学位論文要旨



No 112710
著者(漢字) 楊,衛軍
著者(英字)
著者(カナ) ヤン,ウェイジュン
標題(和) クルマエビのサイナス腺に含まれるペプチドホルモンの構造と機能
標題(洋) Structures and Functions of Peptide Hormones in the Sinus Glands of the Kuruma Prawn,Penaeus Japonicus
報告番号 112710
報告番号 甲12710
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1773号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 助教授 鈴木,譲
内容要旨

 甲殻類の眼柄内に存在するX器官サイナス腺系は卵黄形成、脱皮、血糖レベル、体色などの調節をつかさどる重要な神経内分泌系である。これらの生理作用をもつ神経ペプチドホルモンの単離と構造決定は甲殻類における内分泌調節機構を解明していく上で最も基本になるものである。これらの神経ペプチドの中で、赤色色素凝集活性をもつ赤色色素凝集ホルモン(RPCH)と逆に色素拡散活性をもつ色素拡散ホルモン(PDH)がはじめて、しかも無脊椎動物のペプチドホルモンとしてはじめて、1970年代に単離、構造決定された。1989年以降、数種の甲殻類から血糖上昇ホルモン(CHH)、脱皮抑制ホルモン(MIH)と卵黄形成抑制ホルモン(VIH)が単離、構造決定された。その結果、RPCHが8アミノ酸残基、PDHが18アミノ酸残基と低分子であったのに対して、CHH、MIHおよびVIHはいずれも72-78アミノ酸残基と高分子であり、保存された6個のCys残基は分子内で3対のジスルフィド結合を形成し、お互いに類似したアミノ酸配列を有することから、CHH族ペプチドと呼ばれている。同定されるCHH族ペプチドの数が増すにつれて、アミノ酸配列の比較から、このCHH族ペプチドはさらに2つのタイプ、タイプIおよびIIに分類できることがわかってきた。これらのタイプ間の相違点はアミノ酸配列の相同性が低いだけでなく、タイプIIの分子において、N末端から12残基目にGlyが挿入されていることである。

 しかし、これらのホルモンに関する研究は養殖上最も重要なエビ類でまだなされていない。そこで、本研究では、クルマエビを材料として、まず、サイナス腺に含まれる神経ペプチドホルモンを精製、単離した。次に、エビ類でははじめて、血糖上昇活性をもつ6種類のCHH、脱皮抑制活性をもつ1種類のMIHの全一次構造を決定し、さらに、色素凝集活性をもつ1種類のRPCHと色素拡散活性をもつ2種類のPDHの全一次構造も決定した。また、これらのペプチドホルモンの生物活性を詳しく調べた結果をもとにして、構造と活性の関係を考察した。本研究を開始した時点では、MIHの構造について、ワタリガニ(Carcinus maenas)とアメリカンロブスター(Homarus americanus)の2種類のMIHの構造しか報告されておらず、しかも前者はタイプII、後者はタイプIに分類されたので、MIHが本来どちらのタイプに属するかを明確にするために、アメリカザリガニ(Pracambarus clarkii)を材料に用いて、サイナス腺からMIHを単離し、構造決定した。その結果、クルマエビと同様にタイプIIに属することが判明した。さらにクルマエビにおいて血糖上昇活性をもつ6種類のCHHと色素拡散活性をもつ2種類のPDHはすべて1個体で合成されていることをはじめて確認した。本研究の成果はエビ類の様々な生理現象の内分泌制御機構を分子レベルで解明していくための重要な基礎となるものである。

第1章:クルマエビのサイナス腺に含まれるCHH族ペプチドの抽出と精製

 クルマエビのサイナス腺に含まれることが予想されるCHH族ペプチドを単離することを目的に以下の実験を行った。なお、実験開始時には生物検定系をもちあわせなかったので、CHH族ペプチドの化学的な特徴である分子量が8000-10000であり、分子内に3対のジスルフィド結合を有するという基準を検索の手段とし、これを満足する化合物を選択し、アミノ酸配列分析によってCHH族ペプチドであるという最終確認を行った。まず、クルマエビの眼柄から実体顕微鏡下でサイナス腺を摘出し、30%アセトニトリルを含む0.9%食塩水中でホモジナイズし、2回抽出した。次に、この抽出液を直接逆相HPLCにかけ、ペプチドをピークごとに分取した。分取したすべてのピークについて、レーザーイオン化時間飛行型質量分析機(TOF・MS)で質量分析を行った。その結果、7つの主要なピークが8300-9200の分子量を示した。溶出順で4番目のピーク以外の6つのペプチドを還元カルボキサミドメチル化した後、逆相HPLCで精製し、TOF・MS分析により分子量変化を調べた。その結果、これらのペプチドはこの還元反応によって、いずれも分子量が312〜362増加したことから、それぞれの分子内に3対のジスルフィド結合が存在していることが判明した。さらに、これらの7つのペプチドのN末端アミノ酸配列分析を行ったところ、40-55残基のアミノ酸配列を決定することができた。これら7つのペプチドのアミノ酸配列はお互いに類似しており、他の甲殻類の既知CHH族ペプチドの配列とも類似し、特に、6つのCys残基は保存されていた。これらの結果から、この7つのペプチドはクルマエビのCHH族ペプチドであると考えられたので、Pej・SGP-I〜VIIと名付けた。さらに、これら7つのペプチドのサイナス腺に含まれる量が多いことを利用して逆相HPLCにより、これらのペプチドがすべて1個体で合成されることを確認した。

第2章:クルマエビの6つの血糖上昇ホルモンのアミノ酸配列と生物活性

 逆相HPLCにより精製した7つのCHH族ペプチドのうち、6つのペプチド(Pej-SGP-I,II,III,V,VIとVII)はin vitroですべて血糖上昇活性を示したことから、クルマエビの血糖上昇ホルモン(Pej-CHH)と考えられた。これらの6つのペプチドのアミノ酸配列を決定した結果、すべてN末端は修飾されておらず、C末端はアミド化され、72アミノ酸残基からなり、お互いに高い相同性を有することがわかった。アミノ酸配列の特徴から、この6つのペプチドはすべてCHH族のタイプIに属することが判明した。これらの6つのペプチド間のアミノ酸配列の相同性から、さらに、3つのグループ、Pej-SGP-I・II、Pej-SGP-III、Pej-SGP-V・VI・VIIに分けることができた。これらのペプチドの血糖上昇活性を測定したところ、活性の強さは異なっており、その強さの順序はPej・SGP-V・VI・VII>III・I>IIであった。さらに、Pej・SGP-IIIの3対のジスルフィド結合の配置も決定した。

第3章:クルマエビとアメリカザリガニの脱皮抑制ホルモンのアミノ酸配列と生物活性

 Pej-SGP-IVはクルマエビのサイナス腺から精製した7つのCHH族ペプチドの中で唯一血糖上昇活性を示さなかったが、培養したアメリカザリガニのY器官によるエクジステロイドの合成と分泌を制御するinvitroでの検定系において、最も強い抑制活性を示したことから、クルマエビの脱皮抑制ホルモン(Pej-MIH)と考えられた。構造解析の結果、このペプチドは両末端は修飾されておらず、77アミノ酸残基からなる一次構造を有することがわかった。アメリカザリガニのY器官を用いたこの系において、サイナス腺1個あたりのこのペプチドの抑制活性は粗抽出物のサイナス腺1個あたりの抑制活性とほぼ同等であったことから、このペプチドがサイナス腺中で脱皮抑制活性をもつ主要なペプチドと考えられた。一方、アメリカザリガニのサイナス腺から脱皮抑制活性を示すペプチド(Prc-MIH)を単離し、全構造解析を決定した。このペプチドは75アミノ酸残基からなり、N末端は修飾されていなかったが、C末端はアミド化されていた。これら2つのMIHはアミノ酸配列がお互いに類似しており、ワタリガニのMIHと高い相同性を示した。この2つのMIHは12残基目にGlyが挿入されていることから、いずれもCHH族ペプチドのタイプIIに属することがわかった。

第4章:クルマエビの赤色色素凝集ホルモンと色素拡散ホルモンのアミノ酸配列と生物活性

 クルマエビのサイナス腺から色素凝集活性をもつ2つのフラクションが得られ、そのうちの主要な1つを単離し、そのアミノ酸配列を決定した。このペプチドは両末端が修飾された8残基のペプチドであり、既知のRPCHと同じ構造であることがわかった。残りの1つは量が少なかったため、構造決定までには至らなかった。このRPCHはクルマエビの4種類の色素胞に対して、すべて凝集させる活性を有したが、その程度は色素胞によって異なることがわかった。すなわち、色素胞の感受性は赤>黄>黒>白の順であった。一方、2つ色素拡散活性をもつペプチドを単離し、構造を決定した。これらの2つペプチドホルモンはアミド化されたC末端をもつ18アミノ酸残基のペプチドであり、既知のPDHと高いアミノ酸配列の相同性を示したことから、クルマエビのPDH(PDH-Iと-II)であることがわかった。この2つのPDHは類似の色素拡散活性をもち、クルマエビの4種類の色素胞を程度の差はあるもののすべて拡散させることもわかった。この2つのPDHに対して、色素胞の感受性は赤>黄>黒>白の順であった。さらに、一個体のサイナス腺の抽出物を逆相HPLCで分離し、PDH-Iと-IIに相当する画分を用いて色素拡散活性を調べたところ、いずれの画分も活性を示したことからこれらの2つのPDHは一個体で合成されていることが確認された。

 以上、本研究により、クルマエビのサイナス腺に含まれる主要な、しかも生理的に重要な役割をもつペプチドホルモンを単離、構造決定し、その生物活性の特徴を明らかにすることができた。これらの成果は、今後発展していくと思われる甲殻類の分子内分泌学に多くの情報を与えるだけでなく、養殖という応用分野へ基礎的データを提供する点で貢献できるものと考えられる。

審査要旨

 甲殻類の眼柄内に存在するX器官サイナス腺系では多数のペプチドホルモンが合成され、重要な生理機能を調節していると考えられている。近年、ロブスター、カニ、ザリガニなどにおいてX器官サイナス腺系で産生される主要なペプチドホルモンである血糖上昇ホルモン(CHH)、脱皮抑制ホルモン(MIH)、卵黄形成抑制ホルモン(VIH)が化学的に同定された結果、アミノ酸配列に相同性が認められたことから、これらのホルモンはひとつの族(CHH族)を形成していることがわかった。しかし、エビ類ではCHH族ペプチドについての情報はこれまでに全くない。甲殻類ではこのほかに、体色を調節する赤色色素凝集ホルモン(RPCH)と色素拡散ホルモン(PDH)が知られている。本論文は、養殖上重要なクルマエビを用いてこれらのホルモンを単離し、構造決定するとともに、生物活性を調べ、エビ類の眼柄ホルモンの特徴を明らかにしたものである。本研究において既知のデータおよび申請者のデータを合わせてCHH族ペプチドはさらに2つのタイプ(タイプI、II)に分類されることをはじめて提案した。本論文は4章から構成されている。

 第1章においては、クルマエビのサイナス腺からCHH族ペプチドを抽出し、精製したことを述べている。精製は、生物活性ではなく、この族のペプチドが3対のジスルフィド結合を持つという化学的特徴を利用して行われた。その結果、合計7つのCHH族ペプチドが主成分として存在していることを示した。このように、多数のCHH族ペプチドが1つの種に含まれている例は知られておらず、エビ類の特徴といえる。さらに、これらのペプチドが1個体で合成されていることもはじめて示した。

 第2章では、生物活性を調べることによって7つのCHH族ペプチドのうち6つが血糖上昇活性を有することを示し、さらに全アミノ酸配列を決定した。この結果、これらはいずれも72アミノ酸残基から成り、N末端は修飾されていないが、C末端はアミド化されており、いずれもタイプIに属することがわかった。これらの結果を基にして、CHH活性とアミノ酸配列の間の関係を考察した。

 第3章では、残りの1つのCHH族ペプチドが培養したY器官からの脱皮ホルモンの分泌を強く抑制することを示し、その77アミノ酸残基から成る全配列を決定した。このホルモンは生物活性から脱皮抑制ホルモンであること、さらにその配列の特徴からタイプIIに属することがわかった。また、同様の方法でアメリカザリガニの脱皮抑制ホルモンを精製し、構造を決定した。この両者のアミノ酸配列は類似しており、先の血糖上昇活性を示した6つのペプチド(タイプI)との相同性はずっと低いことがわかった。

 第4章では、体色を調節する1つのRPCHと2つのPDHを単離して構造を決定し、色素胞に対する効果を調べた。クルマエビのRPCHの構造はこれまで数種の甲殻類で同定されている構造と全く同一であり、両末端がブロックされた8アミノ酸残基から成るペプチドであった。このペプチドの4つの色素胞(赤、黄、黒、白)に対する反応性を調べたところ、いずれの色素胞の色素顆粒も凝集するが、凝集速度は赤、黄、黒、白の順に遅くなることがわかった。一方、2つのPDHはいずれも18アミノ酸残基から成り、C末端はアミド化されていた。両者は3残基のみ異なっていたが、全体の配列は既知のPDHと高い相同性を示した。これらのペプチドは4つの色素胞に対してほぼ同等の色素拡散活性を示したが、拡散速度は赤、黄、黒、白の順に遅くなった。また、この2つのPDHは1個体で合成されていることも示した。

 以上のように、本論文はクルマエビのサイナス腺に含まれる主要なペプチドホルモンをはじめて単離し、構造を決定するとともに、それらの生物活性の特徴を明らかにしたもので、甲殻類の神経内分泌学分野の発展に大きく貢献したと判断される。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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