Å〜nmサイズの膜厚を持つ薄膜、多層膜の研究は、これまでに見られなかった新しい物性の発見により、今や科学技術の主要分野の一つとなっている。 金属薄膜、多層膜の分野では1980年代にいくつかの系で垂直磁気異方性や巨大磁気抵抗効果等の特異な磁気的あるいは電気的性質が発見されてから、急速に物性起源の解明、機能性の向上、あるいはさらなる新物性の探索に関する研究がなされている。 金属薄膜、多層膜に見られる物性は、構造、特に界面の構造に対して極めて影響を受けやすいことが知られており、ほとんどの物性の起源に関して統一的な見解が得られていない。膜厚がきわめて薄い膜の物性の起源を解明するためには、構造の正確な把握が不可欠である。そのため、薄膜の成長過程をその場観察する手法、作製された膜をX線や電子線等を用いて調べる手法などを駆使して薄膜の構造を三次元的に定量評価し、構造と物性との相関関係を調べる努力が続けられている。 一方、近年人工的に薄膜の成長や異種物質界面の構造を制御しようという試みがなされてきた。中でもサーファクタントエピタキシーは、薄膜の成長様式を島状成長から層状成長に変える手法として知られ、これはまた、構造、化学組成的に急峻な異種物質界面を得るための有力な手法となりつつある。サーファクタントエピタキシーとは、1原子層以下の異種元素を予め表面に付着させておき、薄膜の成長中これを表面偏析させ、成長表面を平坦化させる成長制御法である。従って、サーファクタントエピタキシーを利用して多層膜を作製すれば、通常の作製法による多層膜よりも急峻な界面をもつ多層膜が実現されると予想され、物性の起源がどのような構造に起因するのかという問に対して有力な知見が得られると考えられる。しかし、サーファクタントがどのようなメカニズムで薄膜の成長様式を島状成長から層状成長に変化させるのか、現在のところ全く分かっていない。 本研究は、(1)新しい系においてサーファクタントエピタキシーを試み、サーファクタントが薄膜の成長様式を島状成長から層状成長に変えるメカニズムに関する知見を得ること、(2)ヘテロエピタキシャル成長に及ぼすサーファクタントの効果を調べること、(3)急峻な異種金属界面を有する金属多層膜を作製し、多層膜の構造と磁気抵抗との相関関係を調べることを目的としたものである。 具体的な研究内容、研究手法は次の通りである。(1)反射高速電子線回折(RHEED)を用いてPbをサーファクタントとしたNi(100)表面上のホモエピタキシャル成長過程のその場観察を行った。(2)同実験手法によりPbをサーファクタントとしたNi(100)表面上のCo薄膜の成長過程を調べた。(3)サーファクタントエピタキシーを利用してCo/Ni多層膜を作製した。通常の作製法によるCo/Ni多層膜と併せてX線回折による構造評価と磁気抵抗測定を行った。また、X線回折パターンの違いに対する考察を計算機シミュレーションを用いて行った。 本論文は全5章で構成されており、構成内容は以下の通りである。 第1章では金属薄膜・多層膜に関するこれまでの研究を主に物性研究の観点から概観し、次いで薄膜の成長に関する古典的理論、実際の金属基板上の金属薄膜の成長、および薄膜の成長制御法を紹介した。 第2章では本研究で用いた金属薄膜・多層膜の作製法と構造・物性評価手法を説明した。 第3章では本研究で行ったサーファクタントエピタキシーの具体的な実験方法と結果を述べると共にサーファクタントが薄膜成長過程に及ぼす影響について検討した。特にNiのホモエピタキシャル成長過程において、成長様式を島状成長から層状成長に変えるサーファクタントの役割について議論した。また、位相制御エピタキシーによるCo/Ni多層膜の作製についての実験方法と結果も記した。 第4章では磁気抵抗効果についてこれまでに研究されたことを簡単にまとめ、サーファクタントエピタキシーを用いたCo/Ni多層膜の作製方法を説明した。また、通常の作製法によるCo/Ni多層膜と併せてX線回折、磁気抵抗の結果を記すとともにCo/Ni多層膜における磁気抵抗と構造の相関関係を議論した。 第5章は本研究の結論である。 以下に本研究で得られた知見をまとめる。 Ni(100)表面上のホモエピタキシャル成長において、1原子層以下の膜厚のPbをサーファクタントとすることにより、通常のホモエピタキシーの時よりも持続的なRHEED強度振動が観測された。従って、Ni(100)表面上のホモエピタキシーにおいてPbが有効なサーファクタントとなることが示された。 Ni(100)表面上のホモエピタキシャル成長過程をPbの膜厚を変えて調べた結果、RHEED強度振動のふるまいがPb膜厚によって異なることを見出した。Pbの膜厚が約0.05Å〜約0.8Åの範囲で膜厚が薄すぎても厚すぎてもRHEED強度振動が速く減衰することを見出した。詳しく調べた結果、理想的な二次元核成長による層状成長を起こさせるPb膜厚の最適値が存在することを明らかにした。最適値は0.2Å程度で被覆率にして約0.04である。サーファクタントの膜厚が1原子層以下の範囲でこのような最適値が存在することを示したのは本研究が初めてである。 Ni(100)表面はMgO(100)基板上に1800ÅのNiを蒸着して650℃で30分アニールすることにより作製したが、20ÅのCo層を間に挿入することにより表面の構造が変化した。具体的には、Co層を挿入しない場合には表面の構造がc(2×2)構造になるのに対し、1680ÅのNiを蒸着した後20ÅのCoを蒸着し、さらにその上に100ÅのNiを蒸着するとアニール後、1×1構造となった。Niのホモエピタキシャル成長過程は、配向面が同じでも表面の構造が異なると大きく異なることを示した。成長開始時のRHEED強度の落ちかたがc(2×2)表面上のホモエピタキシーよりも1×1表面上のほうが激しいことから、成長初期の核生成密度が1×1表面上の方が大きいと考えられる。 層状成長に及ぼすPbサーファクタントの役割として考えられることは二つある。一つは、Pbが二次元島の核生成サイトとなり、表面上に形成される島の密度を大きくした結果、島上に落ちた蒸着原子がステップに来る頻度が多くなり層状成長が促進されたという考えである。もう一つは、Pbが局所的にステップ位置でのエネルギー障壁を下げた結果、島上に落ちた蒸着原子がステップを降りやすくなったという考えである。1×1表面上におけるサーファクタントの有無によるRHEED振動の違いに着目し、通常のホモエピタキシーにおいて成長条件を変えることにより層状成長に及ぼすPbサーファクタントの役割に関する知見を得ることを試みた。その結果、Ni(100)表面上におけるNi薄膜の層状成長に及ぼすPbの役割として、ステップ位置でのエネルギー障壁を下げている可能性が高いという知見を得た。 Pbの膜厚によってNi薄膜成長に伴うRHEED強度の振る舞いが異なるのは、以下の理由によると考えられる。Pbの膜厚が薄すぎる場合、Ni薄膜の成長とともに表面上でPb原子を含む二次元島が少ないため、完全に1原子層が形成される前に島上に核生成が起きると考えられる。この場合、不完全な層状成長が徐々に三次元的な成長に移行するためRHEED強度振動が減衰していくと考えられる。Pbの膜厚が0.2Å程度の時には、Pb原子を含む個々の二次元島がステップでのエネルギー障壁減少の効果によりある大きさまで成長し、1原子層の完成に近い時期にPbが表面に押し出され、第2層目以降も同様の事が繰り返されるということが予想される。Pbの表面偏析の駆動力は、二次元島の成長とともに蓄積される歪エネルギーの緩和であると考えられる。このような成長過程が持続的なRHEED強度振動の原因であると予想される。Pbの膜厚が厚くなるにつれて、Pbは孤立原子として存在する確率が小さくなると考えられる。前らの修正原子挿入法を用いた分子動力学計算によると、Pbの二次元島のサイズが大きくなると二次元島の中央部のPb原子は周囲のPb原子と多く結合するため、そのようなPb原子の結合切断エネルギーが大きくなり、Pbが表面偏析する確率が小さくなる。従って、Pbの膜厚が0.2Å程度以上になるとPbは孤立原子としてよりも二次元島として存在する確率が高くなり、二次元島のサイズが大きくなるともにPbが表面偏析する確率が減少する結果、RHEED強度振動の振幅が小さくなり速く減衰してしまうと考えられる。 Ni(100)表面上のCo薄膜の成長過程において、成長温度が室温の時にはPbがNi(100)表面上に存在する場合の方がRHEED強度振動の振幅が小さく、また速く減衰したことからPbは有効なサーファクタントとならなかったと考えられる。しかし、成長温度が200℃の時には通常のヘテロエピタキシーに比べて強度に乱れの少ない安定したRHEED強度振動が観測されたことから、Pbがサーファクタントとして有効に作用したと考えられる。成長温度が200℃の時にPbを付けた方が安定したRHEED強度振動が観測されたのは、PbがCoとNiの界面での相互拡散を抑える役目をしていたからではないかと予想される。 MgO(100)基板上に500ÅのNiバッファ層を蒸着し、その上に通常の作製法による[Co(9Å)/Ni(9Å)]20多層膜と、0.2ÅのPbを周期的に挿入した[Co(9Å)/Ni(9Å)]20多層膜を合計4種類作製し、RHEED、X線回折により構造を比較した。その結果、多層膜作製後のRHEEDパターンは、通常の作製法による多層膜の方がよりスポッティとなった。また、低角域のX線回折パターンにおいてPbを周期的に挿入した多層膜の方が1次のブラッグピークの強度が数倍大きく、またブラッグピークの肩に細かい周期的な振動が見られた。Locquetらにより考案された、積層周期にゆらぎを含む多層膜によるX線回折パターンのシミュレーションを行った結果、ゆらぎが大きいほどピーク強度が小さくなり、ピークの線幅が広がった。さらに、ゆらぎが全くない場合には細かく周期的な振動が1次のブラッグピークの肩に現れたのに対し、各層の膜厚のゆらぎが1原子層以上になるとそれらの振動の強度が減衰した。シミュレーションの結果とRHEEDの観察結果とあわせて考えると、Pbを付けたことにより多層膜を構成する薄膜の島状成長が抑えられ、積層周期がより均一になり界面での形状的な凸凹が小さくなったと結論できる。中角域のピークを比較してみると、Pbを付けた多層膜の方が強度が大きく、線幅が細かった。このことから、サーファクタントとしてのPbは界面のラフネスを小さくしただけでなく、Co/Ni多層膜の配向性も向上させたということが言える。サーファクタントエピタキシーを多層膜に適用し、界面の構造制御を行った例は今までになく、本研究が初めてである。 [Co(9Å)/Ni(9Å)]20多層膜においてPbを周期的に付けた多層膜の方が大きな磁気抵抗率を示した。磁場を電流方向と垂直にかけたときに負の磁気抵抗効果が観測されたことから、Co/Ni多層膜の磁気抵抗効果の起源は異方性磁気抵抗であると考えられる。Pbサーファクタントにより界面のラフネスが抑えられた多層膜の方が大きな磁気抵抗率を示したのは、界面が平坦になった結果、そこでの伝導電子の散乱確率が減少し電気抵抗率の値が小さくなったためであると予想される。サーファクタントによる配向性の向上も磁気抵抗率の増大に寄与していると思われるが、本研究で作製した4種類の[Co(9Å)/Ni(9Å)]20多層膜の場合、積層方向の平均の結晶粒径よりも各層の膜厚がはるかに薄いため、界面が平坦になったことによる効果の方が大きいと考えられる。 薄膜の成長過程は極めて複雑であるが、近年の評価技術とコンピューターの進歩によって成長のメカニズムに対する理解は着実に深まっている。近年になって、成長過程を原子レベルで制御しようという試みが盛んに行われるようになった。サーファクタントエピタキシーも原子レベルで薄膜の成長を制御するのに有力な手法の一つであり、本研究によって、薄膜の成長制御ばかりでなく、多層膜の界面構造制御にも有力な手法であることが明かとなった。今後さらに薄膜成長過程に対する理解が増し、薄膜・多層膜の構造を制御して作製することにより、どのような構造が物性にどのように影響を与えるのかが明らかになると予想される。 |