学位論文要旨



No 112690
著者(漢字) 張,経华
著者(英字)
著者(カナ) ジャン,ジンファ
標題(和) 高等植物の耐塩性機構に関する分析化学的・生化学の研究 : Glycinebetaineの誘導合成系について
標題(洋)
報告番号 112690
報告番号 甲12690
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1753号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 茅野,充男
 東京大学 教授 松本,聰
 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 助教授 大久保,明
内容要旨

 地球人口の急激な増加に伴う食糧の絶対的不足は、21世紀の人類の生存に関する一つの大きな難題であることは多くの人が認めるところである。今後、食糧の増産を計るためには、世界各地に広がる問題土壌(酸性化、アルカリ化、塩類化など)を有効利用すること、そのためにはそこに存在する環境ストレスを如何に克服して作物生産量を上げるかが必須の課題となる。本研究では、塩ストレス耐性に焦点を当て、植物の耐塩性機構の解明とその結果の実際への応用を目指して研究を行った。植物の耐塩性機構の一つは外部環境に応じて細胞内の浸透圧を調節することで、多くの場合、適合溶質を誘導合成することによって細胞内外の浸透圧調節を行うことが知られている。グリシンベタイン(GB)は四級アンモニウム化合物(QACs)で多くの植物に存在する適合溶質である。GBの生合成反応はコリン(Cho)からベタインアルデヒド(BAD)を通じて2階段の酸化反応により進行する(Fig.1)。近年、形質転換系を用いて植物に適合溶質を蓄積させる試みが精力的になされているが、GB合成に関するコリンモノオキシゲナーゼ(CMO)やベタインアルデヒドデヒドロゲナーゼ(BADH)等の遺伝子を植物に導入した実験では、前駆体としてのChoやBADの投与がなければ塩ストレス耐性を獲得できず、完全な塩ストレス耐性の獲得にはまだ成功していない。

Fig.1 The pathway of glycinebetaine synthesis in higher plants

 本研究ではGBの誘導合成に関わる各因子を定量的に捉えるための分析法を開発するとともに、それを用いて栽培植物および実際の塩類土壌で生育した植物におけるGBの誘導合成・蓄積を解析し、GBの誘導と耐塩性の関係を考察した。またGB投与が植物の耐塩性を付与する可能性についても研究を行った。

I・低pHキャピラリー電気泳動法によるGB合成系化合物の分析法の開発

 筆者は新しい方法として、近年発展の著しいキャピラリー電気泳動法を用いて、GB誘導合成系の前駆体Cho、中間体BADおよび最終産物GBの高感度で簡便・迅速な分離定量法を検討した。従来、GBおよびChoの定量には、いくつかの方法が開発されているが、植物中の共存物質による妨害、複雑な試料の前処理、また装置が高価であることなど問題があり、多数の試料を分析するには必ずしも適当ではない。さらに塩類土壌の現地で多数の試料を分析する実用的側面から、小型で簡便な装置の導入が強く望まれていたことから、キャピラリー電気泳動法の応用を試みた。また、本法は中間体BADの定量も高感度で行えるので、酵素のアッセイ法としても期待できる。即ち、反応の第一段階を触媒する酵素CMOの活性は、従来トレーサ法で行われてきたが、中間体BADを定量することによってCMOの活性評価が可能である。

 本研究の対象物質はすべて水溶性でUV吸収を持たないことから、誘導体化によりUV吸収を持つ陽イオン化合物に変換することとした。また植物の抽出液を直接誘導体化するための最適反応条件について詳細に検討した。その結果、Choはbenzoyl ester、BADはO-(4-nitrobenzyl)-hydroxyl oxime、またGBはp-bromophenacyl esterに変換することが最適であった。次に反応液を直接電気泳動で測定する条件を検討した。キャピラリー電気泳動法では、pH2〜4領域で泳動すると電気浸透流がほぼ停止しているため正電荷を持つ化合物のみが泳動する。反応液をこの条件で泳動すると、目的物は共存する遊離アミノ酸、他のQACsや水溶性低分子物質および未反応の試薬などとよく分離できた。測定は15分以内に完了し、検量線はChoで1.0〜20.0mM、BADで0.10〜10.0mMおよびGBで0.050〜5.0mMの範囲で良好な直線性を示した。S/N=3としたときの検出限界はいずれも0.007〜0.42mM、また1.0mMの生成物を5回繰り返し測定した時の相対標準偏差は、泳動時間に対して0.61〜1.11%、ピーク面積に対して4.13〜5.96%の範囲内にあり、再現性は良好であった。また実際の植物試料を用いて抽出方法および標準試料の添加回収率などを検討した結果、本法は感度がよく簡便・迅速な分離・定量法として有効であることが分かった。

II・栽培植物の塩ストレス応答およびGBの誘導合成と蓄積

 植物の耐塩性は、植物の種類や栽培条件および細胞内適合溶質の種類などにより異なる。本研究では、Greenwayらの分類に応じて塩耐性の異なる9種類の植物を選び、塩負荷の実験を行った。栽培には土耕法および水耕法を用いた。塩ストレス条件下での生理的な変化を追跡するために、成長曲線、葉内の水分、無機元素、水溶性タンパク質、クロロフィルなどの含量を測定した。また適合溶質として考えられる可溶性糖類、プロリンなどについて含量を測定し、塩ストレスに対する植物体内の物質の様々な応答を明らかにした。またそれぞれの植物に対して低pHキャピラリー電気泳動法によりGBの分離・定量を行ったところ、マツナ、シロザ、ビート、ホウレンソウ、リモニウムおよびオオムギなど耐塩性がある植物からGBを検出した。一方、レタス、インゲン、かいわれダイコンのような塩に弱い種からは検出されなかった。さらにGBの誘導パターンと耐塩性との関係を調べた結果、GBが検出された6種の植物では、培地塩濃度に比例してGB含量が急増するもの(TypeI)と、あまり変化しないもの(TypeII)の二種類が存在した。Greenwayらは塩ストレスの強さに応じて植物の耐塩性を分類しているが、今回のGBによるタイプ分類とよい対応を示しており、TypeIはすべてGreenwayらの言う強い塩耐性を示す植物種であり、TypeIIはある程度の塩耐性を示す種に対応していた。また、この結果は実際の塩類土壌で採取した植物試料における土壌塩濃度とGB生産量の関係とよい一致を示した。

III・中国の塩類土壌地帯での試料採取および分析

 中国では350万haの塩類侵食土壌があり、アジア地域の第二位を占める。河北省南皮県は中国黄・淮・海平原の中央部に位置する。この平原は河川の大氾濫、永年にわたる畑地潅漑、海からの海水の浸透などによって塩類土壌が広大な面積で散在しており、食糧生産性を強く制限している。1990年から日中共同研究で塩類土壌の改良および耐塩性の作物、牧草および果樹の選抜などの活動がこの地域で持続的に進行しており、筆者は1996年7月〜8月間に現地で行った共同調査に参加した。塩類現地で土壌および植物試料を採集し、土壌中の塩組成と植物中の構成成分の関係、特にGBの存在量を調べた。現地で土壌試料4ヶ所25検体、植物試料5ヶ所28種類43検体を採取した。試料の水分含量およびNa、K、Ca、Mg、Feを炎光分析、ICPで定量した。SO42-、PO43-、Cl-、NO3-などの陰イオンの定量にはイオンクロマトグラフィーを用いた。採取場所により土壌化学成分および分布の差異がかなり大きかった。塩分(Na+、Cl-、SO42-)含量の高い土壌では、K、Ca、Mgの含量もわずかながら増加の傾向を示し、採取した植物では土壌中の元素組成の変化を反映していた。塩類土壌地帯では、作物は少なく、殆どがマツナ、シロザ、リモニウムなど耐塩性野草であった。5ヶ所で採取した植物試料のGB含量を測定したところ、13種類25検体からGBを検出し、特にシロザ、マツナ、ワタ、ビート、イチビ、リモニウムは高GB含量であった。今回採取したワタは塩濃度の低い改良土壌で栽培されたため、葉の中の塩含量が少なかったがGB含量は高かった。ワタは耐塩性、耐乾燥性を持つことがよく知られているが、土壌塩濃度が低くてもGBの蓄積が盛んで、前述の強い塩耐性を示す植物種とほぼ同じオーダーのGBを蓄積していた。分析植物種がまだ多くはないが、GB蓄積植物については、GB含有量と耐塩性の関係をある程度タイプ分けできることが示唆された。

IV・GBの投与によるインゲンの応答および耐塩性の付与について

 インゲンは、塩に弱く、GBを合成しない。筆者はインゲンの水耕液に基質としてGB、BADおとびChoをそれぞれ添加し、耐塩性を付与できるかどうか検討した。その結果いずれの化合物も吸収され、葉に蓄積された。GBを蓄積していないインゲンに塩ストレス(150mM NaCl)をかけると、成長の低下、水分、タンパク質、クロロフィル含量などの減少、Na含量の増加などの塩ストレスの影響が観測されたが、GBを蓄積しているものでは明らかな耐塩性の向上が観察された。またChoを投与したインゲンからはBAD、GBは検出されず、耐塩性の向上が観察されなかった。しかし、BADを投与した実験では、葉からBADおよびGBを検出した。従って、インゲンはCMOは欠損しているが、BADHが存在する可能性が示唆された。このことは耐塩性のインゲンの作出にとって、CMO遺伝子の導入がGB合成に効果的であると考えられた。一方、実際の作物栽培ではGB投与が耐塩性付与に効果的であることが示されたが、市販のGBの添加はコスト上の問題がある。そこで筆者はGB含量が高く、かつNa含量が低いワタをGB源として、塩存在下で投与実験を行い、有効性を確認した。さらにGB存在下でインゲンに塩ストレスをかけ、誘導タンパクについてSDS-PAGEで調べた。水耕栽培および未熟子葉in vitro培養法のいずれの培養法においても、(Na+GB)共存下で誘導される低分子タンパクを見出した。低分子の塩ストレス誘導タンパクには、タバコ培養細胞由来のOsmotin(26kDa)およびダイズの細胞壁タンパク(28kDa)が報告されているが、現在二次元電気泳動法で精製した試料につきアミノ酸配列解析中である。インゲンは本来、糖類やプロリンを誘導することにより弱い耐塩性を示すが、GB投与によりさらに耐塩性を向上させることが可能と思われる。塩ストレス誘導タンパクの解析を含め、耐塩性の機構をさらに明確にする必要がある。

 以上、本研究では植物中のGB合成系化合物であるCho、BAD、GBの新たな定量法を開発し、栽培植物および実際の塩類土壌地帯に生育している植物の塩ストレス応答、特にGBの誘導合成・蓄積の実態を解析した。得られたGBの誘導パターンと耐塩性の関係を示した。また塩に弱いインゲンにGBを投与し、耐塩性の向上を観測し、塩の存在下でGBを投与した時に誘導されるタンパクの存在を観測した。また高GB含量のワタの葉を投与する実用的方法も検討し、中国の塩類土壌での応用を考察した。

審査要旨

 植物の耐塩性機構の一つとして適合溶質を誘導合成し、細胞内外の浸透圧調節を行うことが知られている。適合溶質であるグリシンベタイン(GB)の生合成反応はコリン(Cho)からベタインアルデヒド(BAD)を通じて2段階の酸化反応により進行する。近年、GB合成に関するコリンモノオキシゲナーゼ(CMO)やベタインアルデヒドデヒドロゲナーゼ(BADH)等の遺伝子を植物に導入することが試みられているが、前駆体としてのChoやBADの投与がなければ耐塩性を獲得できず、完全な耐塩性の獲得にはまだ成功していない。

 著者はGBの誘導合成に関わる各因子を定量的に捉えるための分析法を開発するとともに、それを用いて栽培植物および実際の塩類土壌で生育した植物におけるGBの誘導合成・蓄積を解析し、GBの誘導と耐塩性の関係を考察した。またGB投与が植物の耐塩性を付与する可能性についても研究を行った。

 序論にひき続き第2章では、キャピラリー電気泳動法を用いて、GB誘導合成系の前駆体Cho、中間体BADおよび最終産物GBの分離定量法を開発した。また、この方法は中間体BADの定量も高感度で行えるので、酵素のアッセイ法としても期待でき、植物中の塩ストレス誘導によるCMOの活性評価が可能となった。この研究の対象物質はすべて水溶性でUV吸収を持たないことから、植物の抽出液を直接誘導体化によりUV吸収を持つ陽イオン化合物に変換することとした。反応液を直接電気浸透流のない低pHで泳動することにより、目的物は共存する遊離アミノ酸、他の4級アンモニウムや水溶性低分子物質および未反応の試薬などと再現性よく分離できた。また実際の植物試料を用いて検討した結果、この方法は感度がよく簡便・迅速な分離・定量法として有効であった。

 第3章はGreenwayらの分類による塩耐性の異なる9種類の植物を選び、塩負荷の実験を行った。塩ストレス条件下で成長曲線、葉内の水分、無機元素、水溶性タンパク質、クロロフィル、可溶性糖類、プロリンなどの含量を測定し、植物体内の物質の様々な応答を明らかにした。それぞれの植物に対してGBの分離・定量を行ったところ、6種類の耐塩性のある植物からGBを検出した。一方、塩に弱い種からは検出されなかった。さらにGBの誘導パターンと耐塩性との関係を調べた結果、培地塩濃度に比例してGB含量が急増するもの(Type I)と、あまり変化しないもの(Type II)の二種類が存在し、Greenwayらの植物の耐塩性の分類と今回のGBによるタイプ分類とよい対応を示した。この結果は実際の塩類土壌で採取した植物試料における土壌塩濃度とGB生産量の関係とはよい一致を示した。

 第4章では、中国塩類土壌地帯で採集した土壌およ植物試料中の構成成分とGBの関係を調べた。場所により土壤化学成分および分布の差異がかなり大きかった。塩分(Na+、Cl-、SO42-)含量の高い土壌では、K、Ca、Mgの含量もわずかながら増加の傾向を示した。採取した植物は土壤中の元素組成の変化を反映していた。植物試料のGB含量を測定したところ、13種類25検体からGBを検出した。採取したワタは、葉の中の塩含量が少なかったが、GB含量は高かった。GB蓄積植物については、GB含有量と耐塩性の関係をある程度タイプ分けできることが示唆された。

 第5章はインゲンの水耕液にGB、BADおよびChoをそれぞれ添加し、いずれの化合物も吸収され、葉に蓄積された。GBを蓄積しているものでは明らかな耐塩性の向上が観察された。またChoを投与したインゲンからはBAD、GBは検出されなかった。しかし、BADを投与した実験では、葉からBADおよびGBを検出した。従って、インゲンはCMOは欠損しているが、BADHが存在する可能性が示唆された。一方、実際の作物栽培では市販のGBの添加はコスト上の問題があるため、GB含量が高く、かつNa含量が低いワタをGB源とする添加実験を行い好結果を得た。さらにGB存在下でインゲンに塩ストレスをかけ、水耕栽培および未熟子葉in vitro培養法のいずれの培養法においても、(Na+GB)共存下で誘導される25kDaタンパクを見出した。今後の実用化に向けての検討が期待された。

 以上、本論文では植物中のGB合成系関連化合物の新たな定量法を開発し、GBの誘導パターンと耐塩性の関係を明らかにした。またワタの葉をGB源として植物に投与する実用的方法を提案した。植物の耐塩性研究として学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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