学位論文要旨



No 112691
著者(漢字) 金,政湜
著者(英字)
著者(カナ) キム,ジョンシク
標題(和) 微生物の生産する神経細胞保護物質に関する研究
標題(洋) Studies on the neuronal cell protective compounds produced by microorganisms
報告番号 112691
報告番号 甲12691
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1754号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀬戸,治男
 東京大学 教授 室伏,旭
 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 助教授 作田,庄平
 東京大学 助教授 早川,洋一
内容要旨

 脳虚血疾患いわゆる脳卒中による神経細胞死は、脳虚血によって細胞外に過剰に放出されたグルタミン酸により惹起される興奮毒性によるものであると考えられている。グルタミン酸毒性は、グルタミン酸レセプター刺激後の細胞内カスケードにより発現する。そのため、レセプターアンタゴニストによって神経細胞を保護するためには、虚血前に投与することが必要であると考えられてきた。しかしながら、脳虚血を事前に探知することは不可能である。一方、グルタミン酸レセプターのうち、AMPA/KA(AMPA/カイニン酸)型レセプターのアンタゴニストであるquinoxalinedione系化合物が、スナネズミ脳虚血モデルにおいて虚血負荷後に薬剤投与しても神経細胞保護作用を示すことが報告され1)、その臨床応用への研究が現在精力的に行われている。

 グルタミン酸による興奮毒性に脆弱な部位として、海馬細胞や大脳皮質が知られており、グルタミン酸毒性の研究には、主にラット胎児脳由来の海馬神経細胞が用いられてきた。しかしながら、ラット海馬神経細胞は調製が困難なだけではなく、妊娠18日齢のラットを用いなければならないという制約のためスクリーニングに用いるのには適していない。そこで、様々な神経細胞についてグルタミン酸毒性に対する感受性を検討したところ、ニワトリ胚初代中脳神経細胞が本実験の目的に適していることが判明した。この系を用いてスクリーニングを行った結果、新規グルタミン酸毒性抑制物質mescengricinを見出した。

 一方、ニワトリ神経細胞については、受精卵5日胚由来の初代終脳神経細胞でのカイニン酸による細胞死が誘導されること、この神経細胞死がquinoxalinedione系化合物によって抑制できることが報告されている2)。胚5日目のニワトリ初代終脳神経細胞は調製が容易であり、受精卵もスクリーニングに合わせて適時準備することが可能であるため、AMPA/KA型レセプターを介した興奮毒性抑制物質のスクリーニング法としては、現時点では最も優れた方法であると考えられる。そこで、このスクリーニング法を用いてカイニン酸毒性抑制物質の探索を行い、新規化合物としてCR9143を発見した。

 本論文は以上2種類の新規神経細胞保護物質mescengricinおよびCR9143について、その醗酵生産、単離・精製、構造決定および生物活性について研究を行ったものである。

1.Mescengricin

 ニワトリ胚初代中脳神経細胞に対するグルタミン酸毒性抑制活性を指標としてスクリーニングを行った結果、長野県のリンゴ畑で採取した土壌試料から分離したStreptomyces griseoflavus2853-SVS4株より活性物質mescengricinを見出した。

 Mescengricinの精製は、菌体アセトン抽出物を酢酸エチル抽出した後、シリカゲル、HW-40F及び逆層ODS-HPLCの各種クロマトグラフィーを組合わせて行い、赤褐色粉末のmescengricinを単離した。本化合物の分子式は高分解能FAB-MSスペクトルよりC21H20N2O8と決定した。

 Mescengricinの構造決定は各種NMRスペクトルの解析により行った。DQF-COSYスペクトルの解析により、グリセロール骨格の存在と1,2,4-三置換ベンゼンの存在が明らかになった。また、HMBCおよび15N-HMBCスペクトルの解析により、-caboline骨格を有する化合物であることを決定し、NOESYスペクトルの解析より-carboline骨格内の各置換基の位置を決定した。さらに、mescengricinからglycerol dimethylketalを調製し、18位の立体をSと決定した。

図1.Mescengricinの構造

 本化合物は、ニワトリ胚初代中脳神経細胞に対するグルタミン酸毒性をEC50値6.0nMで抑制した。本系で活性を示すvitaminEのEC50は600nMであり、mescengricinの活性はvitaminEより100倍強いことが判明した。ニワトリ胚初代中脳神経細胞に対するグルタミン酸毒性は、vitaminEのような抗酸化物質によっても軽減されるが、mescengricinは抗酸化物質が活性を示すマウス神経芽細胞腫とラット網膜神経細胞とのハイブリドーマであるN18-RE-105細胞には活性を示さなかったため、本化合物のグルタミン酸毒性抑制活性は抗酸化活性以外の作用によるものであると考えられる。

2.CR9143

 ニワトリ胚初代終脳神経細胞に対するカイニン酸毒性の抑制を指標に、神経細胞保護物質のスクリーニングを行った結果、台湾東勢市森林で採取した土壌試料より分離したカビEupenicillium sheariiPF1191株より活性物質CR9143を単離した。

 CR9143の精製は、菌体アセトン抽出物より活性炭、HW-40F、ODSカラムクロマトグラフィーおよび逆層ODS-HPLCにより行い、白色粉末として単離した。CR9143の分子式は高分解能FAB-MSスペクトルよりC18H21N3O9Cl2と決定した。

 本化合物の構造決定は、主に各種NMRの解析により行った。DQF-COSYスペクトルの解析により、2位と3位のメチンプロトンの繋がりと、5位から9位までの繋がりが判明した。また、HMBCとMS-MSのフラグメンテーションの解析の結果、塩素原子が置換したベンゼン環の存在が明らかになった。次に15N-HMBC測定により5員環とそれに続く部分の構造が判明し、CR9143の全構造を図2のように決定した。

 CR9143の相対立体構造を明らかにするために、1H-NMRスペクトルのスピン結合定数に基づく二面角の情報およびNOEスペクトルの解析によって得られた各水素原子間の距離の情報を用いて、コンピューターによる解析を行った。その結果、図2に示すようなCR9143の相対立体配置を決定した。

図2.CR9143の構造

 本化合物は、ニワトリ胚初代終脳神経細胞におけるカイニン酸およびAMPAによる毒性を、それぞれ0.68Mおよび0.60M以上の濃度で抑制した。ニワトリ胚終脳神経細胞はカイニン酸によって細胞死が誘導されるが、哺乳類と同様のメカニズムによって細胞死が起きているのか否かは明らかでないため、ラット初代海馬神経細胞を用いてその活性を検討した。その結果、CR9143はカイニン酸及びAMPAによる毒性をそれぞれ2.4Mと0.4M以上の濃度で抑制し、哺乳類におけるグルタミン酸毒性を抑制することが判明した。また、ラット大脳を用いてグルタミン酸受容体結合阻害活性の有無を検討した結果、AMPAレセプターに対して、既知のquinoxalinedione系合成アンタゴニストであるCNQXやDNQXとほぼ同様の阻害活性を有することが判明した(Ki値はCR9143:1.4M、CNQX:0.73M、DNQX:0.59M)。さらにCR9143は他のグルタミン酸レセプターであるNMDA型レセプターに対して、nMオーダーの強い結合阻害を示すことが判明した。以上より、本化合物は複数のレセプターに作用し、従来の合成化合物と比較して、毒性を示すことなく強力な活性を示すことが判明した。

 以上2種類の新規神経細胞保護物質を見出したが、グルタミン酸毒性は脳卒中のみでなく、AMPA/KA型レセプターを介して難治療病である筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis、ALS)を引き起こすなど3)、多くの神経に関与していることが示唆されている。したがって、本系を用いて発見した新規グルタミン酸毒性抑制物質であるmescengricinおよびCR9143は、これらの神経疾患治療薬となることが期待される。

参考文献1)Sheardown,M.J.,Nielsen,E.,Hansen,A.J.,Jacobsen,P.and Honore,T.Science,247,571(1990)2)Yamamoto,T.and Taguchi,T.Neuroscience Lett.,139,205(1992)3)Couratier,P.,Hugon,J.,Sindou,P.,Vallat,J.M.and Dumas,M.Lancet,341,265(1993)
審査要旨

 脳虚血疾患いわゆる脳卒中による神経細胞死は、脳虚血によって細胞外に過剰に放出されたグルタミン酸により惹起される興奮毒性によるものであると考えられている。この興奮性アミノ酸が原因と考えられる中枢神経疾患は数多く有り、脳虚血疾患いわゆる脳卒中アルツハイマー病、パーキンソン病等が知られている。しかしこれらの疾病に対して有効な薬剤は殆ど知られていない。

 本論文はこのような背景に基づき、動物細胞を用いて、微生物の代謝産物からこれらの疾病に有効な薬剤の探索研究を行なったもので、序論及び4章よりなる。

 序論では、神経興奮物質であるグルタミン酸の毒性発現メカニズムと、それが関与する疾病に関しての治療上の問題点をレセプターを含めて説明している。

 第1章は、神経細胞保護物質のスクリーニングに関して説明している。種々検討を加えた結果、ニワトリ胚初代中脳神経細胞が本実験の目的に適していることが判明した。この系を用いてスクリーニングを行った結果、新規グルタミン酸毒性抑制物質mescengricinを見出した。

 また、作用機作の異なるAMPA/KA型レセプターを介した興奮毒性抑制物質のスクリーニングを行なうため、受精卵5日胚由来の初代終脳神経細胞の利用を検討し、新規カイニン酸毒性抑制物質としてkaitocephalinを発見した。

 第2章では、mescengricinの理化学的性状および構造決定について説明している。本化合物の生産菌はStreptomyces griseoflavusと同定された。mescengricinの精製は、菌体アセトン抽出物を種々のクロマトグラフィーを組合わせて行い、赤褐色粉末の純品として単離した。本化合物の分子式は、高分解能FAB-MSスペクトルよりC21H20N2O5と決定した。

図1.Mescengricinの構造

 mescengricinの構造研究は各種NMRスペクトルの解析により行い、図1に示すような-carboline骨格を有する化合物であることを決定した。本化合物は、ニワトリ胚初代中脳神軽細胞に対するグルタミン酸毒性をEC50値6.0nMで抑制した。mescengricinは抗酸化物質が活性を示すマウス神経芽細胞腫とラット網膜神経細胞とのハイブリドーマであるN18-RE-105細胞には活性を示さなかったため、本化合物のグルタミン酸毒性抑制活性は抗酸化活性以外の作用によるものであると考えられる。

 第3章では、kaitocephalinに関して説明している。本化合物の生産菌はEupenicillium sheariiと同定された。kaitocephalinの精製は、菌体アセトン抽出物より種々のクロマトグラフィーを行い、白色粉末として単離された。kaitocephalinの分子式は、高分解能FAB-MSスペクトルより、C18H21N3O9Cl2と決定した。

 本化合物の構造は、主に各種NMRスペクトルの解析によって図2のように決定した。次いで、kaitocephalinの相対立体構造を明らかにするために、1H-NMRスペクトルのスピン結合定数に基づく二面角の情報およびNOEスペクトルの解析によって得られた各水素原子間の距離の情報を用いて、コンピューターによる解析を行った。その結果、図2に示すようなkaitocephalinの相対立体配置を決定した。

図2.CR9143の構造

 本化合物は、ニワトリ胚初代終脳神経細胞におけるカイニン酸およびAMPAによる毒性を、それぞれ0.68mMおよび0.60mM以上の濃度で抑制した。また、ラット初代海馬神経細胞を用いた場合、kaitocephalinはカイニン酸及びAMPAによる毒性をそれぞれ2.4mMと0.4mM以上の濃度で抑制し、哺乳類におけるグルタミン酸毒性を抑制することが判明した。さらにkaitocephalinは他のグルタミン酸レセプターであるNMDA型レセプターに対して、nMオーダーの強い結合阻害を示すことが判明した。

 第4章は、実験の部である。

 以上本論文は、神経細胞保護物質であるmescengricinおよびkaitocephalinの単離、構造決定を行い、生物活性を明らかにしたものであって、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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