変化する。このまま試料に摂動を加えると、受光素子で測定された強度の時間変化は光路差の変化によるものか、試料の変化によるものか分からない。そこでインターフェログラムの各測定点でいったん移動鏡を停止させる。これにより、各光路差での透過光強度の変化は試料の応答によるものだけとなる。この方式はステップスキャン型赤外分光法装置と呼ばれる。ナイキストの定理から光源のスペクトル範囲を考慮してステップ幅0.4m、ステップ数1060とした。試料を透過した赤外光の変化成分は摂動周波数を参照する二位相ロックインアンプにより検出される。その結果一つの周波数について外場に対する同位相成分と90度位相遅れ成分の二本の動的インターフェログラムが得られる。これらをフーリエ変換すると吸光度の変化成分について動的赤外スペクトルが得られる。

図2 動的赤外分光法装置のブロックダイアグラム

 ロックインアンプの時定数は1秒に設定しているが、その結果一点の測定に約7秒かかり一つの摂動周波数に対する動的インターフェログラムを測定するのに約2時間必要となる。そのため測定系の長時間安定性が要求されるが、主たる不安定要因は干渉系に熱膨張によるもので1Kの温度変動で光路差が0.3m変動する。そのため干渉系を温度制御し2時間で0.2K以下の変動を実現している。その他測定精度を上げるため、ステッピングモータの位置精度は50nm、赤外光検出器のプリアンプの入力換算雑音は0.7nV/at1kHzである。また、赤外顕微システムにより不均一な試料の微小な一様領域の測定が可能である。この特長はポリマーアロイのような不均一性が重要である系の測定において特に有効である。図2では、電場を外場として加えるようになっているが、粘弾性測定をDIRで行えるように可視化粘弾性測定装置も作成した。温度調節器の絶対精度、安定度は共に0.1Kである。

3.強誘電性液晶の電場配向緩和現象の観察

 強誘電性液晶相(SmC*相)に弱い振動電場を加え、SmC*相におけるゴールドストーンモードのダイナミクスを測定した。SmC*相において分子は螺旋構造を描くよう配向し、かつ螺旋軸を法線とする層を形成する。よって、一般的に各層内における分子を軸が螺旋軸に平行な円錐面上に存在する棒状分子として扱っている。強誘電性液晶は分子軸に垂直に永久双極子モーメントを持つが、その方向はSmC*相では円錐面内方向を向いていることが対象性の議論から分かっている。SmC*相におけるゴールドストーンモードは図3におけるような円錐面上を滑る運動である。

図3 SmC*相におけるゴールドストーンモード

 試料には単一成分強誘電性液晶である2-metylbutyl-4-(4-octyloxy-benzoloxy)-benzoateを用い、静的な吸光度ピークと管能基とを対応させた後、動的赤外分光法により測定を行った。偏向赤外光の方向は螺旋軸に45度である。測定結果は各吸光度ピークが緩和することを示した(図4)。本研究では緩和の分散を考慮したフィッティング関数を用いた。

図4 吸光度ピークの緩和挙動とフィッティングによる緩和曲線

 

 は緩和強度、f0は緩和周波数、は分散パラメータである。測定領域は30m×30mと微小であるため配向状態は一様と考えられる。よって分散は官能基の電場に対する応答のバラツキによって生じるものである。図1を例に取れば外場と相互作用が強いほど分子間で応答の違いが小さいため緩和挙動の分散も小さいことが予想される。図5から各官能基がほぼ同じ緩和挙動を示すことが分かる。また、動的複屈折による巨視的緩和測定の結果も同様の緩和周波数及び分散を示す。つまり分子は剛体の棒の様に電場に対して全体が一様に応答する。系が構造を持つ場合、緩和強度は官能基の易動度と無摂動下での方向とに依存する。SmC*相の場合

 

 となる。Aは官能基の易動度、は官能基の双極子モーメントの円錐面に垂直な成分、は官能基と円錐軸の成す角を示す。用いた試料の場合、永久双極子はC=Oが担っているから、C=O伸縮振動は円錐面内方向を向く。即ちが小さいため緩和強度は小さくなることが予想される。上の議論から各官能基の易動度はほぼ等しい。よって官能基の方向にのみ依存して緩和強度は決定されている。

図5 各官能基の示す緩和周波数と分散の緩和の関係

 緩和強度が特に強いものと、弱いものについてその方向を決定した。緩和強度の大きな吸光度ピークとして以下のものが挙げられる。1610(ベンゼン環の伸縮振動)、1020(ベンゼン環のC-H面内振動)、885(ベンゼン環のC-H面外振動)。一方緩和強度の小さなものとして、1720(C=O伸縮振動)、1260(CO-O対称振動)がある。緩和強度が強いものはその双極子モーメントが螺旋軸から45度の傾きを持ち、弱いものは円錐面内方向を向くとして管能基を円錐面上に置くと図7のようになる。よってSmC*相における統計的な分子のコンフォメーションにおいてC=Oとベンゼン環は同一平面内に存在することが分かる。この結果は静的な吸光度スペクトルの偏向方向依存性を矛盾なく説明する。

図7 静的な吸光度スペクトルと緩和強度。(一)は緩和強度が負であることを示す。
4.まとめ

 緩和過程を分子レベルで直接測定するための動的赤外分光法装置を開発し、強誘電性液晶相におけるゴールドストーンモードのダイナミクスを測定した。その結果分子全体が剛体のように一様に動くことが分かった。さらに緩和強度(応答振幅)の大きさの比較から官能基の方向について知見が得られ、その結果、分子の形について情報を得ることができた。更にこの結果は分子間相互作用について新たな理解をもたらすものと期待できる。

 動的赤外分光法は内部自由度の大きないわゆるソフトマテリアル全般の緩和現象に適用可能である。また外場の種類に制限はない。動的赤外分光法はあらたに分子レベルの具体的な緩和過程について情報をもたらすと期待できる。

図6 緩和強度から求めた官能基の方向
審査要旨

 液晶、高分子に代表されるソフトマテリアルの緩和過程は、系の大きな内部自由度が巨視的に反映されたものである。内部自由度は系の構造、及び系を構成する分子に起因するため、分子レベルのダイナミクスについて知見を得る手法として、これまで広く緩和測定は行われてきたが、その多くは系に摂動を加え、摂動の熱力学的共役量(歪みに対する応力、電場に対する変位電流)を測定するものであった。しかし、巨視的な物理量の測定結果から分子レベルのダイナミクスについて知見を得ることは本質的に困難をともなう。本論文ではこのような巨視的緩和測定に代わり、緩和過程における分子レベルのダイナミクスを直接測定することを目指して、動的赤外分光法を用いた微視的緩和測定装置を開発し、強誘電性液晶の電場配向緩和現象を測定している。本論文は5章からなる。

 第1章において研究の目的を示し、第2章において、動的赤外分光法の原理についてまとめている。動的赤外分光法は赤外活性な官能基をプローブとして外場に対する系の応答を分子レベルで測定する。外場に応答して、分子はその方向及び形を変化させ、それに伴って分子に存在する官能基もその方向を変化させる。よって、外場下にある系に偏光赤外光を入射させ、その透過光強度の変化を測定することにより(吸光度は官能基の遷移双極子モーメントと赤外光の電場ベクトルの内積の二乗に比例することから、)官能基の動きについて知見を得ることが可能となる。各官能基は固有の吸光度ピークを持つことから、各吸光度の外場に対する応答によって、対応する官能基の応答について知見が得られる。すなわち動的赤外分光法によって、これまで分子の集合体として扱われてきた系を、官能基の集合体という微視的レベルで具体的に捉えられることが可能となる。

 第3章では、本論文において開発した動的赤外分光法による微視的緩和測定装置についてまとめている。これまでにも、赤外分光法を用いて糸の変化を測定した例はあるが、それらは強い外場下における非線形な緩和挙動の測定であったり、外場の周波数が固定されたものであった。本論文における微視的緩和測定装置は緩和周波数が数Hzから数百kHzまでの線形緩和過程に適用可能なものである。非線形な緩和挙動に比べ線形な緩和過程における応答は非常に弱いため、高い測定精度を得るために周波数域での緩和測定を行う。微視的緩和測定装置はステップスキャンタイプのフーリエ変換型赤外分光法装置を改良して作成した。これは外場に応答して系が変化することによる透過光強度の時間変化と干渉系の移動鏡による出射光の時間変化を分離するためである。各測定点において移動鏡を静止させ、そこで透過光強度の変化を摂動周波数を参照したロックインアンプにより検出することで摂動周波数に制限はなくなっている。ロックインアンプの時定数の為に、各摂動周波数に対する動的スペクトルを得るには約2時間を要する。よって全測定を終了するために20時間以上を要し測定系の安定性が要求されるため、干渉系、受光部の安定性について特に注意を払っている。また本測定装置は赤外顕微鏡システムを用いている。これによって30m四方の微小領域の測定が可能となり、状態がマクロには一様ではない系においても微小な一様領域について測定が可能となっている。

 第4章では、作成した微視的緩和測定装置を用いて強誘電性液晶の電場配向緩和現象を測定している。強誘電性液晶は分子軸に垂直に永久双極子モーメントを有し、強誘電性液晶相(SmC*相)において層面内方向に分極を発現する。SmC*相は層構造をもち分子は層法線方向から傾いている。この傾いている方位角は層法線方向にしたがって少しずつ変化するため、SmC*相においては配向が層法線方向に螺旋を描くこととなる。そのため、SmC*相における分子の配向状態は円錐面上に存在する棒状分子として表現することができる。このような系に弱い交流電場を加えたときに励起されるのはSmC*相におけるゴールドストーンモードと同じ運動であり、分子は円錐面上を方位角方向に滑るように動く。測定の結果、各吸光度ピークはほぼ同じ緩和挙動を示すことから、分子は剛体棒のように全体が一様に運動していることが明らかとなった。SmC*相のように系が平衡状態において構造を持つ場合、吸光度スペクトルに現れる緩和強度は平衡状態における官能基の方向に依存する。各官能基の緩和挙動が同じであることから、緩和強度の違いは平衡における官能基の方向にのみ依存するため、緩和強度の比較から平衡状態における官能基の方向について知見が得られ、さらには緩和過程における分子の形態についても知見を得ることが可能となった。

 第5章において、本論文を総括し、動的赤外分光法による微視的緩和測定の他の緩和現象への適用について述べている。

 本論文において開発された分子レベルの緩和測定法は、これまでの巨視的緩和測定法と異なり、分子レベルのダイナミクスを直接測定するものであり、緩和測定に新たな地平を切り拓くものと期待され、強誘電性液晶の電場配向緩和現象の観察においてその可能性を実証している。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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