学位論文要旨



No 112714
著者(漢字) アハメド,カウザー
著者(英字)
著者(カナ) アハメド,カウザー
標題(和) 大槌湾における栄養塩類の補給と基礎生産に及ぼす風と沖合い環境の影響
標題(洋) Impact of wind and offshore oceanic environment on nutrient supply and primary production in Otuchi Bay-an observational and numerical modeling approach
報告番号 112714
報告番号 甲12714
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1777号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,隆成
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 助教授 青木,一郎
 東京大学 助教授 中田,英昭
 東京大学 助教授 古谷,研
内容要旨

 大槌湾は三陸海岸の中央部に位置し、東西8km,南北2kmの長方形をしており北東部を太平洋に開いている。その深さは湾奥から湾口に向かって徐々に増し、湾口で約80mに達する。湾奥には流量がおよそ3-10m3s-1の大槌川、鵜住居川、小槌川が流入している。春季は周囲の山からの融雪水と降雨、夏季には降雨による淡水が流入する。一方、東北地方東岸に沿って沿岸境界流として津軽暖流が南下している。三陸海岸は津軽暖流、親潮、黒潮系水が共存し時間的空間的にその環境が幅広く変化する。津軽暖水は夏季と秋季に卓越し冬季、春季にはこれに代わって親潮系水が卓越する。この親潮系水は夏季と秋季には表層で弱くなっている。親潮系水は栄養塩に富み、多くの温度、密度フロントが存在するのでこの海域は漁業にとってもっとも重要な海域のひとつとなっている。したがって、この海域の低次生産の季節変動、経年変動の実態を評価し予測することが求められている。

 1973年に東京大学海洋研究所大槌臨海研究センターが設立され、この海域で多くの研究者によって生物生産や物理環境等に関する様々な研究が続けられてきた。1989年から1991年にかけては月に1回以上の観測が続けられ、栄養塩とクロロフィルaの動態が研究された。1989、1990年には、2月から5月にかけて1回から数回のクロロフィルaの極大が観測され、この極大は大槌湾の春季ブルームの形成と符合していると考えられた。また、別の研究によれば風に依存した春季ブルームについて観測データにもとづいて行われた。しかし、春季ブルームの終焉に関する研究、たとえば植物プランクトンの沈降や捕食による損失、湾外への流出といった研究はまだ行われていない。また、夏季の栄養塩とクロロフィルaの経日変動など短期的な動態に関する研究もまだ行われていない。

 そこで本研究では、現場観測と数値シミュレーションによって研究を進め、(1)大槌湾における栄養塩と植物プランクトンの動態、(2)大槌湾における夏季と冬春季における栄養塩と植物プランクトンの動態の比較、(3)底生生物の季節変化に対する植物プランクトンの生産の季節変化の影響、について明らかにしようとした。

観測による結果

 観測は、1994年6月21日から30日、1995年2月14日から3月10日、1995年6月24日から30日の3期間において1日1回午前9時前後に行った。サンプルは湾内の奥部中央部および湾口寄りの3点でバンドン採水器を用いて採水し、栄養塩とクロロフィルaを測定した。水温と塩分の鉛直分布はメモリー内蔵式STDを用いて測定した。湾外の観測は淡青丸によって、湾口から5マイルずつはなれた4地点で行った。ロゼット各層採水器で採水し、同時にCTDで水温塩分の鉛直構造を測定した。クロロフィルaはワットマンGF/Fフィルター上で濾過したものを蛍光法で測定し、蛍光光度計は純粋なクロロフィルaで補正した。無機栄養塩(硝酸、亜硝酸、リン酸、アンモニア)はTechnicon Auto Analyser IIによって自動測定した。また、風向風速、日照、雨量、水温塩分の鉛直分布は10分おきに大槌臨海研究センターの気象海象システムによって採取されたものを使用した。得られた結果は以下のとおりである。

 1994年夏:1994年夏には強い西風が吹いた。その結果、大槌湾内では湾外から流入したとみられる低温高塩分で栄養塩に富んだの水が底層に観測された。このため、植物プランクトン色素濃度は底層で増加したが、この水塊は成層が大きかったため上層には輸送されていない。このことから、海底直上でのクロロフィル極大は湾外から湾内底層への栄養塩の輸送、すなわち湾外水の瞬時的な湾内への侵入によって引き起こされたと考えられた。また、海底直上で増加した植物プランクトンが死亡し沈降してできたデトリタスが底生生物の生産を高めているものと考えられた。

 1995年夏:1995年夏季は風向が90-130度と250-300度が交互に卓越し風速は12mS-1程度であった。西風が9-12時間にわたってしばしば卓越して吹いたため表層水が湾外に流出しそれを補償する底層水が観測された。その後風向きが東よりになり流向も反対となった。観測期間中、この現象が交互して起こり、栄養塩に富んだ水は上層には湧昇せず大槌湾の湾口100m付近に留まっていた。湾内では硝酸濃度は表層2-3mは5Mであったもののそれより下層では1M以下であり、表層2-3mで5gl-1であった以外はブルームは形成されなかった。湾外に栄養塩に富んだ水塊が存在するばかりでなく、栄養塩に富んだ水塊が湧昇するためには強い西風が吹くことが必要である。

 1995年冬:1995年冬季は観測期間中、すなわち2月3月の全期間、強い西風が卓越し、吹送流によって表層水を湾外へ押し出し湾奥では湧昇がそれを補償する形で見られた。風速はおよそ11ms-1であった。2月は全期間にわたって全ての観測層で高い硝酸値が観測されたが、ブルーミングは起こらなかった。これは植物プランクトンは増殖したものの強い風による混合によってブルームに至らなかったからと考えられる。その後、3月初旬、1日だけ風が弱まり、その日はブルームが観測された。クロロフィルの最大値は3月5日に亜表層で観測されたが、その日には日照の最大値も観測された。ブルーミングが起こった3日後、強風によって新しい水塊が湾外から流入したため、クロロフィル濃度は減少した。

 以上、観測結果の解析からは、(1)栄養塩の鉛直分布は夏季、冬季、春季とも風によって規定され、(2)1994年と1995年の夏季の風の吹き方の違いは植物プランクトンと栄養塩に対する影響を異にすること、また、(3)湾外からの栄養塩の供給は風の応力に応答しているため、クロロフィルの夏季海底近傍の極大ならびに冬季、春季の亜表層極大の形成に、風が重要な寄与をしていること、が分かった。

数値モデルによる解析

 観測で明らかにされた栄養塩と植物プランクトン現存量の動態を数値モデルで再現し、輸送や沈降の役割について定量化し解析した。モデルは栄養塩(硝酸態窒素、アンモニア態窒素)、植物プランクトン、動物プランクトン、POM(懸濁態有機物)、DOM(溶存態有機物)を独立変数とした窒素循環の生態系モデルと、海洋混合層モデルを含む3次元物理モデルからなっている。物理モデルでは潮位を湾口で与え、これに観測された風応力と海面水温を与え3次元の流れと鉛直拡散係数を計算する。物理モデルで得られた流れと鉛直拡散係数を用いて生態系モデルの各独立変数の空間分布を時々刻々計算するわけである。

 観測日と同じ外力条件でモデルを計算したところ、観測同様に春季は亜表層に、夏季には底層近傍にクロロフィル極大を再現した。クロロフィルと一次生産は、まず光条件によって規定され、次に表層水の湾外への流出に伴う下層の湾外からの補償流が湧昇することによる鉛直移流によって規定される。モデルでは1994年6月27-30日と1995年3月4-6日にブルームが起こったが、その値は観測値より小さかった。光合成と純生産との間には大きな相関が見られた。1994年夏季には海底近傍にクロロフィル極大が形成された後、強風が表層水を湾外へ押し出し、この海底近傍のクロロフィル極大を含んだ水が湾奥に底に沿って侵入した。一方、1995年冬季にはブルームは表層近くに形成されたので、季節風によって湾外へ輸送された。

 夏季の総一次生産は1.0gCm-2d-1であり、冬季と春季は1.15gCm-2d-1である。冬季、春季には植物プランクトンのブルームが亜表層で形成されるので0.27gCm-2d-1(一次生産の約25%)が湾外へ輸送される。冬季、春季の一次生産は夏季に比べると大きいが、POM(粒子状有機物)の海底へのフラックスは冬季、春季には0.13gCm-2d-1で夏季0.21gCm-2d-1に比べて小さい。

 以上、数値実験の結果からは、以下のことが解明された。(1)一次生産は第1に光条件によって規定され、第2に鉛直移流によって規定される。(2)夏季には植物プランクトンは湾内へ流入するが、冬季は湾外へ流出する。したがって、POCの底へ堆積が底生生物の生産の増大に寄与していると考えられる。(3)植物プランクトンのブルームが亜表層に形成された後、強風が一両日吹くとクロロフィルの亜表層極大は湾外に輸送され消滅する。

 以上、2年にわたって大槌湾で夏季と冬春季に連続観測を行い、また、観測日と同じ条件で物理-生態系数値モデルで計算を行った結果、短周期の風の変動が湾内の一次生産の構造を規定していること、特に夏季は海底直上のクロロフィル極大が湾内の底生生物の生産に寄与していること、が明らかとなった。

審査要旨

 世界各国の沿岸海域は、大都市近郊においては富栄養化に伴う貧酸素水塊や赤潮による漁業被害が大きな問題であり、地域の漁村においては従来の遠洋・近海の漁船漁業から沿岸・内湾域での増養殖漁業に重点が移ってきている。これに伴い、病害や漁場の老化現象、気候・海洋環境の段階的な変化による大規模な漁業被害等の発生等を見るに至っている。したがって、海洋における漁業生産を将来にわたって持続的に発展させるためには、生物生産を支える生態系とその環境の構造及び変動機構について理解を深め、予測できるようになる必要がある。

 本研究は、このような国内外の社会的要請を背景にして、わが国でも屈指の養殖等の水産基地である三陸のリアス式内湾の大槌湾を対象にして行った、低次生産環境に関する研究であり、植物プランクトン生産の生態学的機構を明らかにしようとしたものである。このため、ブルーミング期を含む日単位の観測と生態系数値シミレーションモデルによる解析を組合わせ、気象海象要因の役割とそれらの季節および年による違いの影響を定量的に解明した。

 得られた研究成果の大要は以下の通りである。

1.現場観測による研究成果

 観測は三陸海岸の中央部に位置し、平均水深約40m、幅2km、奥行約8kmの、東に開いた小内湾である大槌湾において、1994年6月21日〜30日、1995年2月14日〜3月10日、1995年6月24〜30日の3期間において、毎日午前9時〜12時に3定点で採水し、鉛直分布の測定が行われた。主な測定項目は、水温、塩分、栄養塩(硝酸、亜硝酸、リン酸、アンモニア)である。また、風速、日照量、雨量等はセンターの気象・海象自動計測システムの資料が用いられた。

 観測結果の解析からは、(1)湾内の栄養塩類の濃度は、夏季には河口付近を除き全層枯渇状態にあるので、西風または南寄りの風による湾外から湾内底層部への栄養塩の流入によって、底層にクロロフィル極大が形成されること、(2)1995年の6月は、前年と異なってこれらの成分が小さかったために、栄養塩類の湾内流入とクロロフィル濃度の増大が見られず、年々の風に依存していること、(3)冬春季は栄養塩類は豊富に存在するが、湾外では混合層が深いためにクロロフィル濃度は低く、水深の浅い湾内も強い西風による湾外流出により、クロロフィル濃度が抑制されるために、2、3日以上風が弱まったときのみ、春季ブルーミングが発生することが解った

2.数値シミレーションモデル実験の成果

 観測された栄養塩とプランクトン現存量の動態を数値モデルで再現し、輸送や沈降の役割について解析した。モデルは硝酸態およびアンモニア態窒素、動植物プランクトン、懸濁態および溶存態有機物を変数とした窒素循環モデルと、観測された風の摩擦力等で駆動される3次元の流動モデルからなる。これらを合わせ用いて、生態系の各変数の空間分布の日々の変化が求められた。

 観測と同じ外力条件でのモデル計算では、観測と同様に、春季は亜表層に、夏季には底層にクロロフィル極大が再現された。また、夏季のモデルでは、西風による湾外の富栄養水の湧昇・侵入によって、底層にクロロフィル極大が形成され、この水は底に沿って湾奥に侵入した。一方、冬春季のモデルではブルームは表層を中心に形成されたので、その後の西風によって湾外に流出した。その結果、夏季と冬春季の基礎生産は同程度でも、夏季には植物プランクトンのブルームが底層に形成されて湾外に輸送されにくく、粒子状有機物の堆積は冬春季に比べて大きくなり、湾内の底生生物の生産に寄与していることが示唆された。

 これらの成果は、三陸沿岸域の漁場環境の生態学的基礎研究の面と応用的研究の両面において大きな成果を収めたものと云える。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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