水棲動物の多くは、視覚や聴覚が発達していないため、種間、種内における情報伝達を化学物質によって行っていると考えられている。これらのケミカルシグナルはごく微量、水中に放出されるため、その本体の解明は困難であったが、近年の分離・分析技術の進歩により、シグナルの本体が徐々に明らかにされつつある。 ところで、カニ類など、短尾甲殻類の多くは、メスの脱皮の直後に交尾を行うが、脱皮前後の数日から数週間にわたり、オスはメスを抱きかかえる「ガード行動」と呼ばれる特有の保護行動をとる。これら一連の生殖行動は、メスが放出する性フェロモンによって誘起されることが、多くの種で示されている。しかし、フェロモン本体の解明は古くから試みられているものの、未だに成功した例はない。これは適確な生物試験法が開発されていないためと考えられる。 従来、甲殻類で用いられてきた生物試験法は、メスの飼育水をオスの水槽に導入し、オスの生殖行動を観察するものであった。しかし、この方法にはオスの行動の評価が難しいという欠点があった。佐々木(1991)はケガニErimacrus isenbeckiiのメスが性フェロモンを放出することを、脱皮中のメスの飼育水を含ませたスポンジをオスに提示し、オスの反応を観察するという方法を用いて証明した。この方法では、オスは実際のメスに対するのと同様に、スポンジを抱きかかえ、ガード行動や交尾行動を示すため、オスの行動の意義が非常に明確で、性フェロモンを精製する際の指標として用いるのに好適であると考えられた。 そこで本研究では、水産上重要種であるケガニとその近縁種のクリガニTelmessus cheiragonusのメスが放出する性フェロモンを、上記の「スポンジ法」を用いて分離・精製するとともに、化学構造の解明を試みた。その概要は以下の通りである。 (1)ケガニの性フェロモン 脱皮直後(ステージA1〜A2)のメスガニ10個体の飼育水(12.6L)をポリスチレン樹脂カラムに添加し、樹脂を水で洗浄後、吸着された有機物を水・エタノール混液で溶出した。スポンジ法で活性の見られた画分を、ODSフラッシュクロマトグラフィーとシリカゲルのHPLCで順次精製し、活性画分7.7mgを得た。 FABマススペクトルのデータから、本画分は近縁化合物の混合物であることが示唆されたが、量的な問題から構造解析は混合物のまま行った。各種2次元NMRスペクトルの解析結果から、本画分は・ヒドロキシ脂肪酸とフィトスフィンゴシンから成るセラミドの混合物であることが判明した。そこで、この混合物をメタノリシスし、脂肪酸のメチルエステルおよびスフィンゴシンに導き、それぞれについて解析を行った。 脂肪酸メチルエステルの1H NMRスペクトルは、イソ型が主成分で、直鎖型のものが少量存在することを示した。さらにCDスペクトルで、215nmに負のコットン効果が観測されたことから、位水酸基の立体配置をRと決定した。 一方、フィトスフィンゴシン部分は、1H NMRスペクトルから直鎖型のみであることが判明した。さらに、テトラアセチル体に導き、1H NMRスペクトルと旋光度のデータを、文献既知のフィトスフィンゴシンの4種類の異性体と比較検討し、その立体配置を2S,3S,4Rと決定した。 セラミドおよび分解物のマススペクトルから、脂肪酸部分、スフィンゴシン部分ともにメチレン鎖の数が異なる混合物であることが示唆されたので、活性画分をODSのHPLCで分離したところ、8つのピーク(セラミドA〜H)を得た。それらの1HNMRスペクトルおよびFAB-MS/MSスペクトルから、それぞれの脂肪酸とスフィンゴシンの組成を明らかにすることができた。以上の結果、セラミドA〜Hの構造を下図のように決定できた。 次に、これらのセラミドの構造および生物活性を確認するために、分岐脂肪酸を含むセラミド6種からなる混合物の合成を試みた。合成計画としては、メチレン鎖の数がそれぞれ異なる分岐脂肪酸3種(C23,C24,C25)、および直鎖フィトスフィンゴシン2種(C15,C16)を別々に合成し、最終的に混合してからカップリングを行うことにした。 スフィンゴシン部分の合成脂肪酸部分の合成カップリング まず、スフィンゴシン部分については、-D-galactose pentaacetateから5段階で生成するアルデヒドに、C10あるいはC11のWittig試薬を反応させることにより、対応する側鎖をもつアルケンに導いた。次に、2位水酸基をメシル化後、アジド反転で窒素原子を導入し、最後に、アジドを接触還元してスフィンゴシンへと導いた。 次に、脂肪酸部分については、まず9-bromononanolから3段階で得られるWittig試薬と、C8、C9、およびC10のプロモアルデヒドから、C21、C22、C23の3種類の臭化物をそれぞれ合成した。さらに、これらをSorensen法により-アミノ酸へと導いた後、NaNO2で処理して-ヒドロキシ脂肪酸とした。 合成したスフィンゴシンと脂肪酸は、縮合に先立ち、天然物の分析から割り出したおおよその比率に混合し、縮合、脱保護を行った後、生成するエピマーをシリカゲルクロマトグラフィーにより分離し、セラミド混合物の合成を完了した。合成品の1HNMRスペクトルおよびODS-HPLCによる溶出のパターンは、天然物のものと良く一致した。 合成したセラミド混合物の生物活性を、スポンジ法により検討したが、オスガニの反応は見られなかった。しかし、生物試験を行ったのが交尾期ではなかったため、今後さらに検討する必要があると思われる。 (2)クリガニの性フェロモン クリガニはケガニと同じクリガニ科に属し、ケガニと同様の配偶行動を示す。クリガニでも、オスは、脱皮前後のメスの飼育水を含ませたスポンジに対して、ガード行動や交尾行動を行う。従って、ケガニの場合と同様に、スポンジ法を適用して、活性物質の単離が可能であるかどうか検討した。 まず、メスの飼育水を含んだスポンジに対するオスの反応を調べた。オスは脱皮直後のメスの飼育水に対してガード行動や交尾行動を示したが、脱皮前のメスの飼育水には反応しなかった。また、ガード行動と交尾行動を示した個体を合わせても25%と低く、再現性にも乏しかった。そのため活性の有無の評価が困難であり、フェロモンの単離には至らなかった。 そこで、ビデオ撮影によりクリガニの配偶行動を解析したが、ワタリガニ類で報告されているような、フェロモンによって引き起こされるオスの特徴的な求愛行動などは見られなかった。よって、Y-mazeを用いてフェロモンの誘引性に基づく生物試験法を試みた。この方法では脱皮前、脱皮後のどちらのメスに対しても、オスの反応が見られたので、スポンジ法よりも感度が高い可能性が示唆された。その反面、オスの行動の意義が評価し難い欠点がある。よって、活性物質の単離のためには、スポンジ法とY-maze法とを併用することが有効と考えられる。 以上、ケガニのメスが交尾期に放出する物質を単離し、その構造を明らかにできた。また、クリガニでは、性フェロモンの単離を行うための生物試験法に、新たな知見を加えることができた。ケガニから得られたセラミド混合物の生物活性は検討中であるが、合成品にフェロモン活性が見られれば、甲殻類としては最初に性フェロモンが構造決定された例となる。本研究は、海洋生物のケミカルコミュニケーションを理解する上で重要な知見を提供するとともに、水産増養殖へも寄与できるものと思われる。 |