学位論文要旨



No 112683
著者(漢字) 柴,博史
著者(英字)
著者(カナ) シバ,ヒロシ
標題(和) 形質転換法によるアブラナ科植物の自家不和合性の解析
標題(洋) A study of self-incompatibility of Brassica by transformation
報告番号 112683
報告番号 甲12683
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1746号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,昭憲
 東京大学 教授 茅野,充男
 東京大学 教授 室伏,旭
 奈良先端科学技術大学院大学 教授 磯貝,彰
 奈良先端科学技術大学院大学 助教授 作田,庄平
内容要旨

 自家不和合性は植物のもつ自家受精を抑制する機構の一つであり、後代の遺伝的多様性を確保し、種の繁栄に貢献してきたと考えられている。この機構は受粉から受精に至る過程で行われる柱頭と花粉間における細胞間相互作用であり、未知の部分の多い植物の自己・非自己認識機構のモデルとして非常に興味あるものである。

 これまでの研究から自家不和合性を示すアブラナ科植物には柱頭特異的な発現を示すS糖タンパク質(SLG)およびS糖タンパク質に相同な細胞外ドメインを有するSレセプタープロテインキナーゼ(SRK)が存在することが明らかにされている。これらは種々の状況証拠から自家不和合性の認識機構に関わる柱頭側因子と考えられ、構造解析を中心とした研究が進められてきた。しかしこれまで両物質の自家不和合反応への関与を明らかにする直接的な証拠は得られておらず、両物質を含めた認識機構のモデルは依然として推測の域を出ないものである。そこで第1章では、自家不和合性の自己認識機構に関与する物質の特定を目的としてアブラナ科植物にアンチセンスSLG遺伝子を導入した形質転換植物を作出し、アンチセンス遺伝子の作用により自家不和合性が打破されることを示唆した。また第2章ではSLGの機能および構造解析を行う際の、標品の確保として形質転換植物を用いたSLGの大量調整系の確立を試みた。さらにアンチセンスSLG遺伝子を導入した形質転換体の解析より、両物質の認識機構への関与が明らかになったため、第3章ではSLGと反応しうる花粉側因子の探索を行った。

第1章アンチセンスSLG遺伝子を用いたアブラナ科植物の形質転換と自家不和合性の打破

 S遺伝子の産物とされるSLG及びSRKが自家不和合性の発現機構に関与しているかどうかを調べる目的で、SLGをコードする遺伝子をアンチセンス方向にアブラナ科植物に導入し、得られた形質転換植物の形質の変化を観察した。SRKはSLGと極めて相同性の高いドメインを有するため、導入されたSLGのアンチセンスは両方の遺伝子の発現を阻害すると考えられる。そこでSLG(B.campestrisS8ホモ系統株)をコードするcDNAを逆向きに組み込んだ植物ゲノムDNA導入用ベクターを構築し、アグロバクテリウムを用いたバイナリーベクター法によって自家不和合性を示すB.rapa(syn.B.campestris)Candle株に導入した。この結果、30個体分の子葉片から3個体の再分化体が得られ、ゲノミックサザンハイブリダイゼーションを行ったところ、1個体が形質転換体であった。この株は野生型と同様の生育を示し、外見上、変異は認められなかった。しかし内在性のSLGまたはSRKの発現量を転写または翻訳レベルで検出したところ、形質転換体における内在性のSLGは野生型の25%にまで低減していた。さらにSRKに関しても転写レベルでの発現量の低下が観察された。自家受粉時における花粉管の挙動を観察したところ、野生型ではほとんど花粉管の伸長が観察されず、多くのカロース栓が乳頭突起細胞上に観察されたのに対して、形質転換体では多数の花粉管伸長が観察された。しかも自家受粉時の種子形成率をみると、野生型は3%程度であったのに対し、形質転換体では80%近い種子形成率を示した。この結果はすなわち、内在性のSLGおよびSRKの発現量の低下に伴い、形質転換体は自家和合へと変化したことを意味する。またこれらの形質は後代にわたっても遺伝していた。しかし自家受粉時の花粉管伸長数を観察すると他家受粉時の花粉管数に比べて1/2〜1/4にとどまり、鞘中の種子の数も他家受粉時に比べて低下していた。この結果はアンチセンス遺伝子の導入によって内在性のSLGおよびSRKの発現を低減したことに起因するものであり、抑制しきれなかったSLGおよびSRKによって部分的に自家不和合性が現れたものと思われる。これらの結果から自家不和合性の現象はSLGおよびSRKの発現がある一定の閾値以下になると不和合が和合に切り替わるような現象ではなく、SLGおよびSRKの発現量の大小に応じて遷移的に調節される性質の現象なのではないかと推察された。

第2章毛状根を用いた形質転換とSLGの発現

 自家不和合性を示すアブラナ科殖物の形質転換は非常に困難であることが知られており、自家不和合性の研究を行う上でネックとなっている。これまでにも種々の自家不和合性を示すアブラナ科植物の選定やアグロバクテリウムの選定、または再分化系の検討などを行ってきたが、現時点で得られた形質転換体はわずか1個体にすぎない。そこで効率の良い形質転換系を考える一つの方策として、毛状根を用いたBrassica植物の形質転換体の作出を試みた。Riプラスミドを持つアグロバクテリウムR1000株を発芽4〜6日のB.rapa Candle株の子葉および胚軸に感染させることにより、10%程度の形質転換効率で毛状根が得られた。またこの毛状根を2,4-Dで処理後、高濃度のサイトカイニンで処理することによりシュートを形成させることができた。しかしながらこの再分化体はホルモンフリーの培地に定植させたところ毛状根に再々分化してしまった。これは毛状根内での植物ホルモンのバランスが根への分化を促す方向に大きく偏っているためと考えられ、従って毛状根を用いた形質転換系の確立は困難であると判断された。そこで次に毛状根による形質転換系を利用した有用タンパク質の大量生産の可能性について検討した。その一例としてSLGの大量発現を試みた。SLG(B.c.)をコードするゲノムDNAを植物組織内で構成的に発現するように組み込んだ植物ゲノムDNA導入用ベクターを構築し、アグロバクテリウムR1000株を用いてN.tabacumに導入した。得られた毛状根の粗抽出物を、SDS-PAGEに供し、CBB染色,抗体染色を行いSLGの発現の有無,分子量および糖鎖の付加を調べた。その結果、抗S8抗体と反応するバンドがSLG標品と同じ位置に検出されたが、intactなSLGが糖鎖の付加のヘテロジェナイティにより、バンドがブロードもしくは数本に分かれるのに対して、毛状根発現タンパク質の場合は一本に収束した。このような結果は植物種または組織の違い、もしくは毛状根の増殖形態上の性質から糖鎖の付加様式が本来のSLGとは異なったことによるものと考えられる。また毛状根の各個体ごとにSLGの発現量に差がみられたが、最も発現量が多い個体でもCBB染色では特異バンドととして観察できない程度の量であった。また得られた毛状根を継代培養したところ、SLGの発現が止まってしまった。今後、新たな方策を考える必要がある。

第3章アブラナ科植物の自家不和合性に関与する花粉側因子の探索

 第1章の結果はSLGおよびSRKの自家不和合性の認識機構への関与を示唆するものであった。一方近年、花粉の表層に存在し、SLGと特異的に結合することが示唆されているPCP7(pollen coat protein)またはPCP7関連物質が自家不和合性の認識機構における花粉側のリガンド物質である可能性が高いと考え、本物質をコードする遺伝子のクローニングおよび構造解析を行い、さらに形質転換植物の作出を行うことにより自家不和合性との関連を明らかにすることを計画した。まず、B.campestrisの5系統の開花3,4日前の葯からそれぞれ抽出したmRNAをテンプレートとして既に報告されているPCP7のアミノ酸配列を基に作成したPCP7特異的プライマーによるRTPCRを行い、約150bpからなるPCP7遺伝子の部分配列を得た。各系統から得られた部分配列を比較すると、アミノ酸レベルで95%以上のホモロジーがあり、系統間で高度に保存されていることが分かった。さらにゲノムDNAおよびcDNAを用いた上流域の解析によってPCP7遺伝子は配列中に1つのイントロンを含み、シグナル配列を有する分泌性タンパク質であることが明らかとなった。本配列は系統間で高度に保存されており、しかも連鎖解析によりこれらpcp7遺伝子は自家不和合性の現象と連鎖していないことが明らかとなったため、自家不和合性の認識機構に直接の関与はしていないものと考えられる。一方PCP7遺伝子の単離の際にPCP7遺伝子とアミノ酸配列で約60%のホモロジーを持つ類似配列が得られた。このPCP7関連遺伝子について現在連鎖解析を行い、認識機構への関与の可能性を調べている。またプロモーター配列も単離しており、現在解析中である。得られたPCP7遺伝子またはPCP7関連遺伝子は現在、アンチセンスにBrassica植物に導入しており、今後得られた形質転換体の解析を行う予定である。

 本研究により、これまで状況証拠から推定されるのみであったSLGやSRKの自家不和合性の認識機構への関わりが初めて実験的に証明された。自家不和合反応機構の柱頭側因子が特定できたことは、今後の研究に関しても明確な指針を与えるものと考える。特にこれまで不明であった花粉側の自家不和合因子の検索を、SLGまたはSRKとの相互作用の観点から進めることが認識機構の解明への近道になるものと確信する。第3章で、PCP7と自家不和合性の関連については否定的な結果が得られているが、PCP7関連物質の研究は不十分であり、今後詳細な研究をする必要がある。また本実験の性質上、SLGとSRKの両方が直接的に自家不和合機構に関わっているのかは明確にできなかった。今後、両物質の役割を個々に検証することが、柱頭側の自家不和合情報カスケードの解明にとって重要であると考える。

 また毛状根を用いたSLGの大量発現と精製は、これまで大腸菌を用いたタンパク質の発現時に問題となっていた糖鎖の付加の問題を解決することを目的としている。現時点では毛状根中で発現はみられるものの発現量または糖鎖の付加の点で解決すべき問題が残っている。しかしながら本研究は、SLGの機能が明らかになった際にその機能に対する糖鎖の役割を解明する一助となり、植物糖鎖工学にも貢献するものと考えている。

審査要旨

 自家不和合性は植物のもつ自家受精を抑制する機構の一つであり、後代の遺伝的多様性を確保し、種の繁栄に貢献してきたと考えられている。自家不和合性を示すアブラナ科植物には柱頭特異的な発現を示すS糖タンパク質(SLG)およびS糖タンパク質に相同な細胞外ドメインを有するSレセプタープロテインキナーゼ(SRK)が存在する。それらは自家不和合性の認識機構に関与するとされているが、これまで直接的な証拠は得られていなかった。

 本論文は、形質転換植物を用いて、SLGの機能を明らかにし、アブラナ科植物の自家不和合性での柱頭、花粉間での自己認識機構について論じたものであり、3章よりなる。

 第1章ではアンチセンスSLG遺伝子を用いたアブラナ科植物の形質転換と自家不和合性の打破について論じている。SLG及びSRKが自家不和合性の発現機構に関与しているかどうかを調べる目的で、SLGをコードする遺伝子をアンチセンス方向にアブラナ科植物に導入し、得られた形質転換植物の形質の変化を観察した。SRKはSLGと極めて相同性の高いドメインを有するため、導入されたSLGのアンチセンスは両方の遺伝子の発現を阻害すると考えられた。そこでBrassica campestris S8ホモ系統株由来のSLG8をコードするcDNAを逆向きに組み込んだ植物ゲノムDNA導入用ベクターを構築し、アグロバクテリウムを用いたバイナリーベクター法によって自家不和合性を示すBrassica rapa Candle株に導入した。その結果得られた形質転換体は、野生型と同様の生育を示し、外見上の変異は認められなかったが、形質転換体における内在性のSLGは野生型の25%にまで低減し、SRKに関しても転写レベルでの発現量の低下が観察された。また、野生型では自家受粉時に花粉管の伸長がほとんど観察されないが、形質転換体では多数の花粉管の伸長が観察された。しかも種子形成率は、野生型の3%に対し、形質転換体では80%であった。これらの結果は、内在性のSLGおよびSRKの発現量の低下に伴い、形質転換体は自家和合へと変化したことを示していた。またこれらの形質は後代にわたっても遺伝していた。しかし自家受粉時の花粉管伸長数は、他家受粉時の1/2〜1/4にとどまり、鞘中の種子の数も低下していた。これらの結果より、SLGおよびSRKの発現量に応じて、自家不和合性は遷移的に調節されることが示唆された。

 第2章では毛状根を用いた形質転換系とSLGの発現について論じている。まず、アブラナ科植物において自家不和合性を解析するための効率の良い形質転換系の構築を、毛状根を用いて試みた。Riプラスミドを持つアグロバクテリウムR1000株をB.rapa Candle株の子葉および胚軸に感染させることにより、10%程度の高い形質転換効率で毛状根が得られた。しかし、毛状根よりホルモン処理によりシュートの形成には成功したものの、再分化体はホルモンフリーの培地では毛状根に再々分化し、目的の形質転換系の構築には至らなかった。そこで、毛状根による形質転換系を利用したタンパク質の大量生産を検討することとし、自家不和合性の解析に必要なSLGの大量発現を試みた。SLG8をコードするゲノムDNAを、アグロバクテリウムR1000株を用いてNicotiana tabacumに導入し、得られた毛状根におけるのSLGの発現をSDS-PAGEにより調べた。その結果、抗S8抗体と反応するバンドがSLG標品と同じ位置に検出され、毛状根を用いてSLGを発現することが可能であることを示した。

 第3章ではアブラナ科植物の自家不和合性に関与する花粉側因子の探索について論じている。花粉表層に存在し、SLGと結合することにより、自家不和合性の認識機構と関与する可能性を持つPCP7(pollen coat protein)をコードする遺伝子の解析を行った。B.campestrisの5系統の葯から既知のPCP7のアミノ酸配列を基に、PCP7遺伝子の部分配列を得た。各系統の部分配列は、アミノ酸で95%以上のホモロジーがあり、高度に保存されていた。また、PCP7遺伝子の上流域の配列も系統間で高度に保存され、さらに連鎖解析より、PCP7遺伝子は自家不和合性と連鎖せず、自家不和合性の認識機構に直接は関与しないことが示唆された。一方、PCP7遺伝子を取得する際に、PCP7遺伝子とアミノ酸配列で約60%のホモロジーを持つPCP7関連遺伝子を新たに見出し、それらの自家不和合性への関与の可能性を提出した。

 以上本論文は、アブラナ科植物の柱頭に存在するS糖タンパク質の、自家不和合性の認識機構への関与を、形質転換植物を用いて初めて明らかにしたもので、学術上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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