学位論文要旨



No 112654
著者(漢字) 山口,渡
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,ワタル
標題(和) 超高真空低温STM装置の開発と層状物質への応用
標題(洋)
報告番号 112654
報告番号 甲12654
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3932号
研究科 工学系研究科
専攻 超伝導工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北澤,宏一
 東京大学 教授 岸尾,光二
 東京大学 教授 河津,璋
 東京大学 助教授 長谷川,哲也
 東京大学 講師 宮村,一夫
内容要旨 1.本研究の背景と目的

 STMを用いてトンネル分光を行うSTS(Scanning Tunneling Spectroscopy)の最大の特徴は、高い空間分解能を持つことである。STMの持つ顕微鏡としての機能とトンネル分光装置としての機能とを組み合わせることにより、局所状態密度の空間依存性を原子レベルで調べることが原理的に可能である。

 しかし現状を見る限りそのような測定の報告例は極めて少ない。これは、単にそうした測定の価値に対する認識が広く行き渡っていないためだけでなく、個々の原子を解像しながら同時に高いエネルギー分解能で分光を行うような実験が、通常のSTM観察よりもはるかに高い安定性を要求するためと考えられる。

 本研究の目的は、表面の構造観察をしながら同時にトンネル分光測定を行うという、STS本来の特徴を活かす実験方法を確立し、物性分野における最先端課題に積極的に適用していくことである。

2.超高真空低温STMの開発

 上記目的を達成する第一歩として独自の設計によるSTM装置を開発した。システム全体としての性能を向上させるには、耐振性や制御部の安定性などの基本性能を高めるほか、STMが潜在的に持つ高いポテンシャルを最大限に引き出す動作環境を整えることが重要と考えられる。その観点から、以下を装置の満たすべき条件とした。

 条件1.超高真空下での探針、試料の表面処理およびSTM測定が可能であること

 条件2.探針、試料を含むSTM本体を全体として低温にできること

 条件3.耐振性が十分に高いこと

 条件1は探針、試料表面を長時間にわたって清浄に保つためのものである。条件2は、低温に特有の物理現象の研究に必要であるだけでなく、トンネルスペクトルのエネルギー分解能を高める意味がある。設計上の具体的なポイントとしては、

 ポイント1.STM本体をできるだけ小型化する

 ポイント2.STM本体周囲を低温の壁で取り囲む

 ポイント3.複数の除振機構を併用する

 が挙げられる。ポイント1は冷却効率と耐振性に、2は主として温度安定性に配慮したものである。図1、図2にそれぞれ、システム全体の概略図とSTM本体主要部を示す。

図1 超高真空低温STMシステム概略図図2 STM本体主要部

 現在のところ冷却の面では液体窒素を用いて123Kの実績を得ており、この温度から室温までの間で安定な動作を確認している。

3.実験3.1.STM探針走査による層状物質の表面加工

 層状物質1T-TaS2の表面を、通常のSTM観察時と同じ条件で繰り返し走査するだけで、表面のエッチングが起こることを見出した。このエッチングは欠陥箇所から核生成し、水平方向にエッチピットが拡大する。エッチピットの深さは常にc軸単位長の整数倍である。図3、図4にそれぞれ、エッチングにより形成された穴と、エッチング時と同じ電流、電圧条件下で得られた表面の原子像を示す。エッチングは理想的なトンネル障壁が存在する超高真空中でも起こる。エッチングを引き起こす探針・表面間の相互作用としては、静電引力と局所的ジュール加熱が主要な役割を果たしていると考えられる。

図3 1T-TaS2の表面に形成されたエッチピットのSTM像(37.5×37.5nm2)図4 エッチングと同一条件下で得られた高解像度のSTM像(10×7.5nm2)
3.2.表面内部の不純物像とモット転移

 種々の半導体、金属において、表面内部の不純物像がSTM像に現れるという報告が相次いでいる。これは不純物ポテンシャルによってバンド電子が散乱され、その結果生じた定在波が表面にまで達したためと理解できる。1T-TaS2において、電荷密度波(CDW)のNC-C相転移(降温時180K)を境に、STM像における不純物像のコラゲーションが劇的に変化することを見出した。図5に123Kにおいて観察された表面内部の不純物像を示す。

図5 1T-TaS2における表面内部の不純物のSTM像(35.1×35.1nm2)

 転移点以上では見られなかった振動を伴う構造が明瞭に現れている。最近の理論的研究によると、不純物ポテンシャルの遮蔽距離よりも散乱される電子の波長が長い場合にのみ、このような振動が観察されると予言されている。このことから、不純物像の劇的な変化は、NC-C転移に連動して起こるモット転移によってバンドが分裂し、電子の波長が不連続に変化するためと考えられる。

3.3.STM探針誘起相転移

 1T-TaS2のNC-C転移温度の上側の近傍で、局所的にモット転移した領域を観測した。この領域は探針の走査とともに拡大し、一旦転移した領域は安定にその状態を維持する。転移した領域で得られたトンネルスペクトルには、通常転移点以下の温度で観測されるモット・ハバードギャップが明瞭に観測されている。ギャップの内側のバイアス電圧でSTM観察すると、対応するエネルギーでの局所状態密度の差により、転移領域は暗く落ち込んで見える。図6にSTM像を、図7に転移領域で得られたトンネルスペクトルを示す。

図6 NC-C転移温度直上での1T-TaS2表面のSTM像(196.8×196.8nm2)図7 モット転移領域で得られたトンネルスペクトル

 転移領域の安定性は、この相転移が大きなヒステリシスを伴った1次相転移であることから無理なく説明される。転移領域のうち確認できている最小スケールのものは5nm程度の径しか持たない。このことから、ごく近距離の相互作用がモット転移の定性的な挙動を決定していることが証明された。

審査要旨

 本論文は、層状物質における相転移現象を題材に、固体の電子物性研究におけるSTMという実験装置・手法の可能性を検証したものである。結果の信頼性を評価する上では十分な装置性能と理想的な測定環境が重要であるとの認識から、独自の設計思想に基づくSTM(走査トンネル顕微鏡)装置の開発に力を注いだ点が特徴的である。論文の表題はこの点を反映したものとなっている。

 序論では、STMの発明当初からその後の発展の歴史を踏まえ、研究の意義と著者の立場を明らかにしている。STMは、原子分解能の顕微鏡として、表面科学の分野を中心に発展してきたが、これを原子レベルで測定位置を変えられるトンネル分光装置として捉え直し、他の手法との比較の上からその特異性を認識することで、バルクの物性研究においても有用な手法となりうることを指摘している。

 Chapter1では、STMを用いたトンネル分光法、走査トンネル分光法(Scanning Tunneling Spectroscopy:STS)の原理を、Tersoff-Hamann理論の主要な結果をもとに確認している。但し、その特殊性を十分に認識することに配慮し、従来のマクロなトンネル接合の場合との比較の上に立ち、最も原理的な段階からトンネル電流の表式を導いている。

 Chapter2では、本論文で研究対象とした層状化合物、1T-TaS2のミクロな構造および物性について、特にその電子構造に焦点を当てながら従来の研究を概観し、本研究の位置付けを明らかにしている。

 Chapter3では、新たに開発したSTM装置の詳細について、その設計思想なども含めて述べている。耐振性や制御部の安定性などの基本性能を高める一方で、STMが潜在的に持つ高いポテンシャルを最大限に引き出すための動作環境を整えることも重要であるとの考えに立ち、超高真空中および低温下での動作が可能な設計としている。また、特にトンネル分光測定に重点を置いた研究を意識し、エネルギー分解能と温度安定性向上のため、試料のみならず探針も含めたSTM主要部分全体を冷却する方式をとっている。さらに、試料、探針の交換操作を容易にする、装置改良の必要に際して柔軟に対応させる、などの目的から、STM主要部分を独立したユニットとして搬送できるように設計するなどの工夫が施されている。

 Chapter4では、原子レベルで測定位置を指定したトンネル分光の結果に基づき、1T-TaS2のC-CDW相において観測されたエネルギーギャップが、電子相関の効果によるMott-Hubbard型のものであることを指摘している。この実験の最も重要な点は、一様な電子状態にある系でも、単位胞内部では電子の存在確率が空間的に変化していることを実際に検証したことにある。

 Chapter5では、バルクのNC-C転移点より高い温度でもMott局在を伴う低温相が局所的には存在し得ることを、STM/STS測定の結果に基づいて報告している。両相の境界部分での電子状態の空間変化を詳細に解析することにより、系のコヒーレンスやモット転移の機構について重要な知見を導き出している。さらに、低温相の出現は探針と表面の相互作用によって誘起されるものであることを、データを注意深く分析することで明らかにしている。このことは、STMの持つ表面操作手法としての側面が、新たにバルクの物性研究に重要な寄与をなし得ることを示した結果であると言える。

 Chapter6では、表面下の不純物によって生じたフリーデル振動のSTM観察について述べている。C-CDW相においてのみフリーデル振動が観測されることから、Mott-Hubbardバンド内に注入されたキャリアに対し波動的描像が成立すること、また、その有効な波長はNC相と比較して長くなっていることなどを結論をしている。

 Chapter7では、真の真空トンネルが実現している超高真空中で、STM探針の走査によって引き起こされる1T-TaS2の表面エッチング現象について報告している。同現象の走査条件に対する依存性から、探針と表面の間にはたらく相互作用として、静電相互作用及び局所的ジュール加熱の寄与が重要であるとの結論を得ている。この実験は、STMが計測手段であると同時に、計測対象に有意の変化を引き起こす可能性を持つことを、改めて示している。

 結論では、個々の実験結果の意義を全体の流れの中に位置づけ、それらの重要性を強調しながら、全体を総括している。本論文は思想も明確であり、その中に述べられている実験結果およびそこから引き出された結論は、他の実験手法からはもちろんのこと、STMを単純に高分解能の顕微鏡として捉えただけでは得られない、ユニークなものである。これらは、STMという装置の有する、Microscopy、Spectroscopy、Surface Modification Methodという機能を有機的に組み合わせることによって、その潜在的なポテンシャルを引き出し、バルクの電子物性研究における有力なツールとすることに成功している。これらの業績は、固体物理学、特に電子物性研究の発展に寄与するところが大きい。よって、本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53958