学位論文要旨



No 112705
著者(漢字) 石垣,哲治
著者(英字)
著者(カナ) イシガキ,テツジ
標題(和) 海産従属栄養性微小鞭毛虫類の生物学的研究
標題(洋)
報告番号 112705
報告番号 甲12705
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1768号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 助教授 福代,康夫
 東京大学 助教授 西田,周平
内容要旨

 従属栄養性微小鞭毛虫類(HNF)は原生生物界では鞭毛虫亜門として考えられているが、肉質虫類と併せて形走類亜門の鞭毛虫綱として分類される場合もあり、研究者により分類方法が異なり、未だに分類学的位置付けは確定されていない。1960年代に無色の鞭毛藻が発見されて以来、Azam et al.(1983)が提唱したMicrobial loop(微生物環)説によってHNFの存在が重要視されるようになった。この環は海洋生態学の中で古典的食物連鎖の側鎖として位置づけられており、この説においてHNFは細菌捕食者として注目された。1980年代中頃まではHNFの計数を行うための固定法の検討および計数方法の開発が行われ、その後、現在に至るまでは生態学的な観点から沿岸および外洋における分布密度や捕食速度などを求め、溶存有機物から細菌を経て鞭毛虫へ至るエネルギー流量を見積ることを試みた研究はあるが、HNFの種レベルにおける捕食形態、分裂様式、生活様式に関する生物学的な知見は極めて少ない。本研究では、調査例の少ない日本近海と北太平洋亜寒帯、亜熱帯海域および赤道湧昇域におけるHNFの密度を調査し、さらに種レベルにおけるHNFの特徴として捕食様式と分裂様式を解析することによりHNFの海洋生態系における役割を明らかにすることを目的とした。

1.単離

 試料は1992年7月と1994年3月に東京湾湾奥部に位置する東京水産大学係船場から採集し、鞭毛虫を分離した。分離した鞭毛虫はKinetoplast目やChrysomonas目等の2〜3種であったが、固定条件の検討にはこの複数種混合の培養液を使用した。さらに段階希釈法を用いて単離できたActinomonas sp.とBodo sp.の2種を培養し、1ヶ月毎に植え継ぎを行った。Actinomonas sp.は、体長約7m、基本体型が球形であり、鞭毛は1本、鞭毛の反対側に付着糸が1本、そして体全体に放射線状に触手が存在した。一方、Bodo sp.は体長約5m、基本体型が楕円球で、鞭毛は推進および餌粒子捕獲に使われる体長の1.5〜2倍の長鞭毛および物体表面への付着に使われる体長の0.5〜1倍の短鞭毛の2本であった。両属とも鞭毛の出ている方向に遊泳した。水温5、10、15、20および25℃における増殖曲線はActinomonas sp.については水温変化に対しほぼ同様の結果が得られ、最大細胞密度が5.86×103〜14.8×103cells/mlであったが、Bodo spについては水温低下とともに誘導期が長く、対数増殖期の傾きが緩くなり、最大密度が2.72×104〜4.67×104cells/mlであった。

2.固定

 固定条件の検討に用いた固定液は(1)固定した標本を染色しないもの、(2)固定により可能な限り細胞消失の起こりにくいもの、(3)実験終了後の廃液処理が簡便なものとして、一般的に生物固定に使用されるグルタルアルデヒドとホルムアルデヒドを選択した。最終濃度がグルタルアルデヒドについては2、1、0.6、0.3%、ホルムアルデヒドについてはホルマリン濃度で5、4、3、2、1%で固定した。固定後、冷暗所に保存し、固定直前、固定後4時間、1日、3日、1週間、2週間、3週間そして1ヶ月にAODC法により密度を計数し、細胞消失率について比較検討した。ホルマリン固定による消失率は4時間後において最終濃度1%と2%ではほとんど認められなかったが、他の濃度では消失率が7.1〜21.5%であった。1日後では14.1〜23.5%となり、1ヶ月後では全濃度について30%以上となった。グルタルアルデヒド固定による消失率は最終濃度1%では1日後においてほとんど認められず、3日後で4%、1週間後で8.4%と低い値であった。ホルマリン固定の場合にはグルタルアルデヒド固定に比べ鞭毛虫の形状変化が認められた。この結果からグルタルアルデヒド最終濃度1%固定を行うことが鞭毛虫密度を測定する条件として最適であることがわかった。

3.分布

 海洋生態系内におけるHNFの役割を明らかにするために現場の微小プランクトンの0〜250mまでの鉛直分布を、鹿島灘10測点、北西大西洋亜寒帯域1測点、太平洋亜熱帯域3測点および太平洋赤道湧昇域2測点にて調査した。鹿島灘の1993年7月の調査では、50m以浅でHNFが0.31×103〜5.86×103cells/ml、ANF(独立栄養性微小鞭毛虫類)が0.38×103〜4.85×103cells/ml、ラン藻類が0.07×104〜8.05×104cells/ml、細菌が2.53×105〜12.80×105cells/ml存在したが、水温躍層(50〜100m付近)より深くなると減少する傾向が見られた。細菌とHNF、およびクロロフィルとANFの分布極大層は一致したが、細菌とHNFおよびクロロフィルとANFにおいて最大細胞密度を示す測点は異なった。HNFの極大層(10m)はANFの極大層(30m)より上側であった。また、大型動物プランクトンの生物量は水塊の差によって変動していたが、微小プランクトン群の各測点間における0〜250mまでの水柱積算細胞数は水塊によって変化しなかった。北西太平洋亜寒帯域、太平洋亜熱帯域および太平洋赤道湧昇域で実施した1993年10月〜11月の調査では、全ての海域において鹿島灘と同様に水温躍層以深より各微小生物の密度は減少していた。HNFの最大密度は亜熱帯域では0.84×102cells/ml、他では1.01×103〜4.52×103cells/mlであった。ANFはほとんどの測点でHNFの密度より下回り、最大密度は亜寒帯域と赤道湧昇域1測点では4.78×103と1.01×103cells/ml、他では0.50×103〜0.63×103cells/mlであった。細菌の密度は全測点において全て105cells/ml台であり、ラン藻類の極大層は亜表層クロロフィル極大層とほとんど一致していた。海域によるHNFの差異は見られなかった。

4.捕食の観察

 高速ビデオカメラを用いて、単離したActinomonas sp.とBodo sp.の捕食様式を解析した。観察には試料を精子計数用チャンバー(厚さ10m)に注入し、水温および塩分条件を変化させ、培地中に存在する細菌を捕食させて行った。捕食様式の撮影は恒温器に内蔵した倒立位相差顕微鏡に装着した高速ビデオカメラを用いて行った。撮影時間は顕微鏡の光源が発する熱によりチャンバー表面温度を上昇させたため10分間とした。捕食様式は次の4段階に区分できた。鞭毛虫は鞭毛による水流の影響の及ぶ範囲外に泳ぐ細菌を、水流の影響の及ぶ範囲内に引き寄せ(第1段階)、鞭毛の先端部またはactinopoidaにより触れた(第2段階)後、細菌を体に直に接触して(第3段階)、捕食した(第4段階)。Bodo sp.の捕食は38例あり、’包み込み’と’吸い込み’の2様式が観察され、吸い込みは包み込み処理時間に比べ有意に短かった。捕食処理時間は最大0.82秒、平均0.10秒であり、水温上昇とともに長くなったが、捕食処理中には接近する他の細菌に反応を示さなかった。一方、Actinomonas sp.の捕食は27例あり、’包み込み’様式のみ観察された。捕食処理中に細菌の捕獲を連続的に行い、次の捕食まで細菌をactinopoidaに保持していた。捕食処理時間は水温(10、15、20および25℃)、塩分(20と36psu)変化に対し有意差が認められず、平均39.16秒とBodo sp.に比べ約25倍も長かった。この原因は両属間の食飽形成における細胞膜再生速度に差があったためと考えられる。両属の捕食間隔には周期性が見られず、さらに接近する細菌の頻度には個体によるばらつきが認められ、両属合計80個体観察した内44個体が10分間に捕食しなかった。

5.分裂の観察

 単離したActinomonas sp.とBodo sp.の2分裂様式を観察した。観察は水温20℃の時における対数増殖期初期から中期における鞭毛虫を精子計数用チャンバーに注入して行い、同時にビデオに録画した。撮影装置は捕食様式の時と同じであるが、高速ビデオカメラに代えてCCDカメラを使用した。30分間にチャンバーの表面温度が3℃上昇したため恒温器内の温度は17℃に保った。Actinomonas sp.の2分裂様式は、鞭毛基部の両側から短い鞭毛が出現し(第1段階)、短い鞭毛が長くなるとともに体が膨らみ始め(第2段階)、母細胞の鞭毛の運動が停止して収縮し体に吸収または離れ(第3段階)、体がくびれ(第4段階)、娘細胞が離れてその間が架橋された状態になり(第5段階)、架橋が糸状になり(第6段階)、最後は分裂であった(第7段階)。観察できた25例の内、鞭毛のはずれた場合は1例であった。分裂時間は母細胞の鞭毛が停止してから10〜20分であった。一方、Bodo sp.の2分裂様式は、鞭毛が停止し(第1段階)、鞭毛のない後方側半球(娘細胞)が膨らみ始め(第2段階)、娘細胞と鞭毛側半球(母細胞)との間が引き延ばされて、娘細胞に鞭毛が母細胞の鞭毛と点対称に出現し(第3段階)、娘細胞と母細胞との間が架橋され(第4段階)、架橋が糸状になり(第5段階)、最後は分裂であった(第6段階)。観察できた分裂は10例であり、分裂時間は鞭毛が停止してから5〜10分であった。Actinomonas sp.とBodo sp.は2分裂以外に出芽形式の分裂も観察された。さらに、両属とも体型を変化させており、Actinomonas sp.については基本体型、付着糸がない体型、仮足が出ている体型そして2個体の結合したような体型の計4形式、Bodo sp.については基本体型、三日月形体型、三角形体型、仮足が出ている体型が2例、楕円が一部かけた体型、長方形体型そして2個体の結合したような体型の計7形式が観察できた。

 以上、HNFの外洋における分布生態が解明され、かつ、捕食、分裂様式が高速ビデオカメラ、CCDカメラを用いた詳細な観察により明らかとなった。今後はHNFの生活環を観察し、分裂の時期、分裂と環境要因との関係、栄養形態について本研究の過程で浮上して来た新たなる問題を解明して行きたい。

審査要旨

 従属栄養性微小鞭毛虫類(HNF)はAzamらが提唱した微生物環説によって海洋生態系での存在が重要視されるようになり、細菌捕食者として注目された。現在までに生態系におけるエネルギー流量の見積りに関する研究が行われているが、捕食形態、分裂様式などの個体レベルの知見が極めて少ない。海洋生態系の物質輸送を明らかにする上では重要な生物である。

 本論文は、海洋におけるHNFの分布密度、個体レベルにおけるHNFの特性として捕食様式と分裂様式を解析することによりHNFの生物学的な知見について言及したもので次の5章からなる。

 第1章は序章で、HNFは分類学的に多岐に位置付けられ、生態学的知見は多く報告されているが、生物学的知見について極めて少ないことを述べている。

 第2章はHNFの単離と固定条件の検討である。採集は東京湾湾奥部から行い、採取できた2〜3種の鞭毛虫で固定条件の検討に使用している。さらに段階希釈法を用いて単離できたActinomonas sp.(体長約7m、鞭毛が1本)とBodo sp.(体長約5m、鞭毛が2本)の2種である。固定条件の検討では(1)固定した標本を染色しないもの、(2)固定により可能な限り細胞消失の起こりにくいもの、(3)実験終了後の廃液処理が簡便なものとして、グルタルアルデヒドとホルムアルデヒドを選択していた。固定直前に対する固定後の細胞密度の細胞消失率により比較検討していた。両固定液による鞭毛虫の形状比較などから、鞭毛虫密度を測定の最適固定濃度はグルタルアルデヒドで最終濃度1%固定であることを明らかとしている。

 第3章はHNFの海洋における分布様式の調査である。鹿島灘10測点、太平洋の亜寒帯外洋域1測点、亜熱帯中央水域3測点と赤道湧昇域2測点で微小プランクトンの鉛直分布を調査していた。鹿島灘の調査では、HNF、ANF(独立栄養性微小鞭毛虫類)、ラン藻類および細菌ともに50m以浅に多く存在したが、50m以深では減少する傾向が見られた。HNFはANFより上側に偏って存在する傾向が認められた。これら微小プランクトン群の各測点間の水柱積算細胞数は水塊によって大きく変化していなかった。太平洋の亜寒帯外洋域、亜熱帯中央水域および赤道湧昇域の調査では、鹿島灘と同様に水温躍層以深より各微小生物の密度は減少していた。HNFはANFより浅い層に偏って分布し、ラン藻類の極大層は亜表層クロロフィル極大層とほとんど一致していた。海域によるHNFの分布には差異が見られないことを明らかにしている。

 第4章は高速ビデオカメラを用いた捕食様式の観察である。単離したActinomonas sp.とBodo sp.について水温および塩分条件を変化させ、培地中に存在する細菌を捕食させていた。捕食様式はそれぞれ4段階に区分できることを明らかにしている。Bodo sp.捕食には、’包み込み’と’吸い込み’の2様式があり、吸い込みは包み込み捕食時間に比べ有意に短かく、水温上昇とともに長くなっていた。また捕食中に接近する他の細菌には反応を示していなかった。一方Actinomonas sp.の捕食には、’包み込み’様式のみ観察され、捕食中接近する細菌を連続的に捕獲し、次の捕食まで細菌を触手に保持していた。捕食時間は水温、塩分変化に対し有意差が認められず、Bodo sp.に比べ約25倍も長かったが、この原因として両種で食飽形成の細胞膜再生速度に差があったためと考察していた。半数が10分間に捕食せず、捕食間隔には周期性が認められなかった。接近する細菌の頻度には個体によるばらついていたことを明らかにしている。

 第5章は分裂様式の観察である。単離したActinomonas sp.とBodo sp.の2分裂を観察していた。Actinomonas sp.ついては、7段階に区分でき、分裂時間が10〜20分であることを明らかにしている。一方、Bodo sp.については、6段階に区分でき、分裂時間が鞭毛が停止してから5〜10分であることを明らかにしている。Bodo sp.の分裂には出芽形式の分裂があることを明らかにしている。さらに、両属とも体型を変化させており、Actinomonas sp.については4型式、Bodo sp.については8型式あることを明らかにしている。

 以上要するに、本論文は海洋生態系の微生物環における主要な微小生物でありながら、生物学的知見の少なかった従属栄養性微小鞭毛虫類の個体レベルでの特性に着目し、分布様式、捕食様式および分裂様式などの特性について新知見を得たもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認める。

UTokyo Repositoryリンク