自家不和合性は植物のもつ自家受精を抑制する機構の一つであり、後代の遺伝的多様性を確保し、種の繁栄に貢献してきたと考えられている。自家不和合性を示すアブラナ科植物には柱頭特異的な発現を示すS糖タンパク質(SLG)およびS糖タンパク質に相同な細胞外ドメインを有するSレセプタープロテインキナーゼ(SRK)が存在する。それらは自家不和合性の認識機構に関与するとされているが、これまで直接的な証拠は得られていなかった。 本論文は、形質転換植物を用いて、SLGの機能を明らかにし、アブラナ科植物の自家不和合性での柱頭、花粉間での自己認識機構について論じたものであり、3章よりなる。 第1章ではアンチセンスSLG遺伝子を用いたアブラナ科植物の形質転換と自家不和合性の打破について論じている。SLG及びSRKが自家不和合性の発現機構に関与しているかどうかを調べる目的で、SLGをコードする遺伝子をアンチセンス方向にアブラナ科植物に導入し、得られた形質転換植物の形質の変化を観察した。SRKはSLGと極めて相同性の高いドメインを有するため、導入されたSLGのアンチセンスは両方の遺伝子の発現を阻害すると考えられた。そこでBrassica campestris S8ホモ系統株由来のSLG8をコードするcDNAを逆向きに組み込んだ植物ゲノムDNA導入用ベクターを構築し、アグロバクテリウムを用いたバイナリーベクター法によって自家不和合性を示すBrassica rapa Candle株に導入した。その結果得られた形質転換体は、野生型と同様の生育を示し、外見上の変異は認められなかったが、形質転換体における内在性のSLGは野生型の25%にまで低減し、SRKに関しても転写レベルでの発現量の低下が観察された。また、野生型では自家受粉時に花粉管の伸長がほとんど観察されないが、形質転換体では多数の花粉管の伸長が観察された。しかも種子形成率は、野生型の3%に対し、形質転換体では80%であった。これらの結果は、内在性のSLGおよびSRKの発現量の低下に伴い、形質転換体は自家和合へと変化したことを示していた。またこれらの形質は後代にわたっても遺伝していた。しかし自家受粉時の花粉管伸長数は、他家受粉時の1/2〜1/4にとどまり、鞘中の種子の数も低下していた。これらの結果より、SLGおよびSRKの発現量に応じて、自家不和合性は遷移的に調節されることが示唆された。 第2章では毛状根を用いた形質転換系とSLGの発現について論じている。まず、アブラナ科植物において自家不和合性を解析するための効率の良い形質転換系の構築を、毛状根を用いて試みた。Riプラスミドを持つアグロバクテリウムR1000株をB.rapa Candle株の子葉および胚軸に感染させることにより、10%程度の高い形質転換効率で毛状根が得られた。しかし、毛状根よりホルモン処理によりシュートの形成には成功したものの、再分化体はホルモンフリーの培地では毛状根に再々分化し、目的の形質転換系の構築には至らなかった。そこで、毛状根による形質転換系を利用したタンパク質の大量生産を検討することとし、自家不和合性の解析に必要なSLGの大量発現を試みた。SLG8をコードするゲノムDNAを、アグロバクテリウムR1000株を用いてNicotiana tabacumに導入し、得られた毛状根におけるのSLGの発現をSDS-PAGEにより調べた。その結果、抗S8抗体と反応するバンドがSLG標品と同じ位置に検出され、毛状根を用いてSLGを発現することが可能であることを示した。 第3章ではアブラナ科植物の自家不和合性に関与する花粉側因子の探索について論じている。花粉表層に存在し、SLGと結合することにより、自家不和合性の認識機構と関与する可能性を持つPCP7(pollen coat protein)をコードする遺伝子の解析を行った。B.campestrisの5系統の葯から既知のPCP7のアミノ酸配列を基に、PCP7遺伝子の部分配列を得た。各系統の部分配列は、アミノ酸で95%以上のホモロジーがあり、高度に保存されていた。また、PCP7遺伝子の上流域の配列も系統間で高度に保存され、さらに連鎖解析より、PCP7遺伝子は自家不和合性と連鎖せず、自家不和合性の認識機構に直接は関与しないことが示唆された。一方、PCP7遺伝子を取得する際に、PCP7遺伝子とアミノ酸配列で約60%のホモロジーを持つPCP7関連遺伝子を新たに見出し、それらの自家不和合性への関与の可能性を提出した。 以上本論文は、アブラナ科植物の柱頭に存在するS糖タンパク質の、自家不和合性の認識機構への関与を、形質転換植物を用いて初めて明らかにしたもので、学術上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |