学位論文要旨



No 112692
著者(漢字) 金,晧衍
著者(英字)
著者(カナ) キム,ホヨン
標題(和) 硫黄栄養によるダイズ種子貯蔵蛋白質遺伝子の発現制御
標題(洋) Regulation of soybean seed storage protein gene expression by sulfur nutrition
報告番号 112692
報告番号 甲12692
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1755号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 茅野,充男
 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 助教授 林,浩昭
内容要旨

 植物は発芽した場所で様々な環境条件に適応しながら生き、次代の種子を残していく。植物の種子には発芽時、及び初期生育に必要な栄養源となるタンパク質、脂肪、澱粉などが蓄積されており、これを利用して植物は発芽し、再び発芽した場所に適応しながら生きる。これら種子中の貯蔵物質は動物や人間の食糧としても利用されることからも重要である。中でもダイズ種子はタンパク質源として利用されるが、必須含硫アミノ酸量が少ないという欠点を持つ。よってダイズが種子中に含硫アミノ酸を多く含むタンパク質を蓄積するように改良することは、食品栄養学的に大きな意義を持つ。

 植物が栄養素の欠乏などの環境ストレスに対して適応する能力を持っていることを示す研究は多い。中でも、硫黄欠乏条件に応じてダイズ種子貯蔵タンパク質の組成が変化する現象については研究が進んでいる。ダイズでは栄養条件に対する個々の種子貯蔵タンパク質遺伝子の応答パターンは異なっており、この応答パターンはこれらの遺伝子を導入した形質転換シロイヌナズナにおいても保存されることが明らかにされている。

 本研究では、植物の持つ環境適応性を遺伝子レベルで解明するためのモデルとして、硫酸欠乏条件に対するダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現制御の分子機構の解明を試みたものである。特にダイズの種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現に影響を与える代謝産物を究明し、またこの遺伝子を導入した形質転換シロイヌナズナスを用いて遺伝子の発現制御機構を解析した。

1)HPLCによるO-アセチル-L-セリンの分析

 O-アセチル-L-セリン(OAS)は窒素を含む化合物で、システイン合成の前駆体である。OASは、大腸菌ではシステイン合成系の遺伝子発現を調節することが、また植物では硫酸吸収活性を誘導ことが知られている。中性pHにおいては、OASは室温で非可逆的にアナログであるN-アセチル-L-セリン(NAS)に変化するので、これまでの分析ではこの反応を利用してOASをNASに変えて測定していた。本研究では、HPLCを用いたアミノ酸分析法を応用してOASを測定することを試みた。従来の溶出バッファー(0.024Mクエン酸リチウム(pH2.77)、0.035M塩化リチウム、0.113Mクエン酸、2.85%エタノール)の組成を変化させて測定したところ、アスパラギン酸とスレオニンのピークの間にOASのピークが検出される条件が判明した。このピークは単独で安定して得られ、また定量性のあることが確認された。尚、この方法ではOPA法により検出を行うため、NASは検出されない。硫黄欠乏条件で培養したダイズ子葉中のOAS量をこの方法を用いて調べたところ、対照区と比較して約7倍に増加しており、硫黄欠乏条件でOAS量が増加することが示された。

2)OASによるダイズ貯蔵タンパク質の遺伝子発現制御

 ダイズ種子貯蔵タンパク質の主要な成分はグリシニンと-コングリシニンであり、前者は含硫アミノ酸が相対的に多いが、後者は少ない。-コングリシニンは3つのサブユニット、’、からなり、サブユニットはメチオニンを全く含まない。硫酸欠乏条件ではグリシニンの蓄積量は減少し、サブユニット蓄積量は増加する。一方で硫黄の代謝系では、吸収された硫酸は還元され、窒素を含む化合物であるOASと反応してシステインになる。この窒素と硫酸との緊密な関係から、ダイズ貯蔵タンパク質の蓄積は硫黄だけではなく窒素によっても制御されている可能性が考えられる。そこで未熟種子中のOAS含量を測定したところ、硫酸濃度に対しての窒素濃度の比が高くなるとOAS含量が増加し、導入遺伝子の発現パターンも同じ傾向を示した。この結果からOAS含量がサブユニット遺伝子の発現を制御している可能性が示唆された。そこで滅菌したダイズ未熟子葉をOAS添加培養液に入れてin vitro培養し、子葉中のタンパク質をSDS-PAGEで分析することで、OASによるサブユニット遺伝子発現への影響を調べた。その結果、OASの添加によりサブユニット量は増加し、またグリシニン量は減少した。一方、NASの添加による影響はなかった。これらの結果は窒素量と硫黄量とのバランスがOAS濃度を変化させ、ダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現を制御している事を示している。

3)大豆種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現に対するABAの影響

 ABAは種子登熟中期に出る植物ホルモンで、-コングリシニンサブユニットの蓄積に影響を与える。ダイズ未熟子葉のin vitro培養系に培地中のシュークロースとグルタミン量を減らしてABAを与えると、サブユニット量が増加することが知られている。そこでシュークロースとグルタミン量を変化させずに培養したところ、ABAの効果は見られなかった。しかし、培養する子葉の生育時期を選ぶことによって、シュークロースとグルタミンの量を変化させなくても、添加したABAによってサブユニットの蓄積量が増加することがわかった。またこの時、グリシニンの量は減少していることが観察された。ABAを添加した際の硫黄濃度やOAS及びアミノ酸量の変化については解析中である。

4)大豆種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現に対するOAS、及び他の化合物の影響

 ダイズ未熟子葉のin vitro培養系において培地にメチオニンを加えると、サブユニットの蓄積は完全に抑制され、グリシニンの量が増加する。即ちメチオニンは硫酸欠乏条件やOASとは逆の効果をもたらしている。そこで、ダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現に対するOASとメチオニンとの関係を調べる実験を行った。未熟子葉をOASとメチオニンの共存もしくは非共存下で培養し、培養子葉のタンパク質組成の変化を調べた。OASとメチオニン共存時のサブユニットの蓄積量は、OAS単独時とメチオニン単独時の蓄積量の中間の値を示した。またOASとメチオニンを添加して培養した子葉中のアミノ酸量を測定したところ、メチオニン含量は2mMのメチオニンを単独に添加すると増加したが、10mMのOASを共存させると減少した。メチオニン量は硫酸欠乏条件によっても減少した。またOAS含量はOAS単独の添加では増加したが、メチオニン共存時には増加が抑えられた。

 この他、システインから作られる化合物の1つであるグルタチオンを、未熟子葉の培地中に添加した場合、メチオニン添加時と同様にサブユニットの蓄積量は減少した。このグルタチオンとメチオニン、OASとの関連を現在解析中である。

5)サブユニット遺伝子の発現におけるSEF4の役割

 今までに、成熟したダイズ種子の抽出物中にサブユニットプロモーターに対するトランス因子の存在が確認されている。その1つがサブユニットの-307bpの位置にある領域に結合するSEF4(Soybean Embryo Factor 4)である。そこで、サブユニットプロモータのdeletion seriesを作成し、これらを導入した形質転換シロイヌナズナを用いて硫黄欠乏の効果を調べた。この結果、SEF4結合領域を含む約300bpのプロモーターが硫黄欠乏に強く反応した。また、窒素濃度の減少による効果を調べたところ、硫黄欠乏の場合と同じプロモーターが反応を示した。更にこの-307bpの位置にあるSEF4結合部位に、SEF4が結合しないような変異を導入したプロモーターを植物に導入し、SEF4の結合とプロモーターとの関係を解析中である。

6)種子以外の組織で強制発現したサブユニットプロモーターの硫黄欠乏に対する応答

 サブユニット遺伝子は通常、種子において特異的に発現し、発現は硫黄栄養条件に応答する。本研究室のこれまでの研究から、サブユニット遺伝子の転写開始点から5’上流側309bpの領域に硫黄欠乏条件への応答に関するシス因子が存在することが分かっている。プロモーター領域の硫黄栄養に対する応答性についてより詳細に検討するため、サブユニット遺伝子のプロモーター(1072bp)の全領域、また-307bpから-72bpまでの種々の断片を、組織特異性のないカリフラワーモザイクウイルス35SRNA遺伝子プロモーターのエンハンサー領域と融合し、さらに下流側にGUSレポーター遺伝子を融合したキメラ遺伝子を作成し、シロイヌナズナに導入した。得られた形質転換体を通常条件と硫黄欠乏条件で水耕栽培し、地上部におけるGUS活性を調べた。エンハンサーのみを持つ形質転換体では硫黄欠乏によるGUS活性の増加が見られなかったのに対して、キメラ遺伝子を持つ形質転換体では活性が硫黄欠乏で明らかに増加した。これは種子だけでなくシロイヌナズナ地上部にもサブユニットの硫黄欠乏応答を制御する機構が存在することを示しており、その遺伝子発現調節機構には共通性があることが判明した。現在は、形質転換体アラビドプシスのそれぞれの器官での導入遺伝子の発現量変化を調べ、遺伝子発現の器官特異性について解析中である。

 本研究では、ダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現に影響を与える代謝産物として、窒素と硫黄の代謝系が交わる位置にある化合物、OASに着目してその効果を発見し、またOASと他の代謝産物との間の相互関係をまとめた。さらにダイズ種子貯蔵タンパク質-コングリシニンサブユニットの遺伝子発現の解析において、形質転換シロイヌナズナスを用いて、硫黄欠乏応答を制御する要素であるトランス因子の効果を調べた。また種子以外の組織でも共通な硫黄栄養条件に応答する制御機構が存在することを確かめた。

審査要旨

 植物が栄養素の欠乏等の環境ストレスに対して適応する能力を持っていることを示す研究は多く、特に硫黄欠乏条件に応じてダイズ種子貯蔵タンパク質の組成が変化する現象については研究が進んでいる。ダイズでは栄養条件に対する個々の種子貯蔵タンパク質遺伝子の応答パターンは異なっており、このパターンはこれらの遺伝子を導入した形質転換シロイヌナズナにおいても保存されることが示されているが、その制御機構に関しては未だ不明の点が多い。

 本研究は、植物の持つ環境適応性を遺伝子レベルで解明するためのモデルとして、硫酸欠乏条件に対するダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現制御の分子機構の解明を試みたものである。特に遺伝子発現に影響を与える代謝産物を究明し、またこの遺伝子を導入した形質転換シロイヌナズナを用いて発現制御機構を解析した。

 Chapter 1では窒素を含む化合物で、システイン合成の前駆体であるO-アセチル-L-セリン(OAS)に着目し、OAS量の測定について述べている。従来は測定不可能であつたOASを、HPLCを用いたアミノ酸分析法を応用して測定することに成功した。硫黄欠乏条件で培養したダイズ子葉中のOAS量をこの方法を用いて調べたところ、対照区と比較して約7倍に増加しており、硫黄欠乏条件でOAS量が増加することが示された。

 Chapter 2ではOASによるダイズ貯蔵タンパク質の遺伝子発現制御について論じている。形質転換シロイヌナズナの未熟種子中のOAS含量を測定したところ、硫酸濃度に対する窒素濃度の比が高くなるとOAS含量が増加し、導入遺伝子の発現パターンも同じ傾向を示した。また滅菌したダイズ未熟子葉をOAS添加培養液に入れてin vitro培養し、子葉中のタンパク質をSDS-PAGEで分析することでOASによるサブユニット遺伝子発現への影響を調べたところ、OASの添加によりサブユニット量は増加し、またグリシニン量は減少した。これにより窒素量と硫黄量とのバランスがOAS濃度を変化させ、ダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現を制御している事を明らかにした。

 Chapter 3では、種子登熟中期に出るアブシジン酸(ABA)のダイズ種子貯蔵タンパク質の蓄積に対する影響をin vitro培養系を用いて調べている。培地中へのABA添加によりサブユニット量は増加し、グリシニン量は減少した。この時大豆未熟種子の中のOAS量は増加する反面、硫酸濃度は変化しないことから、ABAはOAS濃度を変化させ、さらにダイズ種子貯蔵タンパク質、またはアミノ酸、アルギニン濃度に影響を与えることが判明した。

 Chapter 4ではOASと他の化合物のダイズ種子貯蔵タンパク質遺伝子の発現に対する影響を論じている。OASとメチオニンの共存もしくは非共存下でin vitro培餐を行い、培養子葉中のタンパク質組成の変化を調べたところ、OASとメチオニンは独立にダイズ種子貯蔵タンパク質を制御することが分かった。またシステインから作られる化合物グルタチオンがダイズ種子貯蔵タンパク質の蓄積に影響する要素の一つであることが明らかになった。

 Chapter 5ではサブユニット遺伝子の発現に対するトランス因子SEF4の影響について述べている。サブユニットプロモーターのdeletion seriesを導入した形質転換シロイヌナズナを用いて硫黄欠乏の効果を調べたところ、SEF4結合部位を欠く形質転換体では発現量が抑制されており、また窒素濃度の減少による効果は硫黄欠乏の場合と同様であった。更にSEF4が結合できないように改変したプロモーターを導入した形質転換体では硫黄欠乏に対する応答が見られず、SEF4が硫黄欠乏に応答して転写活性を調節する因子であることを明らかにした。

 Chapter 6ではエンハンサーを用いて種子以外の組織で強制発現させたサブユニットプロモーターの硫黄欠乏に対する応答を調べた。得られた形質転換体を通常条件と硫黄欠乏条件で水耕栽培し、地上部におけるGUS活性を調べたところ、エンハンサーのみを持つ形質転換体では硫黄欠乏によるGUS活性の増加が見られないのに対し、キメラ遺伝子を持つ形質転換体では硫黄欠乏で活性が明確に増加していた。従って種子だけでなくシロイヌナズナ地上部にもサブユニットの硫黄欠乏応答を制御する機構が存在し、遺伝子発現調節機構には共通性があることが判明した。

 以上、本論文は硫黄欠乏条件からダイズ種子貯蔵タンパク質の発現に至る情報の流れを代謝レベルで解析したものである。さらに形質転換植物を用いて分子生物学的に制御因子を解明したことは、学術的にも応用面においても寄与する部分が少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク