内容要旨 | | 開放型湾である相模湾沿岸の定置網漁場は,主に回遊性浮魚を漁獲対象にしている。定置網漁業の漁獲は人為的な要因に影響を受けず,資源水準と来遊環境の影響を受け,10年から日単位までのスケールで変動していると考えられる。このような特徴を持つ定置網漁場における漁海況の予測は魚群と環境要因の結びつきから予測することになる。正確な予測のためには用いる変数の種類とそのデータの質が最も重要であるが,現実的には予測に使えるデータが十分に確保されていない時が多い。本研究では,相模湾の定置網漁場における漁獲量を予測対象にし,階層型ニューラルネットワークを用いて限られた漁海況データから精度の高い漁況予測を実現させるための手法の確立を目的にした。 I.相模湾の定置網における漁況の特徴 本研究における漁獲データは,神奈川水産総合研究所相模湾試験場に蓄積されている相模湾定置網の日別漁獲量データベースを使用した。海況データは,同研究所で月1回観測した湾内水温と定置網漁場の毎日の水温を用いた。さらに,一都三県漁海況速報から大島,三崎,荒崎,平塚,伊東の5つの定点における毎日の水温と,海上保安庁水路部が月2回発行する海洋速報から黒潮流路パターンおよび石廊崎と野島崎からの黒潮流軸の離岸距離を読みとった値を用いた。1970〜1992年の間の上述したデータを使用した。 相模湾西部の西湘海域の定置網における1970年代から約20年間に亘る優占漁獲魚種であったウマヅラハギは90年代に入って漁獲量が減少し,それに替わってマアジの漁獲量が増え優占漁獲魚種の交替が起きた。一方,湾の東部に位置する諸磯定置網漁場では常にマイワシが優占漁獲対象魚種であり,相模湾に来遊するマアジとマイワシが主に漁獲される漁場はそれぞれ湾の西部と東部に分かれた。西部の米神漁場における漁獲量は湾沖の黒潮流路変動と密接な関わりを持っており,漁獲量は流軸の変動が激しくなると減少し,流軸の変動が小さいときに増大した。また,相模湾に来遊するマアジの湾内移動パターンは年毎に異なったが,その移動傾向は黒潮流路パターンと,黒潮の影響を受けている湾内の水温の変化と強い相関を示した。 II.中期の漁況変動の予測 米神定置網漁場におけるマアジの主漁期である3〜6月の月別のマアジ漁獲量を過去の米神を含む近辺の定置網漁況と湾内の水温からニューラルネットワークを用いて次のような3つのケースに分けて予測テストを行った。ケース1は予測する月より一月前の海況を入力変数にするネットワーク,ケース2は前年の秋の漁海況と一月前の海況と漁況を入力変数にするネットワーク,そしてケース3は前年同月(1年前)の漁海況と一月前の海況を入力変数にするネットワークである。予測テストの結果,予測する月の前の月の漁海況情報を用いることにより,米神定置網漁場のマアジ漁獲量を予測することが可能であることが示された。漁期後半の5,6月の予測ではケース2でも良い結果が得られ,5,6月に漁獲されるマアジは前年秋に漁獲されるものと関連があると考えられた。一方,漁期始めの3月の場合,漁獲量の低いときは予測できたが,好漁時を予測できなかった。ニューラルネットワークと線形回帰(単回帰・重回帰)を比較した結果,前者の方が予測精度が高かった。ニューラルネットは重回帰を包括した,適用の範囲が広く,かつ容易な予測手法であると考えられた。ネットワークのシナプス荷重を調べたところ,米神定置網漁場のマアジ漁獲量を予測する上で,近隣の他の漁場のマアジ漁獲量は,漁期が進むといくらか役立つが,全体にはあまり有効な情報にならないことが示された。また,3,5,6月の漁獲量は,それぞれの前月の水温が平年値より湾の西側で高く東側で低くなるほど多くなる関係にあった。 次に,西湘海域の定置網漁場における複数魚種の3ヵ月平均漁獲量を過去の定置網漁況と相模湾の水温そして黒潮流路から予測することを試みた。西湘地域の定置網漁場の多獲性魚種であるマアジ,マイワシ,マサバの各魚種の漁獲量と総漁獲量を予測対象とした。予測テストを行った結果,出力ユニットの数よりも入力データの組み方によって予測精度の違うことが明らかになった。これは生の時系列データをそのまま入力データとして用いるよりも,層別化して一貫性あるサブサンプルに整理して使用することによってより良い予測結果が得られることを示している。シナプス荷重の分析では,各魚種・時期毎に入力項目の寄与度の大きさが異なっていた。すなわち,時期によって漁獲量に及ぼす入力データの影響度が違うので,同時期のデータだけのネットワークを構築することによってよりよい予測結果が求められた。ニューラルネットワークを用いることにより,黒潮流路と相漠湾内の水温,そして過去の漁獲量データから相模湾の西湘海域の定置網漁場における複数魚種の漁獲量の予測可能性が示された。特に,マアジ漁獲量は非常に精度よく予測ができ,黒潮及び黒潮に影響を受ける湾内水温などがその漁獲量予測の重要な根拠になることが定量的に明らかになった。 以上のことから漁獲対象が不特定である定置網漁業における漁獲量予測を行う時には,それぞれの魚種と時期によって漁獲量に影響を及ぼす環境要因の寄与度が異なるので,各魚種・時期毎に個別のネットワークを構築することにより最もよい予測結果が得られると考えられる。 III.短期の漁況変動の予測 相模湾の東西に位置している代表的な大型定置網(諸磯と米神)における10日平均のマイワシとマアジ漁獲量変動の予測を行った。短期の漁獲量変動は資源量の変動よりはその時の環境変動に影響を及ぼされると考えられる。そこで,漁獲量変動の予測を行う前に,10日前の海況データからその時点の海況をニューラルネットワークを用いて予測した。その結果,ある時点の10日平均の海況変動は10日前の海況データから予測できることが明らかになった。 一方,漁獲量予測では,予測する時の海況と漁況を当てはめるケース1,過去の漁獲量データだけで予測するケース2,予測する時の海況と過去の漁獲量から予測するケース3に分けて行った。ケース1で構築されたネットワークに未学習の1992年の海況データを用いてテストした結果,全体の誤差が非常に大きかったが,米神のマイワシ漁獲量はその変動パターンを表していた。ケース2のテスト結果でも誤差が大きかったが,予測精度はケース1より少し向上した。ケース3のテスト結果もケース1よりは良いが,ケース2のテスト結果とあまり変わらなかった。何れのケースも実用にはまだ無理がある。 過去の漁獲量だけでは予測誤差が大きく,短期変動に重要な別の環境要因を組み込む必要がある。その環境要因としては定置網漁場近くの微小な環境要因を考えなければならないと考えられる。沿岸の定置網におけるその微小環境要因としては水温以外にも淡水の流入による塩分の変化,酸素濃度,懸濁物質,餌生物の分布,捕食生物などの要因が考えられる。本研究では環境データとして主に湾周辺の水温と黒潮離岸距離を使用し予測したが,このようなデータでは定置網近辺の微小環境を表すことができなかったため,漁獲量変動の予測も良い結果が得られなかったものと考えられる。従って,より良い短期予測を行うためには,沿岸に設置されている定置網における短期の漁獲量に影響を及ぼす微小環境要因のデータを加える必要があると考えられる。 IV.最適予測手法の検討 今回使ったニューラルネットワークシミュレーターでは学習データの最大値を1,最小値を0に基準化して入力層に入力する。また,シグモイド関数を出力関数として使用しており,入力信号の値が大きすぎても小さすぎても最大値あるいは最小値に収斂する。すなわち,出力関数としてシグモイド関数を使用する限り,未学習の目的変数の値が学習教師値データの最大・最小値より遥かに大きいか小さい場合にはその未学習値を予測することができない。米神のマアジ漁獲量の中期予測の時の1991年3月の予測のはずれがその例である。従って,できるだけ極端な場合を含むような学習教師値データセットを作ることによって未知のデータに対する誤差を小さくすることができる。このことは,学習データの質が予測値に強い影響を及ぼすことを示す。 多層ネットワークの構築の際,入力層と出力層の2つの層のユニットの数は問題に応じて決められるが,中間層の数とその層におけるユニットの数を決める事前の客観的方法は確立されていない。米神のマアジ予測時の中間層ユニットの数に対する予測誤差を検討した結果,9個の時に誤差が最小であり,それより少なくても多くても誤差は大きくなった。また,中間層ユニットの数を増やすと学習時の出力値と教師値の誤差は減る。しかし,中間層が多すぎるネットワークは学習したパターンに対しては正しく認識しても,未知のデータに対しては誤差が大きくなり,汎化能力が低いので,予測モデルとしては使えなくなる。 このようなニューラルネットワークの過学習問題は学習回数とも密接な関わりを持っており,予測を行うときの最適な学習回数に注意する必要がある。米神定置網漁場におけるマアジ漁獲量の予測時の学習回数に対する予測値の誤差を検討した結果,はじめは学習回数が多くなると誤差が小さくなり,1700回位で最小になった。1700回以上学習させると逆に誤差が大きくなった。しかし,学習の時のネットワークの学習誤差は学習回数を重ねるほど徐々に小さくなった。このように学習データに対する当てはめ値はよいが,予測値の誤差が大きくなる原因は過学習にある。従って,学習回数が少なくても,多すぎても予測誤差は大きくなるので,実用の時はこの最適学習回数をうまく決めることによってより正確な予測値が求められると考えられた。 ネットワークにおける出力項目に影響を及ぼす重要な入力項目はシナプス荷重の分析によって知ることができる。本論文ではそれぞれの出力ユニット(o)に対する入力項目(i)の寄与度(Cio)を, のように求めた。ただし,ここで,nは中間ユニットの数を,Wihは入力ユニットiと中間ユニットhのシナプス荷重を,Whoは中間ユニットhと出力ユニットoのシナプス荷重を示す。上式で求められた寄与度を感度解析した結果,寄与度が正で大きい入力項目と負で絶対値が大きい項目はそれぞれ出力値を大きくする作用と小さくする作用を示し,寄与度は出力値と正の相関を示した。また,重回帰分析による標準偏回帰係数と比較した結果,絶対値は異なるが目的変数に対する説明変数の影響度は類似であり,その係数と同等の意味を持っている。従って,この寄与度Cioは数学的な根拠を挙げることは難しいが,入力ユニットと出力ユニットの極性(興奮性あるいは抑制性)を含めた結合の強さを示す指標となり,それにより予測の根拠を定量的に知ることができる。 |