学位論文要旨



No 112679
著者(漢字) 石渡,裕
著者(英字)
著者(カナ) イシワタリ,ユタカ
標題(和) イネ篩管液チオレドキシンhの細胞間移行とその遺伝子発現
標題(洋) Cell-to-cell movement and gene expression of rice phloem thioredoxin h
報告番号 112679
報告番号 甲12679
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1742号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 茅野,充男
 東京大学 教授 室伏,旭
 東京大学 教授 魚住,武司
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 助教授 林,浩昭
内容要旨

 植物の篩管は,高度に分化した篩部要素(sieve element)と呼ばれる細胞の連なりである.篩部要素はその成熟過程において核やリボソームを失い,上下に並ぶ篩部要素間の細胞壁は,篩孔(sieve pore)という穴の開いた篩板(sieve plate)と呼ばれる構造を取るようになる.この篩孔を持つ篩板を介して上下の篩部要素の細胞質は連絡し,篩管を形成する.また篩部要素は常に伴細胞と呼ばれる代謝の活発な細胞を伴い,両者の間には原形質連絡が密に存在することが知られている.このようにして分化した篩管は,糖やアミノ酸といった同化産物を,葉などのソース器官から分裂組織や貯蔵組織といったシンク器官へと転流する重要な経路である.また篩管を通しての植物ホルモンの移動,花芽形成シグナルの伝達,及び病虫害に対する抵抗性を誘導するシグナルの伝達等が報告されていることから,篩管は情報の伝達経路としても注目される.一方で以前から篩管中にはタンパク質が存在することが知られてきた.このうち篩管の構造タンパク質とされるP-proteinに関しては,それ自体が酸化によってゲル化することで篩管の損傷部位を塞ぐ機能を持つことが考えられている.また,篩部要素の細胞膜上にはH+-ATPaseやシュークロース,アミノ酸のトランスポーターといったタンパク質が局在することが知られている.これとは別に,篩管中には多種の可溶性タンパク質の存在が報告されており,これらは前記のタンパク質と共に篩管転流やシグナル伝達といった機能に対して何らかの役割を担っていると推測される.従ってこうしたタンパク質を同定することは,篩管の機能を解明する上で必須な情報であるが,まだ限られた知見しか得られていない.

 本研究は,植物体の生理状態に影響の少ないインセクトレーザー法によって採取したイネ篩管液を材料として,篩管中のタンパク質の同定とその遺伝子の発現解析,及びそのタンパク質の性質について解析を行ったものである.

1.イネ篩管液タンパク質13kDa-1の同定.

 インセクトレーザー法によって採集されたイネ篩管液中に含まれるタンパク質のうち,最も存在量の多い,分子量約13kDaのタンパク質(RPP13-1)の内部アミノ酸配列(32残基)を元にして17塩基から成るオリゴヌクレオチドプローブを合成し,これを用いてイネの葉から作られたcDNAライブラリーをスクリーニングした.単離されたcDNAクローンの塩基配列の決定を行ったところ,このcDNAは全長687塩基対で,122アミノ酸からなるタンパク質をコードしていた.データベースを用いて相同性検索を行った結果,cDNAの塩基配列から予想されるタンパク質はチオレドキシンhと高い相同性を示し,チオレドキシンとしての活性部位配列(-W-C-G-P-C-)を含んでいた.チオレドキシンはほとんど全ての生物細胞に存在する大きさ約10数kDaのタンパク質で,チオレドキシン還元酵素によって活性化され、チオール基還元活性を持つことが知られている.植物においては3種類のチオレドキシン(f,m,h)が存在するが,このうちチオレドキシンhは細胞質型である.このcDNAを大腸菌体内で大量発現させて作られたタンパク質はRPP13-1と分子量,等電点共に等しく,またジスルフィド結合の還元活性を有していた.さらに抗コムギチオレドキシンh抗血清に対してRPP13-1と同様に結合することから,RPP13-1がチオレドキシンhであることを同定した(以降,RPP13-1を篩管液チオレドキシンhと呼ぶ).篩管の生理状態を損なわない方法で得られた篩管液中のタンパク質の同定は,これが初めてである.篩管中でチオレドキシンは,酸化的傷害を受けたタシパク質の機能回復,酵素やレセプタータンパク質の活性調節,及び活性酸素の除去などに働いていることが予想される.

2.篩管液チオレドキシンhの遺伝子発現.

 篩管は核やリボソームを持たず,それ自身によるタンパク質の新規合成は不可能であると考えられるが,一方で篩管中のタンパク質は次々と更新されるとの報告がある.このため,一般に篩管液中のタンパク質は,伴細胞において合成され,原形質連絡を通じて篩管に送られる可能性が高い.従ってイネ篩管液中に多く存在するチオレドキシンhをコードする遺伝子は,伴細胞において強く発現していると推測される.cDNA配列を用いてin situハイブリダイゼーションを試みたところ,この遺伝子のmRNAはイネの葉,茎において維管束内部で多量に蓄積していた.原生導管を持つが後生導管はまだ発達していない若い維管束では篩部を含め維管束全体において蓄積が見られるが,後生導管の成熟した維管束では篩部,特に伴細胞で多量の蓄積が観察された.篩管液を採集している葉鞘の維管束は後者であることから,先の伴細胞で強く発現するという推測は正しいことが証明された.同時に,篩管液チオレドキシンhの遺伝子発現は分化の度合に従って調節されていることが示唆された.

3.篩管液チオレドキシンhの細胞間移動性.

 上でも述べたように,篩管液中のタンパク質は原形質連絡を通じて篩管に入る可能性が高い.しかしながら種々の大きさの蛍光物質を細胞内に注入して,その隣接細胞への拡散移動を観察する実験により,原形質連絡を通ることのできる分子の大きさには限界があることが知られている.現在までに知られているこの限界の最大値は,Vicia fabaの篩部要素-伴細胞間で報告されている10kDaであり,また通常の葉肉細胞間での限界は約1kDa程度である.にもかかわらず篩管液中にはこれよりも分子量の大きなタンパク質が多数存在することから,篩管液中のタンパク質は何らかの機構によって原形質連絡を拡げることで細胞間を移動できる,もしくは輸送されると考えられる.そこで,先に単離したイネ篩管液チオレドキシンhが原形質連絡の性質を変化させる能力を持つかどうかを調べる実験を行った.

 まず単離したcDNAを用いて大腸菌体内で作らせた篩管液チオレドキシンhをFITCにより蛍光標識した.これをタバコ葉の葉肉細胞内にマイクロインジェクションして蛍光の移動を観察することで,タンパク質の細胞間移動能を検定した.尚,タバコ葉肉細胞間では,原形質連絡を通過できる分子の大きさは約1kDa程度である.その結果,インジェクションした細胞からその近隣の細胞へと蛍光の移動することが観察された.また,それ自体はタバコの葉肉細胞間を移動することのできない約10kDaの蛍光標識されたデキストランと,蛍光標識していない篩管液チオレドキシンhとを混合したものをマイクロインジェクションしたところ,やはり蛍光が細胞間を移動することが観察された.これらの実験から,篩管液チオレドキシンhは,それ自体が細胞間を移動する能力を持つと共に,原形質連絡の物質透過性を上げる能力を有することがわかった.これとは別に,蛍光標識した大腸菌のチオレドキシンをマイクロインジェクションしたところ,蛍光の移動が見られなかった.以上の結果は,細胞間移動能はジスルフィド結合の還元活性とは関連がなく,タンパク質中の活性部位以外の部分にこれを決定する要素が存在することを予測させるものである.そこで,篩管液チオレドキシンhの部分変異体を複数作成し,これらをマイクロインジェクションすることで,変異の細胞間移動能に対する影響を調べた.この結果,篩管液チオレドキシンhのN末端にある5アミノ酸残基を欠損させた変異体と,C末端に近い親水性アミノ酸の集まっている領域にある4アミノ酸残基をアラニンに置換した変異体とにおいて,細胞間移動能が著しく損なわれていた.よって,こうした領域が細胞間移動に深く寄与していることが示唆された.

4.イネ篩管液チオレドキシンh遺伝子プロモーターの解析

 イネ篩管液チオレドキシンhをコードするmRNAは成熟葉においては伴細胞で多量に蓄積することから,この遺伝子のプロモーターは葉においては伴細胞で活性化されていると考えられる.そこで,プロモーター領域を含むイネゲノムDNA断片の単離と,その活性の解析を試みた.cDNAを用いてイネゲノムDNAライブラリーをスクリーニングしたところ,約3000塩基対からなるゲノム断片を単離した.塩基配列を決定したところ,この断片は約1000塩基対の5’上流プロモーター領域と,2つのイントロンと3つのエキソンからなる篩管液チオレドキシンh遺伝子を含んでいた.プロモーター領域中には,スーパーオキシドジスムターゼ遺伝子のプロモーターと相同性のある配列や,分裂組織で強く発現するポリペプチド鎖延長因子EF-1遺伝子プロモーターに共通な配列tef1が存在していた.このチオレドキシンh遺伝子プロモーター領域の活性の組織特異性を検定するため,レポーター遺伝子である大腸菌-グルクロニダーゼ(GUS)遺伝子と融合させ,これを導入した形質転換イネを作成した.形質転換体中でのGUS活性は維管束周辺,特に篩部において観察された.この発現パターンは先にin situハイブリダイゼーションによって調べられたmRNAの蓄積パターンと同様であった.よって成熟葉においては,このプロモーター領域が伴細胞での組織特異的な発現に十分であることが示された.

 以上の結果から,イネ篩管液中に多量に存在する可溶性タンパク質の一つとして,ジスルフィド結合還元活性を持つチオレドキシンhが含まれていることが明らかとなった.この篩管液チオレドキシンhをコードする遺伝子は,篩管液を採取している葉鞘においては伴細胞で強く発現しており,さらに篩管液チオレドキシンhは原形質連絡を移動する能力を持つことが示された.これらの結果は,従来考えられていた,篩管中のタンパク質は伴細胞で合成されて原形質連絡を通じて篩管に入る,とする仮説を強く支持するものである.

審査要旨

 植物の篩管は同化産物をソース器官(葉など)からシンク器官(分裂組織や貯蔵組織)へと転流する重要な経路であると同時に、情報の伝達経路としても注目される。篩管中のタンパク質は篩管機能に対して何らかの役割を担っていると推測され、これらの同定は篩管の機能を解明する上で必須であるが、まだ限られた情報しか得られておらず、さらなる知見の蓄積が期待されている。

 本研究は、篩管中に存在するタンパク質の機能解明を目的として、植物体の生理状態に影響の少ないインセクトレーザー法によって採取したイネ篩管液中に含まれるタンパク質の同定とその性質について解析を行った。

 General Introductionではまず研究の背景と意義について述べ、Chapter1では、イネ篩管液タンパク質のうち最も存在量の多い、分子量約13kDaのタンパク質(RPP13-1)の同定について論じている。まず内部アミノ酸配列を元にした核酸プローブを用いて、RPP13-1をコードするcDNAクローンを単離した。このcDNAがコードするタンパク質は122アミノ酸からなり、チオレドキシンhと高い相同性を示した。cDNAを元に大腸菌体内で作られたタンパク質がRPP13-1と分子量、等電点共に等しく、ジスルフィド結合の還元活性を有していたこと、また抗コムギチオレドキシンh抗血清に対する反応性の一致から、RPP13-1がチオレドキシンhであることを同定した。今回の同定は、生理状態を損なわない方法で得られた篩管液中のタンパク質としては初めての報告となる。

 Chapter2では、in situハイブリダイゼーションによるmRNA蓄積の局在性を観察し、葉、茎中では、mRNAは成熟した維管束の伴細胞で多量に蓄積していることが判明した。これは「篩管液中のタンパク質は伴細胞において合成され、原形質連絡を通じて篩管に送られる」とする仮説を裏付けるものである。また、発達途中の維管束においては維管束全体、特に木部柔細胞での強い蓄積が認められ、遺伝子発現は分化の度合に従って調節されていることが示唆された点は、篩管の発達とタンパク質の局在という視点からも興味深い。

 上のように、篩管タンパク質が細胞間を移行するためには、原形質連絡を何らかの機構によって拡げて、通常はタンパク質の分子量よりも低い、通過可能な分子サイズの限界を高める必要がある。従ってChapter3では、cDNAを用いて大腸菌体内で作らせたRPPl3-1を蛍光標識し、これをタバコ葉肉細胞内にマイクロインジェクションする系で、RPP13-1の細胞間移動能力を検定している。この結果、インジェクションした細胞から近隣の細胞への蛍光の移動が観察され、RPP13-1は通常タバコの葉肉細胞間では約1kDaである通過可能な分子サイズの限界を越えて、細胞間を移動することが示された。9.4kDaの蛍光標識デキストランと、未標識のRPP13-1との混合インジェクションでも蛍光が細胞間を移動し、RPP13-1自体が原形質連絡を拡げる能力を持つことが示された。また、同じ系で蛍光標識した大腸菌チオレドキシンは移動しないことから、細胞間移動能は酵素活性とは関連せず、これを決定する要素は活性部位以外の部分に存在すると予測し、これを調べるためにRPP13-1の部分変異体を複数作成して変異の細胞間移動能に対する影響を調べた。その結果、RPP13-1のN末端の5アミノ酸残基欠損変異体と、C末端付近に並ぶ4つの親水性アミノ酸残基をアラニンに置換した変異体とで移動能が著しく損なわれており、こうした領域が細胞間移動に深く寄与していることを示唆した。

 Chapter4では、RPP13-1遺伝子を含むイネゲノムDNA断片の単離と、これに含まれていた5’プロモーター領域の解析について述べている。単離された断片は約1000塩基対の5’上流プロモーター領域と、2つのイントロンと3つのエキソンからなる篩管液チオレドキシンh遺伝子を含んでいた。また、形質転換イネ中でのレポーター遺伝子の発現様式から、このプロモーター領域は、Chapter2でのmRNAの蓄積パターンと同様の組織特異的遺伝子発現を促すことを示した。

 General Conclusionでは以上の実験の総括を行っている。

 以上、本論文はイネ篩管液中に存在するタンパク質の一つがジスルフィド結合還元活性を持つチオレドキシンhであることを明らかにするとともに、このタンパク質の篩管とりこみ機構を分子レベルで解明したもので学術上、応用上寄与するところ少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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