学位論文要旨



No 112642
著者(漢字) 桑田,繁樹
著者(英字)
著者(カナ) クワタ,シゲキ
標題(和) 架橋硫黄配位子を有する遷移金属多核錯体の合成と反応
標題(洋) Syntheses and Reactions of Polynuclear Transition-Metal Complexes Containing Bridging Sulfur Ligands
報告番号 112642
報告番号 甲12642
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3920号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 教授 篠田,純雄
 東京大学 助教授 八代,盛夫
 東京大学 助教授 溝部,裕司
内容要旨

 窒素固定や光合成など生体内の酸化還元反応を司る金属酵素,金属タンパクの活性中心に金属-硫黄多核構造が存在すること,あるいは硫黄架橋多核錯体が不均一系脱硫触媒の活性部位の分子性モデル化合物と見なせることから,硫黄架橋多核錯体の構造および反応性には興味がもたれる.またこれら分子性の硫黄架橋多核錯体の多彩な構造は,電気的・磁気的に興味深い物性を示す非分子性金属硫化物との関連からも注目を集めている.しかしながら硫黄架橋多核錯体の合理的な合成法は未だ充分には確立されておらず,また硫黄架橋多核錯体の複数の金属中心を活かした反応の報告例も限られている.そこで本研究では単核種の自律凝集反応,あるいはより合理的な二核メタロリガンドを前駆体に用いる手法や分子内還元的縮合反応によって金属-金属結合を形成し,新規な硫黄架橋多核錯体を合成するとともに,硫黄原子により架橋保持された複数の金属中心が提供するその単核錯体にはみられない特異な反応場上での各種基質の反応について検討した.

【1】チオラート架橋-配位不飽和ルテニウム二核錯体とヒドラジン類の反応

 窒素固定酵素ニトロゲナーゼの活性中心に存在する複数の鉄からなる配位不飽和サイトとの関連から,当研究室で既に合成されているチオラート配位子で架橋された一連のルテニウム二核錯体のうち近接した2価のルテニウム2原子がともに16電子配位不飽和である錯体[Cp*Ru(2-SR)2RuCp*](1;Cp*5-C5Me5)の反応性には興味がもたれる.そこで錯体1と窒素固定関連基質であるヒドラジン類との反応を検討した.

 錯体1はトルエン中室温で2当量のフェニルヒドラジンと反応し,架橋フェニルジアゼン錯体[Cp*Ru(2-SR)2(2-1:1-PhN=NH)RuCp*](2)を与えた.同時に反応系から1の75-99%のアニリンおよびアンモニアを検出した.

 さらに基質として無水ヒドラジンを用いた場合には,式1に示した量論に従ってヒドラジンがアンモニアおよび窒素ガスへと触媒的に不均化することが明らかとなった.反応開始16時間後の溶液中には,その1HNMRスペクトルから錯体2に対応する架橋ジアゼン錯体[Cp*Ru(2-SR)2(2-1:1-HN=NH)RuCp*](3)の存在が観測された.以上の実験事実から推定したヒドラジンの触媒的不均化の反応機構をスキーム1に示す.

スキーム1

 錯体3は2-1:1-cis型ジアゼン錯体の初めての例であり,部分還元されたN2フラグメントの複数の金属上への新しい配位様式として注目される.また本反応は,硫黄原子で架橋された複数の配位不飽和な金属サイトがN-N結合の切断に有効であることを示しており,ニトロゲナーゼの作用機構との関連から興味深い.

【2】ジスルフィド架橋ルテニウム二核錯体を用いた混合金属硫黄錯体の合成

 性質の異なる金属を同一分子内にもつ混合金属多核錯体は,近接した金属がそれぞれの特性を相乗的に発現することが期待できるため,その合理的合成法の開拓および反応性の検討はとくに興味ある課題である.そこでジスルフィド(S2)架橋ルテニウム二核錯体[Cp*Ru(2-1:1-S2)(2-SPri)2RuCp*](4)を,そのS-S結合部位が反応点として機能する二核のメタロリガンドと捉え,4と貴金属低原子価錯体との反応による混合金属錯体の合成を試みた.

 錯体4は1当量の[Pt(PPh3)4]と75℃で反応し,4のジスルフィド配位子のS-S結合に白金が挿入した[(Ph3P)2Pt(2-S)2(Cp*Ru)2(2-SPri)2](5)を与えた(スキーム2).これに対し4と[Pd(PPh3)4]との反応は白金錯体の場合と同一条件下では進行しなかったが,4と2当量の[Pd(PPh3)4]をトルエン中加熱還流することによって,[(Cp*Ru)2(3-S)2Pd2(2-SPri)(SPri)(PPh3)](6)を得た.錯体6はRu2S2フラグメントに2つのパラジウムを取り込んだPd2Ru2四面体骨格を有している.白金錯体を用いた反応とパラジウム錯体を用いた反応が全く異なった生成物を与えるのは興味深い.

スキーム2

 さらに,6は1当量のPhCH2Brとは室温で,過剰量のp-MeC6H4C≡CHとは80℃で反応して,それぞれ6のPd2Ru2S2骨格が保持され,末端チオラート配位子がBrあるいはアルキニル基に置換された錯体[(Cp*Ru)2(3-S)2Pd2(2-SPri)X(PPh3)](7:X=Br;8:X=C≡CC6H4Me-p)を与えることが明らかとなった.

【3】ヒドロスルフィド架橋ルテニウム二核錯体から誘導される混合配位子型ルテニウム三核硫黄錯体の反応性

 ヒドロスルフィド(SH)架橋ルテニウム二核錯体[Cp*RuCl(2-SH)2RuClCp*](9)はジメタロジチオールと見なすことができ,先のジスルフィド架橋錯体4と同様に二核のメタロリガンドとして,より高次の金属-硫黄骨格を構築するための有用な前駆体となると考えられる.そこで9の二核フラグメントへの金属の取り込み反応を利用して,混合配位子型ルテニウム硫黄錯体の合成を試みた.

 錯体9は1当量の[RuH2(PPh3)4]と室温で反応し,Cp*,PPh3混合配位子型のルテニウム三核錯体[(Cp*Ru)2(3-S)2(2-H)RuCl(PPh3)2](10)を与えた(式2).続いて10の置換活性なPPh3,Cl配位子を有するルテニウムサイトの反応性について検討した結果,10は過剰量のNaBH4と50℃で反応してジヒドリド錯体[(Cp*Ru)2(3-S)2(2-H)RuH(PPh3)2](11)を与え,さらにこのジヒドリド錯体をCO雰囲気下50℃で攪拌することにより,ジカルボニル錯体[(Cp*Ru)2(3-S)2Ru(CO)2(PPh3)](12)へと変換できることが明らかとなった.

 

【4】タングステン四核硫黄錯体の合成およびその金属骨格変換反応

 続いて窒素固定に関連した6族金属-硫黄多核錯体を合成することを目的として,窒素錯体と種々の硫黄試薬との反応を検討した結果,新規な硫黄架橋タングステン四核骨格を有する錯体を合成することに成功した.すなわち,窒素錯体cis-[W(N2)2-(PMe2Ph)4]と2当量の(Me3Si)2Sをメタノールの存在下にトルエン中50℃で反応させることにより,四核タングステン硫黄錯体「W4(3-S)2(2-S)4(SH)2(PMe2Ph)6](13)を得た.4つのタングステン原子は同一平面上に存在して一辺を共有した2つの三角形を形作り,いわゆるラフト型骨格をなしている.W4S6骨格は2つのW3S4不完全キュバン型骨格が面共有したものと見なすこともできる.クラスター中の金属-金属結合に関与するd電子数は10であり,これに対応して5つのW-W間距離は2.8114(6)-2.8373(8)ÅとW-W単結合に相当する距離になっている.さらに13と1当量のSnCl2をTHF中加熱還流することにより,13のヒドロスルフィド配位子がClに置換されたラフト型四核錯体[W4(3-S)2(2-S)4Cl2(PMe2Ph)6](14)を得た.

 続いてこのCl置換体14の酸化還元に伴う金属-硫黄骨格の変化について検討した.まず14を2.4-3当量のAgOSO2CF3とTHF中暗所,室温にて反応させることにより,14が2電子酸化された錯体[W4(3-S)2(2-S)4Cl2(PMe2Ph)6][OSO2CF3]2(15)を得た(スキーム3).W4骨格は,その外周のW-W間距離が変化した結果13,14に存在していたC2h対称性を失い歪んだラフト型となっている.クラスターd電子数は8であり,錯体の対称性の低下は2次のJahn-Teller効果の結果として理解される.

 これに対して,14をTHF中室温で過剰量のナトリウムアマルガムを用いて還元すると,四面体型骨格を有する四核錯体[W4(2-S)6(PMe2Ph)4](16)が得られた.4つのタングステン原子はほぼ正四面体を形作り,W4S6骨格はアダマンタン型の骨格をなしている.金属-金属結合に関与するd電子数は12であり,これに対応して金属-金属結合の数は6本となっている.

スキーム3

 錯体13-16のW4S6骨格はタングステン四核錯体としていずれも新規なものである.また錯体の酸化還元に伴った金属骨格変換反応は,多核錯体の電子数と構造の関係を理解する上で興味深い.

審査要旨

 金属と硫黄からなるクラスターの構造は金属硫化物,あるいは生体内の金属酵素,金属タンパク中に広く存在し,独特の物性・機能の源となっている.本論文はそれらの構造・機能モデルとしての金属-硫黄多核錯体に注目して,その合理的合成手法の開拓,および反応性について述べたものであり,全5章および付録より構成されている.

 第1章では序論として,金属-硫黄多核錯体の特徴および合成法について概観したのちに,金属-硫黄多核錯体と固体触媒,機能性材料あるいは生体内の金属酵素に存在する金属-硫黄多核構造との構造上,機能上の関連について述べている.

 第2章では,チオラート配位子で架橋された2つの配位不飽和中心を有するルテニウム錯体とヒドラジン類との反応について検討している.複数の配位不飽和な金属上での有機ヒドラジンの窒素-窒素結合の開裂を伴ったアミン,アンモニア,および有機ジアゼン錯体の生成反応を見いだしている.さらに無置換のヒドラジンを用いた反応では,ヒドラジンのアンモニアおよび窒素ガスへの不均化反応が触媒的に進行することを明らかにするとともに,2つのルテニウム原子の間にジアゼン配位子が架橋配位した錯体を不均化反応の中間体と推定している.また1つのルテニウム原子のみ配位不飽和となる二核錯体を用いた場合との比較から,温和な条件でのヒドラジン類の窒素-窒素結合の開裂には複数の配位不飽和な金属中心が必須であることを示し,窒素固定酵素ニトロゲナーゼの活性中心の構造,機能との関係を論じている.

 第3章では,架橋ジスルフィド配位子をもつ二核ルテニウム錯体を前駆体に用いた,貴金属を含む混合金属-硫黄多核錯体の合成について述べている.ジスルフィド配位子への低原子価貴金属錯体の酸化的付加によって反応は進行するが,白金のホスフィン錯体との反応では白金-ルテニウム三核錯体が得られるのに対して,パラジウムのホスフィン錯体との反応ではパラジウム-ルテニウム四核錯体が得られている.すなわち反応に用いる貴金属によって生成する混合金属錯体の構造が大きく異なることを示し,得られた錯体の構造の詳細を明らかにしている.さらに,貴金属を含んだ硫黄多核錯体の反応性に関する研究が限られていることから,とくにパラジウムとルテニウムを含んだ硫黄多核錯体について,貴金属-硫黄骨格上での有機基質の反応について検討をおこなっている.

 第4章では,架橋ヒドロスルフィド配位子をもつ二核ルテニウム錯体を用いて,末端配位子にシクロペンタジエニル配位子と置換活性なホスフィン,塩素配位子を合わせもつ三核ルテニウム-硫黄錯体の合成に成功し,その構造の詳細を明らかにしている.さらに,得られた混合配位子型の三核ルテニウム錯体中の,置換活性な配位子をもつルテニウム原子上で配位子置換反応が進行して,三核ルテニウム-硫黄骨格を保持したジヒドリド錯体,ジカルボニル錯体を逐次与えることを見いだしている.

 第5章ではまず,単核のタングステンの窒素錯体の自律凝集反応によって,正三角形が一辺を共有して平面状に縮合したラフト型の金属骨格を有する四核タングステン-硫黄錯体を得ている.さらにこの金属骨格を酸化することによって2本の金属-金属結合が伸びて歪んだラフト型の金属骨格をもつ錯体へと誘導している.一方,ラフト型錯体を還元すると,分子内での還元的縮合反応による新たな金属-金属結合の形成を伴って,四面体型の金属骨格を有する四核タングステン-硫黄錯体が得られることを明らかにしている.さらに分子軌道法を用いた理論計算により,一連の金属骨格の変化を説明している.

 最後に付録では,硫黄原子を含んだ配位子のうち,これまで研究が散発的なものに限られていたヒドロスルフィド配位子に注目し,ヒドロスルフィド錯体の合成,構造,物性および反応性について系統的にまとめている.

 以上のように本論文では,単核錯体の自律凝集反応,あるいはより合理的な,二核錯体を前駆体に用いる方法や分子内還元的縮合反応によって金属-金属結合を形成し,新規な硫黄架橋多核錯体の合成に成功すると同時に,得られた一連の金属-硫黄多核錯体の反応性について検討している.これらの結果は錯体化学,有機金属化学および生物無機化学の進展に寄与するところ大である.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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