従来、反磁性や常磁性の物質は磁化率が極めて小さいため、事実上それらを用いた化学反応や材料プロセス、あるいは生体への磁場の効果はスピン化学などの例外を除いてほとんど無いと考えられてきた。しかし、近年の超伝導磁石の発達により、大空間に強磁場を発生できるようになったことで、これらの物質についても磁場効果が報告されるようになってきた。日常生活の中で磁場に接する機会が増え、人体に対する磁場の影響に広く一般の関心が向けられるようになったこともあいまって、これまであまり省みられることのなかった「磁気科学」とでもいうべき分野が開けつつある。本研究は新分野「磁気科学」の開拓に貢献しようとするもので、ほぼ非磁性の物質、それを用いた化学・材料プロセス、あるいは生体に関連する事象を対象とし、磁場によって引き起こされる新現象を探索、発見の後は再現性・信頼性の確認により、効果を確立、そしてその機構を解明し、応用の考案を行うことを目標としている。これまでに、いくつかの事象について磁場の影響を調べてきてたが、その中で、勾配磁場の下でのほぼ非磁性の液体の形状もよび液体を滴下する際の液滴体積と、均一磁場下における純水中への酸素ガスの溶解過程に対して、顕著な効果を見出した。 一昨年、上野と岩坂は水平型超伝導磁石のボア中容器内の水が、中心に8Tの磁場を印加することで2つの部分に割れる現象を見出した1)。しかし、超伝導磁石の狭いボア中では液面の分布を正確に測定することは非常に難しく、ボア内において変形している純水の平衡静止状態での液面分布は測定されないままだった。そこで、本研究ではまず、種々の磁化率を持ったいくつかの反・常磁性の液体を用いて、平衡静止状態にある液体表面の超伝導磁石ボア中での変形をそれぞれ定量的に評価し、変形現象が反・常磁性液体が持つ磁化率に起因すると証明する事を第一段階の目的とした。さらに、互いに混ざり合わない非磁性の2液体間に界面を形成した場合、それは勾配磁場によってどのような影響を受けるのかについても観測・評価を行うことを目的とした。 Fig.1超伝導磁石のボア中で観測した(a)純水及び(b)硫酸銅水溶液の表面形状。中心印加磁場は10T。実際に撮影した写真はボア軸方向(上の写真では横方向)に長いものだが、ここでは縦横の比を変更して見やすくしてある。純水の場合、磁場中心で液面が押し下げられ、端との高低差は-38.9mmになっている。硫酸銅水溶液では逆に、磁場中心が端に比べて盛り上がり、高低差は+32.6mmであった。 Fig.1に純水(a)(体積磁化率=-9.032×10-6(SI).密度-0.9982×103kg/m3)と硫酸銅水溶液(-+8.397×10-6,-1.1316×103kg/m3)の場合に観測した結果を示す。磁場は中心で10T印加しており両端に向かい減衰している。反磁性の純水の場合、磁場中心で液面が下がり液体が両脇へと追いやられ、また、常磁性の硫酸銅水溶液は逆に磁場中心に引き寄せられ液面の盛り上がる様子がはっきりとわかる。 これらの液体の持つ磁化率に起因する磁気的エネルギーと重力による位置エネルギーの釣り合いを考えた解析から、液体表面の磁場変形は次式のように表すことができた。 ただし、xはボア軸方向の位置、h(x)は位置xでの液面の高さ、H(x)は位置xでの磁場の大きさ、0は真空透磁率、gは重力加速度である。この式に液体の、及び磁場分布を代入すれば理論曲線を描くことができ、液面分布の実測値と比較したところよい一致が得られたことから、この式の定量性が確認できた。水や水溶液の持つごく小さな磁化率でさえも、10Tという強磁場のもとではその形状に無視できない効果をもたらすことがわかった。 次に、ほぼ非磁性の2液体によって形成される界面の形状への勾配磁場効果の考察・検証を行った。2液体の体積磁化率、密度をそれぞれA,A,B,Bとし、場所xにおける界面の高さをh(x)とすると勾配磁場中での界面の形状は、 と導くことができ、実験との対照からこの式が定量的に妥当であることを確認した。 表面の変形を記述する式(1)と比較して特徴的なのは磁場の2乗の差の係数が、表面では(磁化率)/(密度)であるのに対して、界面では(2液の磁化率差)/(2液の密度差)であることである。つまり、表面の場合には個々の液体によってあらかじめ決まってしまう係数が、2液を組み合わせた界面の場合、密度を近づければ任意に大きくすることができる。したがって、非磁性の1液体は強い磁場を用いなければその表面形状を大きく変化させることができなかったが、界面の場合、2液の選び方によっては永久磁石程度の磁場でも十分に大きな変形を引き起こすことができると予想された。Fig.2に0.56Tの永久磁石による硫酸銅水溶液-芳香属系有機液体界面の形状変化の写真を示す。2液の密度差を0.01×103kg/m3以下にすることで弱い磁場でも20mmに達する大きな変形が見られた。 Fig.2永久磁石による非磁性2液界面の形状変化。永久磁石は、Nd-Fe-B系で、磁極間の中心での磁場は0.56T。 また、鉛直方向の勾配磁場下で非磁性液体の滴下を行い、液滴形成過程への磁場効果を検討した。十分に大きな底面積を持つ水槽に液体を入れ、そこから、末端にガラスキャピラリーを取り付けたテフロンチューブを重力方向に垂らす。すると、純水の表面とキャピラリー先端との高低差のために液体が流れ出し、キャピラリーの先端で液滴を形成、そして順次落下してゆく。キャピラリー先端の位置を様々に変え、形成された液滴を採取し、その大きさを評価すると、勾配磁場中で場所に依存して液滴体積が大きく変化することがわかった。ある部分では磁場の無い時よりも大きな液滴が形成され、また別の部分では小さな液滴が形成された。単独の液体の滴下の場合には強くて急峻な磁場が必要だったが、密度の近い別の液体中で滴下を行えば、永久磁石によっても顕著な体積変化が観測できた。この現象は非磁性液体の持つ小さな磁化率に起因して勾配磁場により働く磁気力を考慮することで定量的に説明することができた。 以上のごく小さな磁化率しか持たない液体の表面・界面形状の変形、及び滴下される液滴体積の変化は、勾配磁場により物質に働く磁気力が重力と同程度になったため観測できたといえる。すなわち、ほぼ非磁性の物質に対する磁気力は、強くて急峻な磁場を用いるか、弱い磁場でも周囲の密度の調節により重力と競合する程度にまでできる。水平方向に勾配を持つ磁場を用いた場合、水平方向に働く磁気力と重力の合力の方向が傾き、液体形状の変形という結果としてあらわれた。また、鉛直方向の勾配磁場を用いた場合には、磁気力は重力と平行な方向で正・逆両方向に作用するので、物質に働く重力の大きさを直接コントロールすることになり、液滴の体積に大きな変化があらわれた。実際の磁場は3次元の空間分布をもつので、これを制御すれば物質に働く擬似重力の大きさや方向を自在に制御することが、たとえほぼ非磁性の物質であっても条件を整えることで永久磁石程度の磁場でも可能になる。以上に得られた知見を通して、化学・材料プロセスへの磁場応用や他の様々な分野への磁場の活用の可能性が広がると考えられる。また、生体内には密度の近い液体が接する界面が多数存在しているので、生体に対する磁場の影響を考える上でも意義深い。 次に、純水への酸素溶解を均一磁場下で行い、その過程への磁場効果を評価した。磁場中で水と酸素を接触させると水中の酸素量が富化されるという報告や特許は古くから見られる。しかし、熱力学的な考察からは10Tの強磁場を用いても酸素の平衡溶解量は0.07%程度しか変わらないとされ、それらの報告とは相反する。もし磁場で化学平衡が大きく変化するなら、これは様々な分野に影響を及ぼす重大な事柄である。そこで、脱気した純水を用いて初期状態をそろえ、酸素の溶解過程を磁場中で進行させ、その過程を追跡することでこの評価を行った。磁場の印加には冷凍機直冷型超伝導磁石(東芝製TM-10)を用いた。閉空間に導入した純水を凍結排気により脱気し、定温・均一定磁場下で一定圧力の酸素ガスと接触させ、一定時間溶解を進行させた後、純水を磁場外に取り出し、ガルバニ電池式隔膜電極法による溶存酸素計を用いて評価する。一連の実験を温度・印加磁場・接触時間を変えて行った。Fig.3に15℃,0.5atmで0,2,4Tの磁場を印加した際の純水中溶存酸素濃度の時間変化を示す。長時間側では溶存酸素は平衡濃度に達していると考えられるが、磁場印加はこの値には影響を与えていない。これによって熱力学的に予想された、平衡は磁場によって大きくずれることはないということが確かめられた。しかし、短時間側では磁場の印加により溶解速度が速くなる。すなわち、速度過程には磁場が影響を与えている可能性が示唆された。この事は、これまで溶解過程と溶解平衡が分離して論じられなかったために見出されてこなかった。これは、純水中への酸素の溶解という化学・生物学的に重要なプロセスが磁場によって影響を受けたという点で興味深い。機構はまだ明らかではないが、気液界面での酸素溶解反応の加速、もしくは溶解後の酸素の液体中での移動が加速されるのではないかと考え、他の方法による実験の結果とあわせ、検討中である。 Fig.3純水中の溶存酸素濃度の時間変化15℃,0.5atmにおいて0,2,4Tの磁場下で酸素の溶解過程を観測した。酸素溶解量に対しては磁場は影響を与えなかったが、短時間側に見られるように溶解速度は加速された。実験は均一磁場下。 1)S.Ueno and M.Iwasaka;J.Appl.Phys.,75(1994)7177 |