学位論文要旨



No 112706
著者(漢字) 砂村,倫成
著者(英字)
著者(カナ) スナムラ,ミチナリ
標題(和) 海洋におけるメタン生成に関する微生物学的研究
標題(洋)
報告番号 112706
報告番号 甲12706
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1769号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 教授 二村,義八朗
 東京大学 教授 若林,久嗣
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 助教授 木暮,一啓
内容要旨

 地球温暖化気体として知られるメタンは二酸化炭素の次に大きな影響をおよぼしている。その温室効果は等量の二酸化炭素にくらべおよそ30倍あることが知られており、地球全体では二酸化炭素の1/4程度の影響をおよぼしている。また、大気中のメタンは二酸化炭素と同様に年々増え続けていて、産業革命以前の0.7ppmから1.8ppmに増加している。

 大気中に供給されるメタンのほぼ80〜90%が細菌によって生成されていることが明らかになっている(Sheppard et al.1982)。そのほとんどは湖沼、湿地帯、水田、埋め立て地など陸上を起源とし、海洋に起因するものは1.4%にすぎないといわれている。しかしながら、海洋堆積物中のメタンは大気中のメタンの3.5〜22倍に達すると推測され(Gomits and Fung 1994)、数百万年の長い時間スケールの中では大気へのフラックスという観点からも、重要な意味を持っている。

 これまでに海洋堆積物中のメタンに関しては、堆積物中のメタン濃度の測定を通じてフラックスを推定した研究、純粋分離されたメタン生成細菌の性状を調べた研究などが多く、細菌の活性やバイオマスの測定などを通じて、実際の環境と微生物を結びつける研究は充分行われているとは思われない。本研究はメタン生成細菌のバイオマス測定に関して検討を行い、メタン生成活性の測定とメタン生成細菌バイオマスの測定を通じて、その環境中での動態を調べたものである。本研究の概要は以下の通りである。

1.メタン生成細菌バイオマス測定に関する検討

 メタン生成細菌は絶対嫌気性細菌に属し培養には時間がかかると同時に大変難しい。したがって、海洋における分布を調べるために多くの試料についてバイオマスを測定する場合、培養法に依存することは困難である。大坪ら(1993)はメタン生成細菌の細胞膜脂質として特有のエーテル型脂質の分析を通じて、バイオマスの測定を行う方法を開発した。この方法を海洋環境中に適用するため、条件検討を行った。本研究では多くの堆積物試料を処理するために、抽出と分析の迅速化を図る必要性があり、大坪らの方法からHF分解を除き、HPLCの分析条件を逆相系にすることによって、迅速に分析を行うことが可能になった。また、内部標準物質として1,2-di-O-octadecyl-rac-glycerolを用いることにより、堆積物中の夾雑物との良好な分離が得られ定量性を増すことができた。

 次に、神奈川県油壷湾堆積物からメタノールを基質として得られたメタン生成細菌の集積培養系(メタン生成細菌数/全菌数>0.9)を25℃にて培養し、気層中のメタン濃度、細菌数および脂質濃度の経時変化を調べた。細菌数と脂質量の間には(細菌数)=0.113×(脂質量,fg):r=0.995の関係が見出され、メタン量と脂質量の間には(メタン量,moles)=11.2×(脂質量,g):r=0.997の密接な関連性が認められた。

 これまでにメチル基または水素を基質として生育する比較的増殖の速いメタン生成細菌について、メタンの最終濃度と乾燥菌体重量の関係が導き出されている。また、乾燥菌体重量あたりの脂質量はほぼ一定であることから(メタン量,moles)/(脂質量,g)=5〜20の関係が導き出される。本研究で得られた値は11.2で、これまでの研究とほぼ一致した。培養系では累積脂質濃度はそれまでに放出したメタンの量と正の相関があることが示された。

2.海洋堆積物における脂質濃度の水平および鉛直分布

 海洋研究所所属の淡青丸によって1994、96年の夏期および1996年の冬期に東京湾および南海トラフでマルチプルコアラー、フレーガーコアラーを用いて堆積物試料を採取した。得られた堆積物中のメタン濃度、硫酸塩濃度、有機物量および脂質量の鉛直分布について調べた。堆積物乾燥重量1gあたりの脂質濃度は、東京湾央部の砂状堆積物では冬期に0.174〜0.297g,夏期に0.029〜0.382gであり、脂質量の最大値はメタン濃度の最大値に対応していた。東京湾奥部のヘドロ状堆積物中の脂質量は冬期に0.723〜3.57g,夏期に0.821〜3.16gであった。夏期に層別のメタン生成活性を測定したところ、メタン生成の極大値は20〜25cm付近に認められ、環境中の脂質量との間の関連性は明瞭には認められなかった。南海トラフの水深3,800および2,600mの堆積物での脂質量は0.016〜0.196gが測定され、堆積物表層部で最大値、10〜30cmで最小値を示し、その後深度を増すにつれて増加した。これまでに海洋堆積物のエーテル型脂質量として堆積物乾燥重量1g当たり、フロリダ湾で0.046g、ノースウエールズで0.303gが報告されているが、本研究で測定された東京湾中の脂質量はこれまでに内湾域で行われてきたものに比べ全般的に高い値を示した。このことは、東京湾堆積物において、メタン生成細菌バイオマスが高いことを示している。

 本方法では、生菌と死菌を区別できないこと、細胞の大きさによって、細胞数あたりの脂質含量は変わってしまうことといった欠点はあるものの、先の換算係数を用いると、堆積物1mlあたりメタン生成細菌の菌数は東京湾で3.3×106〜4.0×108細胞、南海トラフで1.8×106〜2.2×107細胞に相当することが明らかになった。

図1 海洋堆積物中の脂質量とメタン濃度および硫酸塩濃度との関係(A)脂質量とメタン濃度の関係、(B)脂質量と硫酸塩濃度の関係:▼夏期東京湾堆積物、○冬期東京湾堆積物、×夏期南海トラフ堆積物

 図1-Aには堆積物中の脂質量とメタン濃度の関係を示した。東京湾堆積物中では夏期に脂質量とメタン濃度の間で(メタン,moles)=0.0377×(脂質量,g):r=0.819の正の相関が認められた。環境中のメタン濃度と脂質量から得られた係数0.0377は、集積培養系で得られた11.2に比べるとはるかに小さい。これまでの研究では増殖速度が遅くなるほど乾燥菌体重量あたりのメタン生成量は多くなることが知られている。一方、有機物濃度の高い嫌気的な堆積物中ではメタン生成細菌の脂質は80日間に5%が分解されることがこれまでに知られており(Harvey et al.1986)、堆積物中の脂質量はほぼ過去5年間の生産量を表しているとみなすことができる。これらのことから、本研究で測定されたメタンの少なくとも50倍が年間に生成されていることが推測された。

 南海トラフおよび冬期の東京湾堆積物中では、メタン濃度と脂質量との間には一貫した関連性は認められなかったが、夏期、冬期を通じて全ての海洋堆積物中で硫酸塩濃度と脂質量との間に負の相関が認められた(図1-B)。酸化還元電位はこのような鉛直分布を示さないことから、硫酸還元菌はメタン生成細菌の生育に必要な還元環境を供給するばかりでなく、硫酸塩の存在下で硫酸還元菌とメタン生成細菌との間には密接な関係が成り立っていることが示唆された。

 Hoehler et al.(1994)によると、硫酸塩の存在下でメタン生成細菌は硫酸還元菌と共役してメタンを酸化することが示唆されている。堆積物中のメタン濃度と脂質量との間に密接な関連が認められるにも関わらず、メタン生成活性と脂質濃度との間に関連性が認められなかったことから、堆積物中ではメタンの酸化を行っているメタン生成細菌が存在することが考えられた。

3.油壺湾堆積物におけるメタンの生成メタン濃度の季節変動

 油壷湾において1996年3月から8月までの間、堆積物中のメタン濃度の季節変動を測定した。堆積物中のメタン濃度は3月初旬には表層から20cmまでほぼ0.2Mで一定であったが、3月下旬には表層部で0.1M、深度が増すにつれ増加し、30cm層で1.5uMに達した。4月下旬にも堆積物表層で1.1M、25cm層では5.8Mのメタンが測定され、この期間には水層へのメタンの放出が生じていることが示唆された。その後、6月初旬には3月初旬と同様な分布を示したものの、7月中旬に10cm層で0.5Mのピークを示し、8月下旬には3月下旬と同様に表層で0.1M、15〜30cmで0.6Mと増加し、再び水層へ移行することが示された。

堆積物培養系におけるメタン生成と硫酸還元との関わり

 油壺湾堆積物を脱気した0.05%ポリペプトン海水に縣濁し、20℃にて培養を行い、メタンと硫酸塩濃度の経時変化を測定した。メタンの生成は硫酸還元と同時に認められた。気層中のメタン濃度は実験開始から200時間以内で最大値100〜300Mを示し、その後減少した。硫酸塩濃度はこの間引き続いて減少していた。一方、硫酸還元を特異的に阻害するモリブデン酸ナトリウムを添加すると、メタンの生成はコンスタントに増加した。このことより、ポリペプトンを有機物源として加えた場合、メタン生成の基質は硫酸還元菌に依存せず、嫌気性の発酵細菌によって供給され、これを硫酸還元菌と競合して利用していることが示唆された。加えた有機炭素の中の約0.5%がメタンに変換されることが示され、さらに嫌気的なメタンの酸化は硫酸還元に共役して生じることが示唆された。

 以上の結果から海洋堆積物中には東京湾のような富栄養海域はもとより、南海トラフのような水深3,800mにも達する深海堆積物中に至るまで広くメタン生成細菌が分布していることが明らかになった。その細菌数は硫酸塩の存在下でも堆積物1mlあたり1.8×106〜4.0×108に達する。その分布や培養実験から、メタン生成細菌は硫酸還元菌とメタンの生成や酸化を通じて密接な関連を持ち、嫌気条件下の堆積物中で有機物を無機化する過程で重要な役割を果たしていることが推測された。

審査要旨

 本論文は海洋におけるメタンの生成に関して微生物の面から研究を行ったもので、内容は三章よりなる。

 大気中のメタンは産業革命以前の0.7ppmから1.8ppmに増加しているが、そのほぼ80〜90%が細菌によって生成されていることが明らかになっている。そのほとんどは湖沼、湿地帯、水田、埋め立て地など陸上を起源としているが、海洋堆積物中のメタンは大気中のの3.5〜22倍に達すると推測され、数百万年の長い時間スケールの中では大気へのフラックスという観点からも、重要な意味を持っている。

 第一章においては、メタン生成細菌のバイオマス測定に関する検討を行った。大坪ら(1993)のメタン生成細菌に特有なエーテル型脂質を指標とするバイオマス測定法を海洋環境に適用するための条件検討を行った。原法からHF分解を除き、HPLC分析を逆相系にすることにより迅速化することが出来た。メタノールを基質として得られたメタン生成細菌の集積培養系(メタン生成細菌が90%以上)を用いて、気相中のメタン濃度、細菌数および脂質濃度の経時変化を調べた。細菌数と脂質量の間には(細菌数)=0.113×(脂質量,fg):r=0.995の関係が、またメタン量と脂質量の間には(メタン量,moles)=11.2×(脂質量,g):=0.997の密接な関連性が認められた。

 第二章では、海洋堆積物における脂質濃度の水平、鉛直分布について調べた。研究船淡青丸によって1994、96年の夏期および1996年の冬期に東京湾および南海トラフで堆積物試料を採取した。堆積物乾燥重量1gあたりの脂質濃度は、東京湾央部の砂状堆積物では冬期に0.174〜0.297g、夏期に0.029〜0.382gであり、脂質量の最大値はメタン濃度の最大値に対応していた。東京湾奥部のヘドロ状堆積物中の脂質量は冬期に0.723〜3.57g、夏期に0.821〜3.16gであった。夏期にメタン生成極大値は20〜25cm付近に認められ、環境中の脂質量との間の関連性は明瞭には認められなかった。南海トラフの水深3,800および2,600mの堆積物では0.016〜0.196gの脂質量が測定され、表層部で最大値、10〜30cmで最小値を示した。これまでにフロリダ湾で0.046g、ノースウエールズで0.303gが報告されているが、本研究で測定された東京湾堆積物中の脂質量はこれまでに内湾域で測定されたものに比べ全般的に高い値を示した。先の換算係数を用いると、堆積物1mlあたりメタン生成細菌の菌数は東京湾で3.3×106〜4.0×108細胞、南海トラフで1.8×106〜2.2×107細胞に相当することが明らかになった。夏期、冬期を通じて全ての海洋堆積物中で硫酸塩濃度と脂質量との間に負の相関が認められたが、酸化還元電位はこのような傾向を示さないことから、硫酸還元菌はメタン生成細菌の生育に必要な還元環境を供給するばかりでなく、硫酸塩の存在下で両者の間には密接な関係が成り立っていることが示唆された。

 第三章では、油壺湾において1996年3月から8月までの間、堆積物中のメタン濃度の季節変動を測定した結果について述べている。3月初旬には表層から20cmまでほぼ0.2Mで一定であったが、3月下旬には深度が増すにつれ増加し、30cm層で1.5M、4月下旬にも表層で1.1M、25cm層では5.8Mに達した。7月中旬に10cm層で0.5Mのピークを示したが、8月下旬には3月下旬と同様の傾向を示した。油壺湾堆積物を脱気した0.05%ポリペプトン海水に縣濁し、20℃にて培養を行った結果、メタンの生成は硫酸還元と同時に認められた。気相中のメタン濃度は実験開始から200時間以内で最大値100〜300mMを示し、その後減少した。硫酸塩濃度はこの間引き続いて減少していた。一方、硫酸還元を特異的に阻害するモリブデン酸ナトリウムを添加すると、メタンの生成はコンスタントに増加した。このことより、ポリペプトンを有機物源として加えた場合、メタン生成の基質は硫酸還元菌に依存せず、嫌気性の発酵細菌によって供給され、これを硫酸還元菌と競合して利用していることが示唆された。加えた有機炭素の中の約0.5%がメタンに変換されることが示され、さらに嫌気的なメタンの酸化は硫酸還元に共役して生じることが示唆された。以上の結果から海洋堆積物中には東京湾のような富栄養海域はもとより、南海トラフのような水深3,800mにも達する深海堆積物中に至るまで広くメタン生成細菌が分布していること、その細菌数は硫酸塩の存在下でも堆積物1mlあたり1.8×106〜4.0×108に達っし、メタン生成細菌は硫酸還元菌と密接な関連を持ち、嫌気条件下の堆積物中で有機物を無機化する過程で重要な役割を果たしていることを示唆し、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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