学位論文要旨



No 112686
著者(漢字) 渡辺,武
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,タケル
標題(和) 昆虫に関わる生物活性物質の合成研究
標題(洋)
報告番号 112686
報告番号 甲12686
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1749号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 教授 室伏,旭
 東京大学 教授 瀬戸,治男
 東京大学 助教授 作田,庄平
 東京大学 助教授 渡辺,秀典
内容要旨

 有機合成化学はこれまで農業の発展に多大な貢献をしてきた。中でも最大のものは、農薬の開発を通じての害虫防除への寄与であり、それは今後も変わらないであろう。一方で、要求される農薬の質は時代とともに変化してきており、とくに環境問題が注目される近年では、害虫に対して大きな効果をもちながらも人々の健康や生態系に及ぼす影響がなるべく小さいものが求められてきている。そのような状況の中で、基本的に微量で活性を持ち、ある種の昆虫に特異的に影響をあたえ、一方で人類や周辺環境への害の少ない昆虫関連生物活性物質の研究の重要性はますます高まっているといえる。そして、実用性という観点のみならず、その構造活性相関や昆虫自体の生物学的研究のためにも有機合成による試料の供給が欠かせないものとなっている。

 この様な見地に立ち、著者は昆虫関連生物活性物質、中でもその代表格である昆虫フェロモンと昆虫摂食阻害物質の合成研究を行なった。

1.マツモグリカイガラムシ性フェロモン3種のラセミ、ジアステレオマー混合物の簡便合成

 マツモグリカイガラムシ(Matsucoccus sp.)は世界各地に分布する、マツを枯らす害虫であり、体長数ミリと小型でしかも樹皮内に寄生するため、顕著な被害がでるまでその存在が分からないことが多い。そこでフェロモントラップによるモニタリング、また防除への利用を視野に入れ、1980年代以降そのフェロモン研究が盛んに行われてきた。その成果として、1989年にSilversteinらがM.resinosae、M.matsumurae、M.thunbergianaeの雌が生産する誘因性の性フェロモンを単離、平面構造を決定し、matsunoneと命名した。さらに1990年にはEinhornらによりMaritime Pine Scale(M.feytaudi)、1993年にはDunkelblumらによりIsraeli pine bast scale(M.josephi)の性フェロモンが単離、構造決定された。それを受けて当研究室などで各立体異性体の合成がなされ、それらの生物活性試験や天然物とのGLC、NMRの比較により、これまでに3種全ての絶対立体配置が決定している。

 

 これらフェロモンの利用研究のためには大量の試料供給が必須であり、簡便な効率的合成法の開発を目的としてこの研究に着手した。その際、いずれのフェロモンにおいても天然体の立体異性体による活性の阻害はないことが知られていたので、合成の工程を減らすため目的物としてはラセミ、ジアステレオマー混合物を選んだ。

 合成戦略としては、3種のフェロモンの構造上の共通点である,,,-不飽和ケトン部分に注目し、それぞれのフェロモンに対応したアルキル金属の,,,-不飽和ニトリル5への付加反応を計画した。

 ニトリル5については、対称な3級アリルアルコール4へのルイス酸の作用により生じたペンタジエニルカチオンのシアニドイオンによるトラップを鍵反応として調製し、酢酸エチルより2工程で調製した。このような手法により、1、2については3工程、3についてはニトリルよりアルデヒドを経由することにより、5工程という短工程での合成に成功し、生物活性試験のための試料を供与することができた。

 

2.昆虫摂食阻害物質アザジラクチンの合成研究

 1968年、MorganらによりインドセンダンAzadirachtaindica(A.Juss)の種子より単離されたリモノイドの一種アザジラクチン(7)は、多種の昆虫に対して天然物中で最高レベルと言われる強力な摂食阻害活性と成長阻害活性をもつ一方で変異原性や哺乳類などに対する毒性がみられず、その活性の面から注目を集めている。1985年に確定したその構造は左側の高度に酸化されたデカリン骨格と右側のテトラシクロ部が非常にこみあった位置で結合した特異な構造をしており、化学合成の面からも興味深い。筆者は7の活性とその構造、そしてそれらの相関に興味を持ちその化学合成に着手した。

2-1.右側ヒドロキシジヒドロフランアセタール部分の合成研究

 全合成に利用できる形での右側部分の合成を目指し、8を目的物として合成研究を開始した。同時に、右側ヒドロキシジヒドロフランアセタール部分の昆虫摂食阻害活性への寄与を知るために、8を経てアザジラクチン右側部分に類似の構造をもつ3種の化合物(9、10、11)を光学活性体として合成し、生物活性試験に供することも目的とした。

 

 光学活性原料として、ジケトン12のパン酵母還元を利用した光学分割により得られるヒドロキシケトン13を用いた。アセタール保護の後、2段階の酸化を経て得たラクトン14のところで再結晶により光学純度を向上させた。続く数段階でも再結晶による精製を行い、ラクトン位の酸化、アリル化を経て調製した15においてほぼ100%eeであることを確認した。15よりラクトンの半還元、オゾン酸化によりアセタール部の構築を完了した。最後に保護、脱保護を行って、目的物である8を得た。さらに8よりオレフィン16を経て3種の右側部分類似体を光学的にほぼ純粋な形で合成した。

 これら3種の化合物の生物活性試験の結果、右側部分単独では摂食阻害活性は低く、左側デカリン骨格部分が活性に大きな寄与をしていることが明らかになった。

 

2-2.左側デカリン骨格の合成研究

 全合成を視野に入れた左側部分の骨格構築を目的とし、モデル化合物としてはA環の酸素官能基が少なく、右側部分の代わりにシクロペンチル基が結合した化合物17を考えた。B環構築法としては8-9位間での、不飽和エステルへの炭素ラジカルの共役付加による環化を検討することにした。

 A環およびA、B環と縮合した5員環エーテル部は、既知のケトン18より6工程で調製した19に対してルイス酸触媒による分子内ディールスアルダー反応を行い、一挙に構築した。以後9工程を経て調製した環化前駆体の21に対して水素化トリブチルスズを用いたラジカル環化を行い、立体選択的に環化体22を得た。続いて酸化、還元により水酸基の反転を行い23へと変換した。この後3工程で17へと導き、B環部を完成する予定である。

 

審査要旨

 本論文は昆虫に関わる生物活性物質の有機合成研究に関するもので二章よりなる。

 昆虫関連生物活性物質は生物学上非常に重要であるのと同時に、環境に悪影響を与えない新たな害虫防除法開発への利用という実用的見地からもその研究のさらなる発展が望まれている。そして、その研究においては、構造の確認から生物学的研究、実用化研究など研究の各段階で有機合成による天然物および類縁体のサンプル供給が欠かせず、そのような見地から著者は昆虫関連生物活性物質の合成研究を行った。

 まず、序論で研究の背景と意義について概説した後、第一章では世界中に分布する、松を枯らす害虫であるマツモグリカイガラムシの雌が生産する誘因性の性フェロモン3種のラセミ、ジアステレオマー混合物(1、2、3)の簡便合成について述べている。

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 まず、対称な3級アリルアルコール4へのルイス酸の作用により生じたペンタジエニルカチオンとシアニドイオンとの反応を鍵段階として、3種のフェロモンの共通骨格をすべて有した-不飽和ニトリル5を酢酸エチルより2工程で調製した。最後にアルキル金属の付加反応によりそれぞれのフェロモンに対応したアルキル基を導入し、3種のフェロモンを合成した。1、2については全3工程、3についてはニトリル5よりアルデヒド6を経由して全5工程という短工程での効率的合成に成功し、生物活性試験のための試料を供与することができた。

 第二章では強力な昆虫摂食阻害物質であるアザジラクチンの合成研究について、前半部では全合成に利用できる形での右側部分の光学活性体合成について述べている。

 ラセミ体のジケトン8のパン酵母還元を利用した光学分割により得られるヒドロキシケトン9を光学活性原料として合成を進め、ラクトン10の段階で再結晶により光学純度を向上させた。その後の段階でも再結晶による精製を行い、11においてほぼ100%eeであることを確認し、ラクトンの半還元、オゾン酸化によるアセタール部の構築を経て目的物である12の合成に成功した。ジケトン8より12段階、全収率約5%であった。さらに12より3種の右側部分類似化合物を光学的にほぼ純粋な形で合成し、生物活性試験に供した。その結果、右側部分単独では摂食阻害活性は低く、左側デカリン骨格部分も活性に大きな寄与をしていることが明らかになった。

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 第二章後半部においてはアザジラクチン左側デカリン骨格の合成研究について述べている。A環およびA、B環と縮合した5員環エーテル部は、既知のケトン16より6工程で調製した17に対してルイス酸触媒による分子内ディールスアルダー反応を行うことにより一挙に構築した。以後9工程を経て調製した、右側部分として12の代わりにシクロペンチル基を有する環化前駆体19に対して、水素化トリブチルスズを用いたラジカル環化を行い、立体選択的に環化体20を得た。アザジラクチンの左右をつなぐC-C結合の形成にはこれまでだれも成功しておらず、今回の右側部分に相当する置換基を有した形でのアザジラクチン左側デカリン骨格構築は非常に意義深い。

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 以上本論文は、昆虫関連生物活性物質の合成研究に関するものであり、著者はジエン骨格の効率的構築によるマツモグリカイガラムシ性フェロモンの簡便合成法の開発、パン酵母還元によるビシクロ系ジケトンの光学分割を利用しての昆虫摂食阻害物質アザジラクチン右側部分の光学活性体合成、構築困難なアザジラクチン左側デカリン骨格のラジカル環化による形成に成功した。また、合成した試料を生物活性試験に供することにより昆虫関連生物活性物質研究の発展へも寄与し、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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