学位論文要旨



No 112697
著者(漢字) 沈,悦
著者(英字) Shen,Yue
著者(カナ) シェン,ユェ
標題(和) 中国杭州西湖における景観形成とその影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 112697
報告番号 甲12697
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1760号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊谷,洋一
 東京大学 教授 井手,久登
 東京大学 教授 永田,信
 東京大学 助教授 下村,彰男
 東京大学 助教授 斎藤,馨
内容要旨

 中国において数百年にわたって皇帝や文人が関わり、景観に配慮した改造が加えられた杭州西湖風景地は、造園手法を駆使した自然と人工の巧みな組合せによる景観づくりとして広く世界に知られている。特に後世の中国における風景地での景観づくりや日本庭園にも大きな影響を与え、その事例も数多く見られる。本研究は、中世以来自然風景地等の景観づくりに大きな影響をもたらした杭州西湖の景観構成と景観形成について明らかにし、あわせて杭州西湖を範とする風景地の景観形成について分析・考察を行った。

 本論文は、4章の構成となっている。

 第I章においては、研究の背景を述べ、既存研究を整理することによって本研究の位置づけを明らかにすると同時に、本研究の目的及び方法について述べた。杭州西湖に関する既往研究は歴史、文物、観光の観点からの研究が多く、景観に関する分析は十分ではない。特に西湖景観に関する定量的な分析及び他の地域での景観づくりへの影響に対する考察は見られない。そこで、本研究は杭州西湖風景地及びその影響を受けた幾つかの景観づくりの事例を対象とし、その景観構成の特徴を明らかにするとともにその形成の歴史を辿りながら、西湖式景観における景観形成手法について考察することを目的とした。

 研究の方法は、まず杭州西湖及び他の対象地に関連する歴史文献、図絵詩集、地形図等を収集、整理し、現地調査、ヒヤリングにより補完し、対象地の各時代の景観変遷を把握した。次に、地形図をもとに数値地形モデル(DTM)を作成し、対象地周辺の主要視点からの定量的な視覚分析を行い、その景観構成の特徴を明らかにした。更に、以上の2点に基づいて、対象地の景観形成について考察した。また、杭州西湖の影響を受けた事例については、各々景観形成の流れを辿りながら、杭州西湖と比較分析し、景観形成上の影響の特徴を考察した。

 第II章においては、杭州西湖を対象として、その景観の生成、形成過程を調査・整理すると同時に、景観構成の特徴を明らかにし、その形成手法について考察した。

 景観の形成過程は以下のとおりである。杭州西湖は、湖の生成後約千数百年の間、次々と人工的改造を受けてきた一方、長年杭州地方官を務めた白居易(白楽天)や蘇東坡などをはじめとする著名な文人、芸術家たちによって、文化・芸術的な側面にも配慮した計画的整備が行われた。宋の時代に湖畔の丘陵頂に塔が築かれ、文人蘇東坡等により、浚渫の泥を活用した長堤が完成された。この時代に西湖景観の基本型が形成され、著名な西湖十景が登場した。明清時代には、湖中に三つの島が造られ、中国宮廷の造園手法の代表的な配置といわれる「一池三山」の構成が形成された。そして現在は、湖面に一山、二堤、三島の洗練された形を呈している。

 つづく視覚分析においては、主要な視点と視対象を抽出し、その可視性を判定した上で、視距離、高低差、視角(仰角、俯角)の測定を行い分析を進めた。主要な視点として、歴史上の名景及び主要な観光拠点の合計35点を抽出し、視対象については歴史上の名景、西湖をとりまく山のスカイライン、湖岸線、湖中の島、堤など30箇所を抽出した。分析の結果、湖の三方は山に囲まれており、湖周辺の平地視点から山への仰角は5°以下が多いことが明らかとなった。一方、周囲の山から湖への俯瞰景に関しては、手前の岸で俯角10°以上、対岸は2°以下で望まれ、まとまっているものの開放感のある景観であることが分かった。更に平地の視点から各島、堤、山を見る場合、湖中の島と堤、湖に接する低山、外側の高い山への仰角は、順に0.07°〜1°、2°〜5°、3°〜6°近傍の三層内に分布し、島・堤、湖に接する低山、背景の山、からなる三層構造を持つことも明らかになった。そして構造物に関しては、各視点から大規模構造物である二つの塔への仰角が、2°〜10°の間に収まり、山のスカイラインに変化を与えると同時に、山全体の景観を強調する役割を果たしている。一方小さな構造物は、市街地(人工景観)から遠方の山(自然景観)にかけて徐々に密度を落としながら配置されることにより、人工景観から自然景観へのスムーズな移行が図られていることも明らかになった。以上の結果に基づき、西湖の景観構成の特徴を(1)まとまっているものの開放感のある景観(2)三層構造の景観(3)人工景観と自然景観の巧みな融合の3点とした。これらの特徴と西湖の形成過程を併せて検討し、その景観形成手法として以下の3点を抽出することができた。すなわち(1)三層構造の形成を促す「層化」(2)雰囲気・理想境づくりを示す「境化」(3)代表景づくりである「名景化」である。

 第III章においては杭州西湖景観の影響について述べた。中国に存在している36箇所の西湖を検討し、その中から、杭州西湖の景観形成と最も緊密な関係があり、文人的な景観づくりの代表である広東省の恵州西湖と、北方にある皇帝的な景観づくりの代表作と言われる北京西湖(頤和園)とを対象地として抽出した。日本の造園への影響については文献等資料が少ないため、事例の紹介にとどめた。

 恵州西湖は、杭州西湖と似たような立地条件で、五つの小湖から構成された狭長の形を呈している。宋の時代には、恵州西湖の水力整備に伴い、大規模な人工改造が行われた。杭州西湖の景観形成と緊密なかかわりのある北宋の著名な文学家、画家の蘇東坡は杭州の後、恵州地方官として勤務した。蘇氏を初めとする詩人達は湖面上に長い堤を造ったり、詩文で湖・山を潤色したりすることで、恵州西湖を有名な風景地へと昇華させた。

 視覚分析は主に蘇氏等文人達の活動により設定された視点場を抽出し、それらの景観と杭州西湖景観とを比較分析した。その結果、湖面上に加えられた堤と既存の島が、低仰角で眺められ、またこれと湖畔にある低山、そして外囲に全体の背景をなす高山が、杭州西湖と類似した層状をなす景観を構成していることが明らかとなった。そしてこれらの視点の位置は、多くが狭長の恵州西湖の中で部分的に集中し、杭州西湖景観とより近似した景観を有する立地に設定されていた。更に構造物ついて検討すると、塔などの大規模な構造物の見え方が、杭州西湖の景観に近似している。この塔と自然山水の組合せによる景観は宋時代の蘇氏の詩により恵州西湖のシンボルとなった。また後世の文人達により、杭州西湖の名景になぞらえられた詩文の作成や視点の選定が行われ、名景づくりが進められた。恵州西湖の景観形成を主導した主体は行政官や文人などであり、小施設の整備などによる「境化」や詩文などにより代表景を定着させる「名景化」の手法が中心であった。

 北京西湖は、清の皇帝が選択した敷地で、北京市の風景秀麗な「西北郊外」に位置している。その湖・山に構成された景観は、杭州西湖にたとえて詩に詠われた。江南地方の風景を好んだ皇帝は、その景観や名園などを参考にしながら自分の領内の景観づくりや、離宮建設を行った。すなわち北京西湖は、皇帝自らが風景地づくりの目的で、杭州西湖の山水景観を真似ながら大規模、全面的に行った造景プロジェクトであった。その完成したものの名称が頤和園である。

 頤和園の整備事業は大規模な地形改変や施設整備が特徴であり、湖や山を形造った粗造成レベル、堤や島を造った造形レベル、建築物や橋などを設置した構造物配置レベルの各計画段階に沿った景観づくりが行われた。そこでこれらの段階それぞれについて視覚分析を行った。視点は園内に分散した施設等の拠点を中心に抽出した。分析の結果、(1)粗造成レベルにおいては湖畔の山の改造により景観のまとまり感が増強され、更に湖面の拡大によって眺望主題が確保され、俯瞰視の度合いが杭州西湖に近づけられた。(2)堤・島づくりのレベルにおいては、堤・島造成後、視点場が増加し、視覚的に湖面にも層が加えられ、杭州西湖と似た層構造の景観構成が実現された。(3)諸施設の配置レベルにおいては、園内湖畔の山頂に大規模な構造物(塔、閣)が築かれ、視覚分析上からも杭州西湖景観の組合せに更に近づられたたことが明らかになった。これらの結果より、頤和園の景観形成は、杭州西湖景観の全体的な影響をうけており、景観づくりの各段階ごとに、徐々に景観を近づけるように行われたことが明らかになった。また皇帝の景観づくりにおいて、地形を大規模に改造したり、視対象をつくったりすることも重要な特徴であることが指摘できる。

 日本の景観づくりへの影響に関しては、西湖景観がいつ頃どのような形で日本に伝わってきたかを明確に確認することは難しい。ただし西湖景観から影響を受けた事例は、江戸時代以降のものであることが分かった。庭園及び風景地のいくつかの事例について考察を加えたが、特に庭園レベルにおける堤や橋等装置による象徴的な形の導入が中心であり、名景づくりにおける日本の特徴である「縮景」が表れている点が注目される。

 以上の事例分析より、後世の景観づくりのプロジェクトにおいて、杭州西湖の景観構成や形成手法が参考とされ、共通した景観が実現されている。杭州西湖が自然風景地の景観形成のモデルであることが確認された。ただし、杭州西湖を基調にしつつも各対象地の立地条件や主体の違いなどによって、独自の景観形成方策が用いられていることも明らかとなった。

 第IV章においては本論文の結論をまとめ、今後の研究課題について述べた。

審査要旨

 中国杭州西湖風景地(以下、杭州西湖)は、大スケールの自然風景地における景観形成例であること、そして長期間にわたって皇帝や文人など多くの主体が関わって形成されたことから、風景計画の研究や実務にとって重要な事例である。後世の中国における景観づくりや日本庭園にも大きな影響を与えてきた。

 本論文は、杭州西湖の景観構成の特徴を明らかにすると共に、その形成の歴史を辿りながら杭州西湖における景観形成手法を考察し、併せて杭州西湖を範とした風景地の景観形成について分析・考察を行ったものである。

 本論文は、4章の構成となっている

 第I章においては、研究の背景と位置づけ、そして研究の目的および方法について述べている。杭州西湖の地形図をもとに数値地形モデル(DTM)を作成し、対象地周辺の主要視点からの定量的な視覚分析を通して、その景観構成を考察した点が本論文の特徴であることが述べられている。

 第II章では、まず杭州西湖の景観の形成過程を文献・資料調査をもとに分析・整理し、湖の生成後千数百年の間、次々と人工的改造を受けてきたこと、蘇東坡をはじめとする著名な文人や芸術家により景観に配慮した計画的整備が行われたこと、西湖景観の基本型が形成され、著名な西湖十景が登場したのは宋の時代であることなどが指摘されている。

 そして視覚分析では、35点の主要視点から、歴史上の名景、スカイライン、湖岸線、湖中の島・堤など30箇所の視対象を見た場合の景観を、視距離、比高、仰・俯角を用いて分析し、杭州西湖の景観構成の特徴として、以下の3点を指摘している。(1)湖の三方は山に囲まれているものの、山の仰角の低さや湖の広がりから開放感のある景観が展開している。(2)湖中の島と堤、湖に接する低山、背景の高い山の三層構造の景観を呈している。(3)大小の構造物の整備・配置により、人工景観と自然景観を巧みに融合させている。

 また、これらの特徴と杭州西湖の景観形成過程を併せて検討し、その景観形成手法として、(1)三層構造の形成を促す「層化」(2)理想境づくりを示す「境化」(3)代表景づくりである「名景化」の3点を抽出した。

 第III章においては、広東省の恵州西湖および北京西湖(頤和園)を対象地とし、前章同様の視覚分析を通して、杭州西湖景観の影響を考察している。また日本への影響についても言及している。

 恵州西湖は、蘇東坡を中心とする文人によって景観形成が行われており、視覚分析の結果、杭州西湖と類似した層状の景観を構成していること、後世の文人たちにより杭州西湖の名景になぞらえた詩文の作成や視点選定が行われ、名景づくりが進められた点を明らかにしている。そして恵州西湖の景観形成では小構造物の整備などによる「境化」や、詩文などにより代表景を定着させる「名景化」の手法が中心であった点を指摘している。

 一方、頤和園は、清の皇帝が杭州西湖の景観をまねて大規模に行った造景プロジェクトで、杭州西湖景観の全体的な影響を受けており、景観形成の各段階毎に杭州西湖の景観構成に近づける方策がとられたこと、特に湖畔の山や湖など地形の大規模な改造による「層化」、および大規模構造物の整備による「境化」に特徴があることを指摘している。

 日本の景観づくりへの影響については、文献や資料が少なく、事例の紹介にとどめている。ただし庭園レベルにおける堤や橋など象徴的な形の導入が中心であり、日本の特徴である「縮景」を指摘している。

 そして最後に、杭州西湖の景観構成や形成手法が後世の自然風景地の景観形成のモデルであること、ただし、各対象地の立地条件や主体の違いなどによって、独自の景観形成方策が用いられていたとまとめている。

 第IV章においては本論文の結論をまとめ、今後の研究課題について述べている。

 以上、本論文は中国の著名な風景地である杭州西湖とその影響を受けた風景地を対象とし、視覚分析を通して現状の景観構成の特徴を明らかにすると共に、その景観の形成、変遷過程を辿ることで、風景地における景観形成手法を抽出しようとした意欲的な試みである。従来、構図分析により促えられてきた著名風景地の景観を、視覚分析によって構成として把握し、膨大な歴史文献調査と合わせることで、三層構造の形成(層化)、理想境づくり(境化)、代表景づくり(名景化)という景観形成手法の抽出に成功している。

 このように適切な研究方法にもとづき、有意義な結論を導出したものと判断でき、申請者が提示した層化、境化、名景化の手法は、今後の風景計画研究、計画実務に重要な知見を与えるものと評価できる。したがって学術上、応用上貢献することが少なくないと考え、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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