学位論文要旨



No 112664
著者(漢字) 平田,浩一
著者(英字)
著者(カナ) ヒラタ,コウイチ
標題(和) 物質中におけるポジトロニウムの形成と挙動に関する研究
標題(洋)
報告番号 112664
報告番号 甲12664
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3942号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 氏平,祐輔
 東京大学 教授 岸,輝雄
 東京大学 教授 堀江,一之
 東京大学 助教授 宮山,勝
 東京大学 助教授 伊藤,泰男
内容要旨

 陽電子は、空孔型欠陥に対して非常に敏感であり、金属の場合ppmオーダーの欠陥を非破壊的に検出することができる。このため、これまで陽電子は、これらの欠陥の研究において大きな成果を収めてきた。図1に示すように、陽電子消滅を利用した計測法には、陽電子の生成線と消滅線の時間差を測定する寿命測定法、2本の消滅線の角度を測定する角相関法、消滅線のエネルギー分布を測定するドップラー拡がり法が知られている。寿命測定法からは、陽電子が消滅する場所の電子密度に関する情報を、角相関法とドップラー拡がり法からは、電子の運動量に関する情報を得ることができる。

図1 陽電子消滅を利用した計測図3 ポジトロニウム(Ps)

 さらに、従来から行われている放射性同位元素から陽電子を直接利用する方法以外にも、近年、図2に示すように線源からの陽電子をモデレーターでエネルギー的に単色化した後、ビーム化して任意のエネルギーで加速し試料に打ち込むことで、表面近傍の欠陥に関する情報を得る試みがなされている。このようなエネルギー可変陽電子ビームはいくつかの金属や半導体などの欠陥のプロファイリングに関して、有用な情報を提供している。

図2 本研究で使用した陽電子ビーム装置

 多くの高分子中や金属・半導体のボイド中では、物質中に入射した陽電子の一部が、図3に示すような電子と陽電子の拘束状態であるポジトロニウム(Ps)を生成する場合がある。Psには、オルソ(寿命:142ns)とパラ(寿命:125ps)がある。このPsは自由体積の測定等、新しいプローブとして期待されているが、物質中でのPsの性質に関してはまだまだ不明な部分が多い。本研究では、物質中でのPsの基本的性質を知るためにPsの形成および挙動の研究を行い、さらに陽電子ビームによる欠陥および損傷解析のPs形成物質への応用を行った。本文中2〜5章の研究項目は、以下に示す通りである。

 第2章 ポリカーボネートおよびポリサルフォン中のポジトロニウム形成に及ぼすハロゲン化物添加の影響

 第3章 アモルファスポリマー中のポジトロニウムの拡散係数

 第4章 陽電子ビームによるAu+およびO+を照射したアモルファスPoly(aryl-ether-ether-ketone)(PEEK)の損傷解析

 第5章 アモルファスシリコン薄膜中の欠陥と構造変化

第2章ポリカーボネートおよびポリサルフォン中のポジトロニウム形成に及ぼすハロゲン化物添加の影響

 分子液体中でのPs形成は、化学効果に強く影響されることが知られている。陽電子は、減速する最後の段階で分子中の電子をたたきだし、この電子の一つと結合してPsを形成すると考えられる。したがって、そこに電子受容性の化学種を添加すると、Ps形成に大きな影響を与える。液体に添加物を添加する場合、添加物によりPs形成量を減らす現象(インヒビション)、Ps量を増やす現象(エンハンスメント)、インヒビターにより減少したPs量が第2添加物により増加する現象(アンタインヒビション)が観測され、スパー電子の反応でよく説明できる。しかし、ポリマー中のPsの形成に関しては、収率は自由体積と関連づけられることも多く、Ps形成については不明な点が多い。本実験では、ポリマー中のPs形成についての知見を得るために、ポリマー{ポリカーボネート(PC)、ポリサルフォン(PSF)}にハロゲン化物(p-C6H4Cl2、p-C6H4Br2、C10F8)を添加した場合のPs収率の変化を陽電子寿命測定法により測定した。

 図2-1に、PCにp-C6H4Cl2およびp-C6H4Br2,を添加した場合のオルソポジトロニウム(o-Ps)強度の変化を示す。これらのハロゲン化物の添加によりo-Ps強度は急激に減少しており、p-C6H4Cl2およびp-C6H4Br2はPC中でPs形成のインヒビターとしてはたらくことがわかる。また、PCにC10F8を添加するとo-Ps強度は増加し、p-C6H4Cl2およびp-C6H4Br2を添加してo-Ps強度を減少させたPCにC10F8を添加するとo-Ps強度は増加した。このように、PCにハロゲン物を添加した場合はo-Ps強度が変化し、インヒビション、エンハンスメント、アンタインヒビションが観測された。

 図2-2に、PSFにp-C6H4Cl2、p-C6H4Br2およびC10F8を添加した場合のo-Ps強度を示す。PSFの場合、o-Ps強度は添加物の影響を受けずほぼ24%で一定であり、PCの場合と全く異なっている。PCとPSFの化学構造を比較すると(図2-3)、PSFの構造はPCの-CO-の部分を--SO2--に置き換えた以外は同じであり、PSF中の--SO2--の部分がPSFにおいて添加物の影響がなかったことと関係があるようである。そこで、純PCおよびハロゲン化物を添加したPCに--SO2--部分のモデル化合物として、ジフェニルサルフォン(-SO2-)を添加した実験を行ったところ、スパー電子が--SO2--部分に捕獲されていることを示唆する結果を得た。

 本研究では、ポリマーでもスパー電子の反応がPs形成に重要な役割を果たしており、液体中でのPs形成との類似性を示した。

図2-1 PCにp-C6H4Cl2およびp-C6H4Br2を添加した場合のo-Ps強度の変化図2-2 PCにp-C6H4Cl2、p-C6H4Br2およびC10F8を添加した場合のo-Ps強度の変化図2-3 PCおよびPSFの化学構造
第3章アモルファスポリマー中のポジトロニウムの拡散係数

 Psの中でも寿命の長いオルソポジトロニウム(o-Ps)は、高分子の自由体積等の性質を探るプローブとして期待されている。このPsがポリマー中でどの程度拡散するかは、Psによる計測の妥当性にも影響する問題でもある。このようにPsの拡散は、基本的で重要な問題であるにもかかわらず、ポリマー中のPsの拡散係数についてはほとんど報告されていない。また、数少ない測定例も空孔の大きさをそろえた多孔性物質の粉末試料を用いて測定しており、バルク試料を測定していないだけでなく、この方法を他のポリマーに応用できないという問題がある。そこで、本研究ではアモルファスポリマーであるポリサルフォン(PSF)、ポリカーボネート(PC)、ポリスチレン(PS)に、Psのクエンチャーとして2,2’-ジニトロビフェニル(DNB)を添加し、Psのクエンチングを利用して図3-1に示すような陽電子寿命測定による結果からPsの拡散係数をもとめ、拡散距離の見積もりを行った。

 表1は、本実験でもとめた25℃におけるPSF、PC、PS中でのPsの拡散係数およびO2、Ar、N2、の拡散係数1)である。Psの拡散係数は、O2、Ar、N2等のガス分子より2〜3桁大きい、3×10-6cm2/s程度であり、(Dps3)1/2で見積もると、o-Psの寿命中では1nm程度しか拡散しないことがわかった。また、氷で報告されている値0.17cm2/sと比べると5桁程度小さい。これは、アモルファス高分子中ではPsが自由体積に局在化しているため、Psが非局在化している分子性結晶に比べて拡散が困難になっているためと考えられる。

図3-1 PSFにおけるDNB濃度と3の関係表1 PSF,PC,PS中でのPs,O2,Ar,N2の拡散係数

 1)K.Haraya and S.T.Hwang,J.Membrane Sci.,71,13-27(1992).

第4章陽電子ビームによるAu+およびO+を照射したアモルファスPoly(aryl-ether-ether-ketone)(PEEK)の損傷解析

 陽電子ビームは、金属や半導体における欠陥のディプスプロファイルの測定に有用であることが知られているが、高分子材料に対しては適用例が少ない。また、高分子材料の表面特性や物性を改善する点で、高分子に対するイオン照射は注目されている。本研究では、高分子のイオン照射による損傷解析に陽電子ビームを適用し、その有用性を示すとともに損傷に関する基礎的知見を提供するために行った。

 試料は、照射量:0〜1×1014ions/cm2、照射エネルギー:2MeVでAu+、O+を照射した厚さ200mのアモルファスPEEKを用いた。実験は、図2に示した陽電子ビームシステムを用いて、陽電子の入射エネルギーに対する消滅線スペクトルのエネルギー分布の変化を測定した。また、TRIMにより注入イオンの分布を計算したところ、平均注入深さは、O+は2.6m、Au+は0.6mであった。

 図4-1にO+を照射した場合、図4-2にAu+を照射した場合の陽電子入射エネルギーとSパラメーター(消滅線エネルギースペクトルの全体のカウント数に対する中心部分のカウント数の比)の関係を示す。いずれの場合もイオン照射量の増加に伴い、低陽電子エネルギー領域でSパラメーターが減少している。

図4-1 PEEKに2MeVのO+を照射した時のSパラメーターの変化(照射量:1×1012〜1×1014ions/cm2)図4-2 PEEKに2MeVのAu+を照射した時のSパラメーターの変化(照射量:1×1012〜1×1014ions/cm2)

 イオンを照射した金属や半導体では、一般に照射量が増すとSパラメーターが増すことが知られている。これは、照射により生じた欠陥に陽電子がトラップされ、陽電子が欠陥周囲の運動量の小さい外殻電子と対消滅する割合が増加するため消滅線スペクトルが先鋭化するためである。しかし、今回のイオン照射高分子の場合は、金属や半導体と逆に、イオン照射量の増加に伴いSパラメーターが減少した。多くのポリマー中では陽電子はPsを形成し、陽電子がパラポジトロニウム(p-Ps)を経て消滅する場合は、自由消滅する場合に比べてSパラメーターは大きくなる。未照射PEEK中では約20%のPsが生成することが報告されているが、イオン照射PEEKでは何らかの理由でPs量が減少するため、Sパラメーターが減少したと考えられる。

 また、Sパラメーターの変化の大きさ(△S)、すなわち、

 △S=(未照射PEEKのSパラメーター)-(イオン照射PEEKのSパラメーター)を考え、これを表面部、損傷部、バルク部の3部分に分け、バルク部の△Sを0とし、表面部、損傷部の△Sの大きさと、それぞれの位置をフリーにしたステップ状の近似で解析を行った。この解析では、入射陽電子の注入プロファイルも考慮した。

 図4-3にO+を照射した場合、図4-4にAu+を照射した場合の解析結果を示す。その結果、O+を照射した場合、TRIMによるO+の平均分布(2.6m)より表面側でSパラメーターが変化しており、主にイオンが通過した部分で損傷が生じていると考えられる。一方、Au+を照射した場合では、TRIMによるAu+の平均分布(0.6m)より深い位置でもSパラメーターが変化している。Auイオンのように重イオンを照射した場合は、照射イオンが物質中の原子をさらに弾き飛ばし、その弾き飛ばされた原子により入射イオンの平均注入位置よりも深い位置に損傷が生じたためと考えられる。

図4-3 O+照射材の解析結果図4-4 Au+照射材の解析結果
第5章アモルファスシリコン薄膜中の欠陥と構造変化

 近年、ナノメーターサイズのSi微結晶(nc-Si)が新しい光学材料として注目されている。このnc-Si薄膜を得る方法の一つとして、単結晶Si上に電子ビーム蒸着したアモルファスSi(a-Si)を焼鈍する方法がある。この方法によるnc-Siの生成過程を、陽電子ビームで観察した。試料には、Si(100)基板上に電子ビーム蒸着により厚さ500nmのa-Si層を形成したもの(as-deposited材)と、この試料を800℃で焼鈍したものを用いた。

 図5-1に、蒸着後の試料と蒸着後800℃で焼鈍した試料のS-E曲線を示す。as-deposited材のa-Si部の高いSパラメーター(0.62)が、800℃でわずか10秒間焼鈍することによりSi基板程度(0.53)まで急激に減少している。この大きなSパラメーターの変化の原因として、a-Si部中のボイド中で生成していたPsが、焼鈍によるボイドの消滅により生成しなくなった可能性がある。図5-2に、エネルギー可変陽電子寿命測定装置による陽電子入射エネルギーが5keVの時の陽電子寿命曲線を示す。a-Si部では、Psがスピン交換反応を起こしたときの寿命に近い値である520psの寿命が観測された。

 a-Si層でのPs形成に関しては不明な点もあるが、陽電子ビームがa-Si層の構造変化およびnc-Si生成過程の研究に有効であることがわかった。

図5-1 陽電子入射エネルギーとSパラメーターの関係(a-Si層:500nm)図5-2 陽電子寿命曲線(陽電子入射エネルギー:5keV)
まとめ

 本研究では、物質中のPsの基本的性質からその応用まで、陽電子による計測・分析の中でのプローブとしてのPsの利用に関連してた貴重な知見を得ることができた。物質中でのPsの挙動は複雑であるが、その挙動は物質中の状態変化を反映しており、プローブとしてのPsの利用はこれからさらに発展すると思われる。

審査要旨

 本論文は、電子と陽電子の拘束状態であるポジトロニウム(positronium、Ps)のうち、スピンが平行なオルトポジトロニウム(o-PS、寿命:142ns)のピックオフ反応を利用して、アモルファス物質中の自由体積を測定するうえで基礎となる物質中でのPsの形成および挙動についての検討結果と、陽電子ビームによるイオン照射で高分子中に生成する欠陥および損傷をPs形成の観点から整理したものであり、6章からなる。

 第1章は序論で、研究の背景と目的について述べている。

 第2章は、ポリカーボネートおよびポリスルフォン中でのPs形成に及ぼすハロゲン化物添加の影響について述べている。分子液体でのPs形成は、陽電子は減速の最後段階で分子中にたたきだした電子の一つと結合してPsを形成すし,化学効果に強く影響される。したがって電子受容性の化学種が存在するとPs形成が影響され、Ps形成量を減らす現象インヒビション現象、Ps量を増やすエンハンスメント現象、インヒビターにより減少したPs量が第2添加物により増加する反インヒビション現象が観測さる(スパー電子モデル)。しかし、ポリマー中でのPsの形成収率は自由体積の数濃度と関連づけられるにもかかわらず、Ps形成については不明な点が多い。本論文提出者は、ポリマー中でのPs形成の知見を得るため、ポリカーボネート(PC)、ポリスルフォン(PSF)にハロゲン化物(p-C6H4Cl2、p-C6H4Br2、C10F8)を添加し、o-Ps収率の変化を陽電子寿命測定法により測定した。PCにp-C6H4Cl2およびp-C6H4Br2,を添加すると、o-Psの強度は急激に減少しPsインヒビターとして機能すること、またPCにC10F8を添加するとo-Ps強度は増加しエンハンスメントが起こること、p-C6H4Cl2およびp-C6H4Br2を添加してo-Ps強度を減少させたPCにC10F8を添加するとo-Ps強度は再び増加し、反インヒビションが起こることを観測した。

 PCの-CO-の部分を--SO2--に置換したPSFに、p-C6H4Cl2、p-C6H4Br2、C10F8を添加すると、o-Ps強度はほぼ24%で一定でPsと異なった。PSF中の--SO2--の部分が添加物の影響を受けなかったなかった原因を探るため、純PC、ハロゲン化物添加PCに--SO2--部分のモデル化合物として、ジフェニルサルフォン(-SO2-)を添加し、スパー電子が--SO2--部分に捕獲されることを示唆する結果を得た。

 第3章ではアモルファスポリマー中のPsの拡散係数について述べている。o-Psのポリマー中での拡散は基本的で重要であるにもかかわらず、ポリマー中のPsの拡散係数はほとんど報告されていなかった。本研究ではアモルファスポリマーであるPSF、PC、ポリスチレン(PS)に、Psクエンチャーとして2,2’-ジニトロビフェニル(DNB)を添加し、Psのクエンチングを利用してPsの拡散係数を求めて拡散距離を見積った。

 Psの拡散係数は,O2、Ar、N2等のガス分子より2〜3桁大きい3×10-6cm2/s程度と見積られ、(Dps3)1/2からo-Psの寿命での拡散は1nm程度であることを明かにした。氷での値0.17cm2/sと比べると5桁程度小さのは、アモルファス高分子中ではPsが自由体積に局在化しているため、Psが非局在化している分子性結晶に比べて拡散が困難であるためと結論した。

 第4章ではAu+およびO+を照射アモルファスPoly(aryl-ether-ether-ketone)(PEEK)の損傷について述べている。陽電子ビームは、金属や半導体における欠陥のディブスプロファイルの測定に有用であるが、ポリマーへの適用例が少なく、また高分子の表面特性や物性を改善する方法としてイオン照射が注目されている現状を加味して、イオン照射により損傷したポリマーに陽電子ビーム解析を適用し、その有用性を示すとともに損傷に関する基礎的知見を提供した。0〜1×1014ions/cm2の2MeVのAu+、O+を照射した厚さ200mのアモルファスPEEKについて、陽電子の入射エネルギーに対する消滅線スペクトルのエネルギー分布の変化を測定し、TRIMによる注入イオンの分布の平均注入深さ(計算;O+では2.6m、Au+では0.6m)と比較した。

 O+照射、Au+照射PEEKとも、陽電子入射エネルギーとSパラメーター(消滅線エネルギースペクトルの全体のカウント数に対する中心部分のカウント数の比)の関係はイオン照射量の増加に伴い減少した。イオン照射した金属や半導体では、照射量が増すとSパラメーターが増すのは、照射により生じた欠陥に陽電子がトラップされ、陽電子が欠陥周囲の運動量の小さい外殻電子と対消滅する割合が増加するため消滅線スペクトルが先鋭化するためであるが、イオン照射ポリマーでは、金属や半導体とは逆に、イオン照射量の増加に伴いSパラメーターが減少した。多くのポリマー中でPsが形成され、パラポジトロニウム(p-Ps)を経て消滅する場合、自由消滅に比べてSパラメーターは大きくなる。未照射PEEK中では約20%のPsが生成することが、イオン照射PEEKでは何らかの理由でPs形成が妨害するためと考え、

 △S=(未照射PEEKのSパラメーター)-(イオン照射PEEKのSパラメーター)を表面部、損傷部、バルク部の3部分に分けて計算し、バルク部の△Sを0とし、表面部、損傷部の△Sの大きさと、それぞれの位置をフリーにしたステップ状の近似解析を行った。その結果,O+照射PEEKではTRIMによるO+の平均分布(2.6m)より表面側でSパラメーターが変化しており、主にイオンが通過した部分で損傷が生じると結論した。Au+照射PEEKでは、TRIMによるAu+の平均分布(0.6m)より深い位置でもSパラメーターが変化しているが、重イオン照射では、照射イオンが物質中の原子を弾き飛ばし、反跳原子により入射イオンの平均注入位置よりも深い位置に損傷が生じたためと結論した。

 第5章ではアモルファスシリコン薄膜中の欠陥と構造変化について述べている。近年、新しい光学材料として注目されているナノメーターサイズのSi微結晶(nc-Si)を、単結晶Si(100)基板上に電子ビーム蒸着で厚さ500nmに蒸着したアモルファスSi(a-Si)を焼鈍して調製する過程を、陽電子ビーム解析で観察した。800℃で焼鈍すると、蒸着直後のa-Si部の高いSパラメーター(0.62)が、わずか10秒間でSi基板程度(0.53)まで急激に減少した。Sパラメーターの大きな変化は、a-Si部中のボイドで生成していたPsが焼鈍によりボイドの消滅により生成できなくなったためと考察した。エネルギー可変陽電子寿命測定を行い、陽電子入射エネルギーが5keVの陽電子は、a-Si部でo-Psはスピン交換反応の寿命に近い値(520ps)であった。a-Si層でのPs形成には不明な点もあるが、陽電子ビームがa-Si層の構造変化およびnc-Si生成過程の状況を反映していることを見いだした。

 第6章はまとめで、物質中のPsの基本的性質から陽電子による計測・分析の中でのプローブとしてのPsの利用に関連して得た貴重な知見をまとめている。物質中でのPsの挙動は複雑であるが物質の状態変化を反映しており、プローブとしてのPsの利用の将来の進展を予想している。

 以上を要約すると、本論文はオルトポジトロニウムのアモルファス物質中の自由体積を測定するうえで基礎となる物質中でのPsの形成および挙動について検討し、陽電子ビームによるイオン照射で高分子中に生成する欠陥および損傷をPs形成の観点から整理したものであり、学術的および実用上有効な知見を得ており、ポリマーの物性や評価、材料科学の発展に寄与するところが大である。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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