学位論文要旨



No 112680
著者(漢字) 伊原,さよ子
著者(英字)
著者(カナ) イハラ,サヨコ
標題(和) ラットPC12細胞の神経突起伸長に関わる因子とそのシグナルの解析
標題(洋)
報告番号 112680
報告番号 甲12680
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1743号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 助教授 飴谷,章夫
内容要旨

 ラットPC12組胞は、通常の条件下では未分化なまま増殖を続けるが、神経成長因子(NGF)存在下では分化し、神経突起伸長をはじめとする様々な神経細胞特有の性質を示すようになる。そこで、NGF刺激後に起きるシグナルを解析することは、PC12細胞ひいては神経細胞の分化調節のメカニズムを解明していくうえで非常に重要であり、実際に多くの研究が今までになされてきた。PC12細胞をNGFで刺激すると、チロシンキナーゼ活性を有するレセプターを介して、Ras,MAP kinase,PLC,PI-3 kinaseをはじめとする様々なシグナル伝達分子が活性化される。これらの分子は、PC12細胞に対して増殖作用を示すEGFによっても同様に活性化されるため、分化に特異的なシグナルがどのようなものであるかについて注目されてきた。近年、NGF刺激によるMAP kinaseの活性化の持続度はEGFのそれに比べて長いことから、この差が増殖と分化の差をうみだしているとの議論がなされているが、矛盾する点も多く、はっきりした結論は得られていない。

 一方、PI-3 kinaseはNGF刺激数分後に活性化されることが知られているが、近年、当研究室で得られた結果から、NGF刺激によるPC12細胞の突起伸長にはPI-3 kinaseの刺激直後の一過的な活性化ではなく、その後の低レベルではあるが持続的な活性化が必要であることが示された。このことから、NGFによるPC12細胞の突起伸長の過程は、いくつかの段階に分けられ、その調節のメカニズムもそう単純ではないことが予想される。特にNGFを作用させてすぐ活性化されるシグナルに伴う細胞応答と、それが一度落ち着いてから次に起こることでは明確に差があるように思われた。そこで、PC12細胞の分化誘導を調節するシグナルの解析ではこれらのことを考慮する必要があると思われた。PC12細胞に分化誘導をおこすものはNGF以外にも考えられるので、それらの情報伝達も解析する事で、PC12細胞の分化調節にさらなる知見を得られるものと考えた。

 本研究では,PC12細胞の突起伸長時に働くシグナルに関する新たな知見を得ることを目的とし、PC12細胞に対して突起伸長を誘導する活性を癌細胞培養上清からスクリーニングし、そのシグナルの解析を行った。

1.マウス肝細胞株MLE-15A2培養上清中に存在するPC12細胞神経突起伸長活性とそのシグナルの解析

 39種類の癌細胞株から培養上清を得、PC12細胞に対して突起伸長を示すものをスクリーニングした結果、6種類に活性が検出された。このうちマウス肝細胞株MLE-15A2の培養上清中の活性についてMDDF(MLE-15A2 cells-derived differentiation factor)と命名し、その性質の検討を行った。この活性はプロテアーゼ、DTT,高温処理によって失活したため、タンパク性であることが予想され、ゲル濾過による推定分子量は80kDaであった。この活性の部分精製標品を用いてシグナルの解析を行った。PC12細胞を刺激後、細胞内タンパクのチロシンリン酸化を抗リン酸化チロシン抗体を用いたwestern blottingによって調べた。NGF刺激の際とは異なり、ほとんどリン酸化は見られなかった。さらに、MDDF刺激後のMAP Kinaseの活性を測定したところ、5分後にごく弱い活性が見られるに過ぎず、NGFの場合とは全く異なることが示された。さらに、MDDFによる突起伸長にMAP kinaseの活性化が必要であるかどうかをMAP kinase kinaseの阻害剤である PD98059を用いて調べたところ、必要でないことが明らかとなった。また、PI-3 kinaseの阻害剤であるwortmanninによっても突起伸長は阻害されず、MDDFによる突起伸長にはPI-3 kinaseも必要でないことが示された。以上のことから、MDDFはNGFとは全く異なるシグナル伝達を介してPC12細胞に突起伸長を誘導する新しいタイプの因子であることが示唆された。

2.NGFによる前処理を行ったPC12細胞に対して突起伸長を示す活性の単離と精製

 先に述べたように、NGFによるPC12細胞の突起伸長の過程は複数の段階から成ると考えられる。そこで、突起伸長の誘導を開始する初期段階ではNGFの刺激を必要とするが、その後のステップではNGFを代替できるような因子のスクリーニングを試みた。癌細胞培養上清から、通常のPC12細胞に対しては何ら活性を持たないが、あらかじめNGF存在下で2時間培養した(以下initiationと記す。)細胞に対しては突起伸長活性をもつものをスクリーニングした結果、ヒトglioblastoma由来細胞株SF295培養上清中にその様な活性が検出された。そこでこの活性の精製をおこなった。培養上清を出発点とし、CM TOYOPEARL,Blue TOYOPEARL,Syncropak CM,逆相カラムによる精製を経て、逆相カラムの溶出フラクションをSDS-PAGEにより分離したところ、24kDa付近に活性と対応する単一のバンドが検出された。このバンドをゲルから切り出し、リジルエンドペプチダーゼで切断して得られた2断片についてアミノ酸配列を決定したところ、このタンパクはIL-6(Interleukin-6)と同定された。市販の組換え体IL-6を用いても目的とする活性が検出されたため、活性の本体はIL-6であることが確認された。

3.IL-6によるPCl2細胞の突起伸長に必要なシグナルの解析

 IL-6は免疫系、造血細胞などにおいて多様な機能をもつサイトカインであるが、神経系での役割も示唆されてきている。PC12細胞に対しては単独で突起伸長を誘導するとの報告が以前なされたが、その後否定される報告も出ており、われわれの結果とも一致しない。いずれにしても今回明らかになったNGF initiation後の細胞に対する突起伸長活性はIL-6の持つ活性として新しいものである。そこで、このIL-6の活性に必要なシグナルの解析を行った。

 IL-6レセプターはリガンドと結合するIL-6レセプター鎖と、細胞内にシグナルを伝えるのに必要なgp130からなる。IL-6の刺激によってgp130はチロシンリン酸化をうけ、このリン酸化チロシンに対して様々な分子が会合することによってシグナルが伝わることが知られている。現在までに明らかになっている経路は、Ras-MAPkinase経路とSTAT3を介する経路であり、この両者を活性化するのに必要なgp130のチロシンリン酸化部位も明らかになっている。そこで、G-CSFレセプターの細胞外ドメインとgp130の細胞内ドメインに様々な変異を加えたものから成るキメラレセプターをもちいて、IL6による突起伸長にはどの経路が必要であるかを検討した。キメラレセプターの発現ベクターをPC12細胞にmicroinjectionし、NGFでinitiationしたのちG-CSFで剌激し、突起の伸長を観察した。Wild typeのレセプターを発現させた場合にはIL-6で刺激したときと同様な突起伸長がみられたため、この系は有効であることが示された。一方、MAP kinase経路に必要なチロシンリン酸化部位をフェニルアラニンに置換した変異レセプターを発現させた場合には、突起の伸長は阻害された。NGF initiationののちにIL-6で刺激する系においてもIL-6刺激と同時に細胞にMAP kinase kinaseの阻害剤であるPD98059を加えるとやはり突起の伸長が阻害されることから、IL-6の突起伸長にはMAP kinaseの活性化が必要であることが示唆された。

 一方、STAT3を活性化することで知られているチロシンリン酸化部位をフェニルアラニンに置換した変異レセプターを発現させた場合には突起伸長には影響せず、むしろ活性が強くなっているかのように観察された。そこで、この変異レセプターを発現させた細胞の突起伸長にはNGFによるinitiationは必要でないかもしれないと考え、G-CSFでのみ刺激した結果、NGF initiation後と同様な突起の伸長が観察された。このことから、STAT3はIL-6単独による突起伸長に抑制的に働いている可能性が考えられる。そこで、wild typeのレセプターとともにdominant negative STAT3をinjectionしたところ、やはりinitiationなしで突起伸長が観察された。以上のことから,STAT3は突起伸長に抑制的に働くものと考えられる。最後にNGFのSTAT3の活性に与える影響について調べた。細胞をNGFでinitiationした場合としない場合についてIL-6によるSTAT3の活性化を、STAT3による免疫沈降ののち抗リン酸化チロシン抗体でwestern blottingを行うことによって調べた。その結果、NGFでinitiationした場合にはしない場合に比較してチロシンリン酸化のレベルが著しく減少していることが明らかになった。以上のことから、NGFinitiationの意義は突起伸長に抑制的にはたらくSTAT3の活性化を抑える点にあるのではないかと考えられる。

4.まとめ

 単独で突起伸長活性を持つMDDFに関してはその活性にNGFの場合に必要とされているシグナルは必要でないことが示され、この因子によるシグナル伝達を解析することで突起伸長に必要な新たなシグナルを見い出す可能性が示された。

 また、NGF initiation後の細胞に突起伸長を誘導する因子を検索した結果、IL-6を同定できた。そのシグナル伝達を解析した結果、STAT3が突起伸長後に抑制的な役割をはたしていること、およびNGFの刺激がSTAT3活性化を抑制することが明らかになった。STAT3はPC12細胞を分化でなく増殖に導くEGFによって活性化され、逆に分化を促すNGFでは抑制される。このことから増殖と分化という細胞の命運を左右する段階でSTAT3が重要な役割を果たしていることが考えられた。

審査要旨

 本論文は、神経細胞が分化する際に細胞内でどのようなシグナルが伝達されているかを調べたものであり、五章からなる。ラットPCl2細胞は神経成長因子(Nerve growth factor、NGF)刺激により神経細胞様に分化し、神経突起を伸長する。一方で、上皮増殖因子(Epidermal growth factor)で刺激した場合には、増殖するため、細胞の増殖と分化の調節機構を知るための良いモデル細胞として用いられている。今までに、NGFによるシグナル伝達の研究はさかんに行われてきているが、分化を決定づけるシグナルがどのようなものであるかは明らかではない。著者は、この点を明らかにする事を目的とし、PC12細胞に対して分化の作用を示すNGF以外の因子を癌細胞培養上清中からスクリーニングし、その因子によってひきおこされるシグナル伝達の解析を行った。

 第一章において研究の背景と意義について概説した後、第二章において癌細胞MLE15A-2細胞培養上清中から検出された突起伸長活性についてMDDFと命名し、その性質の検討とシグナル伝達の解析の結果を述べている。この活性の本体はタンパク性であることが示された。また、MDDFによる突起伸長においては、NGFによる突起伸長に必要とされるMAP kinaseやPI-3 kinaseの活性化は必要でないことが各種阻害剤を用いた実験などによって示された。従って、NGFなどとは異なる様式のシグナルを伝える新しいタイプの分化因子である可能性が示唆された。第三章においては、単独では突起伸長活性を持たないが、NGFで2時間前処理したPC12細胞に対して活性を示す癌細胞培養上清についてその精製と性質を述べている。4本のカラムを用いて精製を行い、電気泳動の後活性と挙動を共にするバンドのアミノ酸配列を決定した結果、interleukin-6(IL-6)のものと一致した。実際に組み換え体のIL-6を用いても同様な活性が検出されたことから、この活性の本体はIL-6であることが確認された。そこで、第四章ではIL-6刺激によってひきおこされるどのようなシグナルが突起伸長に必要であるのかについて検討している。IL-6のレセプターのうち、シグナルを伝えるのに必要なサブユニット、gp130はIL-6刺激によって主にMAP kinase経路と、JAK-STAT経路を活性化することが知られている。どちらがIL-6による突起伸長に必要であるか解析するために、さまざまな変異をいれたgp130にG-CSFの細胞外領域を連結したキメラレセプターを用いた。PC12細胞はもともとはG-CSFに応答しないため、このキメラレセプターをPC12細胞に導入し、G-CSFで刺激すると、変異gp130の効果のみをみることができる。そこでこれらの変異キメラレセプターを細胞にmicroinjectionし、NGFで2時間刺激後、G-CSFで刺激し、突起伸長の有無を調べた。その結果、MAP kinaseを活性化するのに必要なチロシン残基を置換した変異体をmicroinjectionした際には突起の伸長は見られなかった。このことからIL-6による突起伸長にはMAP kinaseの活性が必要であることが示唆された。一方でSTAT3を活性化するのに必要なチロシン残基を置換した変異体をmicroinjectionした場合には突起の伸長には影響しなかった。それどころか、NGFによる前処理なしでG-CSFのみで突起伸長が見られるようになった。このことから、STAT3がIL-6による突起伸長において抑制的な働きをしていることが予想された。そこで、wild typeのキメラレセプターとともに内在性のSTAT3の働きを阻害するdominant negative STAT3をmicroinjectionし、G-CSFのみで刺激したところ、突起伸長が観察された。以上のことからSTAT3は突起伸長に抑制的に働くものと考えられる。最後にNGFのSTAT3の活性に与える影響について調べた。細胞をNGFで処理した場合としない場合についてSTAT3の活性化を、STAT3によるチロシンリン酸化によって調べた。その結果、NGFで処理した場合はしない場合に比べてSTAT3のチロシンリン酸化のレベルが著しく減少していることが明らかになった。

 以上本論文は、神経細胞の突起伸長にSTAT3が抑制的な働きを担っていることを明らかにした。STAT3はPC12細胞を細胞増殖を誘導するEGFで刺激した場合には活性化され、分化を誘導するNGFでは活性化されないことから、STAT3が分化と増殖の調節をおこなう重要な分子である可能性を示したもので、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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