液晶、高分子に代表されるソフトマテリアルの緩和過程は、系の大きな内部自由度が巨視的に反映されたものである。内部自由度は系の構造、及び系を構成する分子に起因するため、分子レベルのダイナミクスについて知見を得る手法として、これまで広く緩和測定は行われてきたが、その多くは系に摂動を加え、摂動の熱力学的共役量(歪みに対する応力、電場に対する変位電流)を測定するものであった。しかし、巨視的な物理量の測定結果から分子レベルのダイナミクスについて知見を得ることは本質的に困難をともなう。本論文ではこのような巨視的緩和測定に代わり、緩和過程における分子レベルのダイナミクスを直接測定することを目指して、動的赤外分光法を用いた微視的緩和測定装置を開発し、強誘電性液晶の電場配向緩和現象を測定している。本論文は5章からなる。 第1章において研究の目的を示し、第2章において、動的赤外分光法の原理についてまとめている。動的赤外分光法は赤外活性な官能基をプローブとして外場に対する系の応答を分子レベルで測定する。外場に応答して、分子はその方向及び形を変化させ、それに伴って分子に存在する官能基もその方向を変化させる。よって、外場下にある系に偏光赤外光を入射させ、その透過光強度の変化を測定することにより(吸光度は官能基の遷移双極子モーメントと赤外光の電場ベクトルの内積の二乗に比例することから、)官能基の動きについて知見を得ることが可能となる。各官能基は固有の吸光度ピークを持つことから、各吸光度の外場に対する応答によって、対応する官能基の応答について知見が得られる。すなわち動的赤外分光法によって、これまで分子の集合体として扱われてきた系を、官能基の集合体という微視的レベルで具体的に捉えられることが可能となる。 第3章では、本論文において開発した動的赤外分光法による微視的緩和測定装置についてまとめている。これまでにも、赤外分光法を用いて糸の変化を測定した例はあるが、それらは強い外場下における非線形な緩和挙動の測定であったり、外場の周波数が固定されたものであった。本論文における微視的緩和測定装置は緩和周波数が数Hzから数百kHzまでの線形緩和過程に適用可能なものである。非線形な緩和挙動に比べ線形な緩和過程における応答は非常に弱いため、高い測定精度を得るために周波数域での緩和測定を行う。微視的緩和測定装置はステップスキャンタイプのフーリエ変換型赤外分光法装置を改良して作成した。これは外場に応答して系が変化することによる透過光強度の時間変化と干渉系の移動鏡による出射光の時間変化を分離するためである。各測定点において移動鏡を静止させ、そこで透過光強度の変化を摂動周波数を参照したロックインアンプにより検出することで摂動周波数に制限はなくなっている。ロックインアンプの時定数の為に、各摂動周波数に対する動的スペクトルを得るには約2時間を要する。よって全測定を終了するために20時間以上を要し測定系の安定性が要求されるため、干渉系、受光部の安定性について特に注意を払っている。また本測定装置は赤外顕微鏡システムを用いている。これによって30m四方の微小領域の測定が可能となり、状態がマクロには一様ではない系においても微小な一様領域について測定が可能となっている。 第4章では、作成した微視的緩和測定装置を用いて強誘電性液晶の電場配向緩和現象を測定している。強誘電性液晶は分子軸に垂直に永久双極子モーメントを有し、強誘電性液晶相(SmC*相)において層面内方向に分極を発現する。SmC*相は層構造をもち分子は層法線方向から傾いている。この傾いている方位角は層法線方向にしたがって少しずつ変化するため、SmC*相においては配向が層法線方向に螺旋を描くこととなる。そのため、SmC*相における分子の配向状態は円錐面上に存在する棒状分子として表現することができる。このような系に弱い交流電場を加えたときに励起されるのはSmC*相におけるゴールドストーンモードと同じ運動であり、分子は円錐面上を方位角方向に滑るように動く。測定の結果、各吸光度ピークはほぼ同じ緩和挙動を示すことから、分子は剛体棒のように全体が一様に運動していることが明らかとなった。SmC*相のように系が平衡状態において構造を持つ場合、吸光度スペクトルに現れる緩和強度は平衡状態における官能基の方向に依存する。各官能基の緩和挙動が同じであることから、緩和強度の違いは平衡における官能基の方向にのみ依存するため、緩和強度の比較から平衡状態における官能基の方向について知見が得られ、さらには緩和過程における分子の形態についても知見を得ることが可能となった。 第5章において、本論文を総括し、動的赤外分光法による微視的緩和測定の他の緩和現象への適用について述べている。 本論文において開発された分子レベルの緩和測定法は、これまでの巨視的緩和測定法と異なり、分子レベルのダイナミクスを直接測定するものであり、緩和測定に新たな地平を切り拓くものと期待され、強誘電性液晶の電場配向緩和現象の観察においてその可能性を実証している。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |