学位論文要旨



No 112688
著者(漢字) サックダー,ダードゥーアン
著者(英字) Sakda,Daduang
著者(カナ) サックダー,ダードゥーアン
標題(和) ホスファチジルイノシトール3-キナーゼの生理的役割に関する研究 : 発現レベルの解析による検討
標題(洋) Studies of the biological role of phosphatidylinositol 3-kinase : An approach from analysis of expression level.
報告番号 112688
報告番号 甲12688
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1751号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 吉田,稔
 東京大学 助教授 日高,智美
内容要旨 序論

 種々の細胞増殖・分化因子受容体はチロシンキナーゼ活性を持っており、特異的な因子の結合によって活性化される。活性化された受容体は受容体自身もしくは受容体に結合する蛋白因子のチロシン残基をリン酸化することにより、細胞内に情報を伝えることが明らかになっている。Phosphatidylinositol 3-kinase(PI3K)はphosphatidylinositol(PI),PI-4-phosphate(PI-4-P),PI-4,5-biphosphate(PI-4,5-P2)の3位を特異的にリン酸化する酵素で、活性化された増殖・分化因子受容体に直接または間接に結合して活性化されることから、増殖・分化因子刺激を細胞内に伝える情報伝達において重要な役割を果たすと考えられている。現在、PI3Kは細胞内情報伝達以外にも、細胞骨格系の構築や細胞内小胞輸送などの多様な生命現象において重要な役割を果たすことが示されつつある。

 PI3Kは85kDa(p85)と110kDa(p110)の2つのサブユニット蛋白質から構成されるヘテロダイマーでp85、p110共にいくつかのサブタイプが存在することが知られている。また、酵素活性はp110に担われており、p85はその制御ユニットであることが明らかとなっている。PI3Kの活性化機構については、研究が進んでおり、種々の増殖・分化因子による刺激時にp85に含まれる2つのSH2(src homology2)ドメインと1つのSH3(src homology3)ドメインが、増殖因子刺激時に受容体との相互作用を行うことが示されている。しかしながら、PI3Kの蛋白質の発現異常や発現レベルの解析についてはほとんど報告がない。そこで本研究では、p85に対するモノクローナル抗体を作製し、大腸癌由来の培養細胞株におけるp85変異体の解析と、培養細胞における培養密度依存的な発現レベルの制御の解析を行った。

第1章:PI3Kのp85のカルボキシル末端領域に対するモノクローナル抗体の作製:p85変異体の検出への応用

 我々はすでにp85の種々の領域に対するモノクローナル抗体のパネルを作製し、PI3Kの構造と機能の解析に応用してきた(Tanaka et al.,1993)。しかしこれらの抗体の中にはp85のカルボキシル末端側のSH2ドメインに対するモノクローナル抗体が含まれていない。近年p85に存在する2つのSH2ドメインのうちカルボキシル末端側のSH2ドメインが、より強く増殖因子受容体の自己リン酸化部位へ結合することが報告されたことから、p85の細胞内機能にはカルボキシル末端側のSH2ドメインがより重要である可能性がある。そこで、本研究ではp85のカルボキシル末端に対するモノクローナル抗体を新たに作製して、PI3Kの構造と機能を解析するためのモノクローナル抗体のパネルを完成させ、ヒト大腸癌細胞HCC2998におけるp85変異について検討した。

 大腸菌中でグルタチオンS-トランスフェラーゼ(GST)との融合タンパク質として発現させたp85のカルボキシル末端領域を抗原とし、常法によりハイブリドーマを作製した。その結果2種のモノクローナル抗体DF2とSF4が得られ、種々のp85の欠失変異体に対する反応性の検討からこれらのモノクローナル抗体はp85のタイプのC末端のSH2領域を特異的に認識することが明らかとなった。さらにDF2の野生型のPI3Kに対する反応性を、ヒト骨肉腫細胞143B細胞に構成的に発現しているPI3Kの免疫沈降により調べたところ、DF2はすでに得られているp85のアミノ末端領域に対するモノクローナル抗体AB6に比べ細胞内PI3Kヘテロダイマーを沈降しにくいことが明らかとなった。DF2は大腸菌で発現させたGST-p85モノマーをAB6とほぼ同等の効率で免疫沈降させ得ることから、DF2のPI3Kヘテロダイマーに対する低反応性はDF2の認識部位がp110との結合部位近傍であるための立体障害によるものと考えられた。

 次にDF2を含むp85の各領域に対するモノクローナルのパネルを用いて、大腸癌由来細胞株HCC2998において発現している2種の欠損型のp85(p70およびp50)の構造を検討した。その結果、各種抗体によるイムノブロットにおいてp70はp85の各種領域を認識する抗体に反応したが、p50はDF2と反応しないことから、p50はカルボキシル末端側の領域を欠損していることが明らかとなった。野生型のp85はHCC2998細胞において発現がみられないことから、今後p50と癌化の関連についての検討が望まれる。また本研究により完成されたモノクローナル抗体のパネルを用いてp85の変異と癌化の関連がさらに検討していくことが可能であると考えられた。

第2章:ラット3Y1細胞における細胞密度依存性のPI3Kレベルの上昇

 作製したp85に対するモノクローナル抗体を用いて、種々の培養細胞における発現レベルを調べる過程で、p85の発現レベルが培養中の細胞密度の増加により上昇することを見出した。そこで、培養細胞の密度によるPI3Kの発現量の制御についてをラット3Y1細胞を用いて詳細に検討した。

 p85および各タイプに特異的なモノクローナル抗体を用いたウエスタンブロッティングにより、3Y1細胞の培養過程におけるp85の発現量の推移を検討したところ、細胞の対数増殖期に比べ、細胞密度が上昇しcontact inhibitionにより細胞増殖が停止した細胞で有意にp85の発現レベルが上昇した。またこの細胞を継代培養し再び増殖を開始させると、24時間以内にp85の発現は対数増殖期のレベルまで減少した。これに対し、血清飢餓により増殖を止めた3Y1細胞およびsrc遺伝子によりでトランスフォームした3Y1細胞ではp85の発現レベルの変動は検出されなかった。これらの結果から、観察されたp85の発現レベルの変動はおそらく細胞間接着により制御されており、細胞増殖とは無関係であると考えられた。また細胞内のp85を免疫沈降し、p110との結合状態をイムノブロッティング等で検討したところ、発現レベルの上昇が見られたp85はp110と結合した状態で存在しており、従ってp85レベルの変動はPI3Kのレベルの変動を反映すると考えられた。

 次に、発現レベルの変動の機序を明らかにするために、p85のmRNAレベルをノーザンブロッティングにより検討したところ、コントロールとして用いた-actin、G3PDHのmRNA量がcontact inhibition時に減少するのに対し、p85、p85のmRNAは変化せず、contact inhibition時には相対的にp85の転写レベルの上昇が見られることが明らかとなった。またRT-PCR法によっても同様の結果が得られ、さらにp110のmRNAレベルもcontact inhibition時に上昇することが示された。pulse chaseの実験からp85の分解速度は細胞密度により変化しないと考えられたので、PI3Kレベルの細胞密度による制御は転写レベルで行われていることが示唆された。

 次に、観察されたPI3Kの発現レベルの上昇が酵素活性に反映しているかどうかを調べるために、contact inhibition時の細胞リン脂質を高速液体クロマトグラフィーで分析し、細胞内でのPI3K活性について検討した。その結果、細胞密度の増加に伴う細胞内PI-3,4,5-P3レベルの上昇が検出され、contact inhibition時にはPI3K発現レベルの上昇だけでなく、細胞内におけるPI3K活性の上昇が起こることが明らかとなった。

 Contact inhibitionにおける細胞内情報伝達の機構は全く不明のまま残されており、本研究の結果はcontact inhibitionの機構の解明への糸口になると期待される。

文献Tanaka,S.,Matsuda,M.,Nagata,S.,Kurata,T.,Nagashima,K.,Shizawa,Y.and Fukui,Y.(1993)Structure of 85 kDa subunit of human phosphatidylinositol 3-kinase analyzed by using monoclonal antibodies.,Japanese Journal of Cancer Research,84,278-289.Daduang,S.,Nagata,S.,Matsuda,M.,Yamori,T.,Onodera,K.and Fukui,Y.(1995)Production of monoclonal antibodies specific to the carboxyl terminal region of the 85 kDa subunit of phosphatidylinositol 3-kinase:use of the antibodies in recognition of mutant p85.,Immunology and Cell Biology,73,134-139.
審査要旨

 本論文はPhosphatidylinositol 3-kinase(PI3K)に対する抗体を用いて細胞内の発現量を調べPI3Kの役割について考察したものである。PI3Kは動物細胞内の活性化された増殖・分化因子受容体などと結合することから、細胞増殖のシグナル伝達に対して重要な役割を果たすと考えられている。本研究では、これまで検討されていなかつたPI3Kの発現量の調節について調べるために、PI3Kに対するモノクローナル抗体を作製し、ヒト大腸癌細胞株、HCC2998やラット繊維芽細胞株3Y1、における発現を検討している。その結果、HCC2998細胞における欠失部位を持つPI3Kの存在や、3Y1細胞における細胞密度によるPI3Kの発現レベルの調節機構の存在を明らかにしている。

 第1章において研究の背景と意義について概説した後、第2章においては、PI3Kの機能に重要なp85サブユニットのカルボキシル末端に対するモノクローナル抗体を作製して、ヒト大腸癌細胞HCC2998におけるp85変異について検討している。p85のカルボキシル末端領域を抗原とし、常法によりハイブリドーマを作製した結果、2種のモノクローナル抗体DF2とSF4が得られた。種々のp85の欠失変異体に対する反応性の検討からこれらのモノクローナル抗体はp85のタイプのC末端のSH2領域を特異的に認識することが明らかとなった。次にDF2を含むp85の各領域に対するモノクローナルのパネルを用いて、大腸癌由来細胞株HCC2998において発現している2種の欠損型のp85(p70およびp50)の構造を検討した。その結果、各種抗体によるイムノブロットにおいてp70はp85の各種領域を認識する抗体に反応したが、p50はDF2と反応しないことから、p50はカルボキシル末端側の領域を欠損していることが明らかとなつた。野生型のp85はHCC2998細胞において発現がみられないことから、今後p50と癌化の関連についての検討が望まれる。また本研究により完成されたモノクローナル抗体のパネルを用いてp85の変異と癌化の関連をさらに検討していくことが可能であると考えられた。

 第3章はラット3Y1細胞における細胞密度依存性のPI3Kレベルの上昇を明らかにしている。作製したp85に対するモノクローナル抗体を用いて、種々の培養細胞における発現レベルを調べる過程で、p85の発現レベルが培養中の細胞密度の増加により上昇することを見出した。そこで、培養細胞の密度によるPI3Kの発現量の制御についてをラット3Y1細胞を用いて詳細に検討した。p85および各タイプに特異的なモノクローナル抗体を用いたウエスタンブロッティングにより、3Y1細胞の培養過程におけるp85の発現量の推移を検討したところ、細胞の対数増殖期に比べ、細胞密度が上昇しcontact inhibitionにより細胞増殖が停止した細胞で有意にp85の発現レベルが上昇した。またこの細胞を継代培養し再び増殖を開始させると、24時間以内にp85の発現は対数増殖期のレベルまで減少した。これに対し、血清飢餓により増殖を止めた3Y1細胞およびsrc遺伝子によりでトランスフォームした3Y1細胞ではp85の発現レベルの変動は検出されなかつた。これらの結果から、観察されたp85の発現レベルの変動はおそらく細胞間接着により制御されており、細胞増殖とは無関係であると考えられた。また細胞内のp85を免疫沈降し、p110との結合状態をイムノブロッティング等で検討したところ、発現レベルの上昇が見られたp85はp110と結合した状態で存在しており、従ってp85レベルの変動はPI3Kのレベルの変動を反映すると考えられた。次に、発現レベルの変動の機序を明らかにするために、p85のmRNAレベルをノーザンブロッティングにより検討したところ、コントロールとして用いた-actin、G3PDHのmRNA量がcontact inhibition時に減少するのに対し、p85、p85のmRNAは変化せず、contact inhibition時には相対的にp85の転写レベルの上昇が見られることが明らかとなった。またRT-PCR法によっても同様の結果が得られ、さらにp110のmRNAレベルもcontact inhibition時に上昇することが示された。pulse chaseの実験からp85の分解速度は細胞密度により変化しないと考えられたので、PI3Kレベルの細胞密度による制御は転写レベルで行われていることが示唆された。

 次に、観察されたPI3Kの発現レベルの上昇が酵素活性に反映しているかどうかを調べるために、contact inhibition時の細胞リン脂質を高速液体クロマトグラフィーで分析し、細胞内でのPI3K活性について検討した。その結果、細胞密度の増加に伴う細胞内PI-3、4、5-P3レベルの上昇が検出され、contact inhibition時にはPI3K発現レベルの上昇だけでなく、細胞内におけるPI3K活性の上昇が起こることが明らかとなった。以上の結果から、PI3Kはcontact inhibitionに重要な役割を果たしている可能性が高いと考えられた。

 以上、本論文はこれまで検討されていなかったPI3Kの発現量の調節について調べるために、PI3Kに対するモノクローナル抗体を作製し、HCC2998細胞における欠失部位を持つPI3Kの存在や、3Y1細胞における細胞密度によるPI3Kの発現レベルの調節機構の存在を明らかにしたものであって、細胞増殖を論ずる上で重要な発見と考えられ、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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