学位論文要旨



No 112715
著者(漢字) 原,直行
著者(英字)
著者(カナ) ハラ,ナオユキ
標題(和) 近代日本における地主・小作人関係の展開 : 東北水稲単作地帯を中心に
標題(洋)
報告番号 112715
報告番号 甲12715
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1778号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,学
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 助教授 小田切,徳美
内容要旨

 これまで地主・小作人関係の分析は戦前日本資本主義の農業問題の解明に必要不可欠なものとして位置付けられ、地主制史研究や小作争議研究として行われてきたが、近年、大正中期以降昂揚をみせた近畿地方の小作争議が昭和期に入って終息していく原因を解明する研究が行われ、集団的小作争議・小作調停事件による集団的小作契約の締結(小作料の減額改訂と減免条件の客観化)が小作争議の終息の原因であったことが解明された。その一方で、東北地方ではむしろ昭和恐慌期以降になって小作争議・小作調停事件が本格化してくる。だが、その実態は十分に明らかにされているとはいえない。この小作争議の後進地帯であった東北地方、特に東北水稲単作地帯における小作争議・小作調停事件の実態、また、それによる小作制度の変化、さらに、昭和期だけでなく、明治期以降の小作制度の実態はどのようなものであったのだろうか。本論文では以上のような研究史の動向に注目し、東北水稲単作地帯である秋田県平鹿郡を対象地域として、明治、大正、昭和の各時期の小作制度の実態を明らかにすることを通して、地主・小作人関係の展開を明らかにすることを課題とする。

 本論文での具体的な分析は次の順序で行われる。第2章では、明治期から大正期への小作制度の変化が具体的にどのように行われたのかを、平鹿郡館合村の500町歩地主土田家が明治後期に行った小作料改訂の実態を主にみていくことによって明らかにする。第3章では、昭和期になって東北地方で多発する小作料関係の小作争議・小作調停事件の実態を明らかにするために、『小作調停書類』を用いて平鹿郡で起きた小作料関係型小作調停事件の分析を行う。第4章では、小作争議・小作調停事件などにより大正期から変化した昭和期の小作制度の実態を明らかにする。また、各時期の小作制度の変化と小作契約(継続)期間との関係にも注目し、小作契約(継続)期間の変遷の実態をも明らかにする。

 第2章から第4章までの分析の結果は以下のようである。

 500町歩地主土田家の小作地を中心にみてきた結果、契約小作料が一度決定すると容易に小作料を引き上げることができないという慣習があり、また、小作契約(継続)期間についても基本的には10年以上継続しているというように、小作契約は長期安定的であった。だが、明治期以降の小作制度の実態をみていくと、小作制度は各時期で変化し、そのことはその時期の地主・小作人関係を反映していた。

 明治前期の小作制度は、契約小作料率が75〜80%と非常に高いものであり、小作料を毎年全額支払うことは当時の低く不安定な生産力段階では到底不可能であったため、頻繁に減免を伴う小作制度であった。そのような小作制度がとられたのは、地主と小作人とで生産におけるリスクを分担するためと、農外労働市場の展開が極めて未発達で、かつ低く不安定な生産力段階にあって、小作人から最低生活水準以上の全てを小作料として収取するためであった。

 明治30年代になると、地主の農事改良への取り組みや国・県の政策的な支援により生産力は増大し始めるが、小作料の不変性という慣習により地主は生産力増大分を引き上げることができず、代わりに契約小作料を完納させる方針をとるようになった。すなわち、明治前期の非常に高い契約小作料率の下で頻繁に減免を伴った小作制度から、少々の不作でも小作料が完納できる水準にまで契約小作料率が低下し、小作料納入率が非常に高くなる小作制度へと移行したのである。それは同時に、収入全体の大部分を小作料収入に依存し、土地取得のための投資を盛んに行っていた当時の地主の収入安定化にもつながった。そして、小作料の引き上げは明治30年代末に地租増徴を理由とする小作料の一斉改訂によってようやく実現した。この改訂は、耕地整理を行う小作地に対して地力平準化を想定して契約小作料反当1.2石という水準を作るなどの特徴をもつものであったが、改訂後の契約小作料率は60%程度であり、明治30年代の小作制度を踏襲するものであった。

 さらに大正期、特に大正中期以降、明治農法の普及・定着により生産力の一層の増大、安定化が実現し、小作人にとって契約小作料を完納した上に貸米の返済による地主からの自立化、さらには小作取り分の増加により販売可能米が増大して小商品生産者化をもたらしていった。だが一方で、そのことは地主にとって収入の安定化、小作地経営の安定化をもたらした。結果として、この時期の小作制度は最も有効に機能し、その下での地主・小作人関係も安定していたといえる。

 しかし、このような地主・小作人関係は昭和期に入ると変化が起きてきた。この時期、農業生産力は停滞下にあって、金融恐慌以降、米価の低落、米価と物価の乖離が顕著になり、また都市の資本主義的労働市場への労働力流出が急増し、農業雇用労働者が減少してきた。このような状況で、大正中期以降、小商品生産者化を進め固定的必要経費を増大させた小作人は、再生産を確保する上で契約小作料の高さに不満を抱くようになり、農民組合の支援の下、既に全国的に展開していた小作料減額要求の小作争議・小作調停事件を起こしていったのである。

 この東北地方における小作争議・小作調停事件の実態を解明すべく、平鹿郡を対象にして『小作調停書類』を用いて小作料関係型小作調停事件の分析を行った結果、昭和期の小作制度の実態も含めて以下のようなことが明らかになった。

 第1期(昭和3〜6年)においては、昭和恐慌下で幅広い階層の小作人が当時、県下で最も盛んに運動を行っていた農民組合の支援をうけて、主に50町歩以上の大地主を対象に減額を求めた小作争議を引き起こした。地主はそれに対して「小作料請求調停」で対抗した。小作調停の結果、結ばれた毛引条項は、減免の協定が不調の際、町村長・町村農会長が減免額を決定するというように、従来は地主と小作人とで相対で決定していたのに対して、村の有力者を介在させるようになるものであった。このことは、村の有力者でなければ、事態を収拾させることができないほど小作人の発言力・交渉力が強くなっていることの反映でもあった。

 第2期(昭和7〜12年)においては、米価の下落、物価と米価の乖離が依然続く中で、東北地方を襲った連年の凶作が農家経済に大打撃を与えた。その一方、農民組合が衰退し、組織的な減額要求ができないという状況にあって、経営規模1〜2町歩の中下層以下の小作人はやむなく「小作料未納」を行った。地主はそれに対して代わりの小作人を容易にみつけられれば「土地返還調停」で、そうでなければ「小作料請求調停」で対抗した。そのため代わりの小作人が容易にみつけられない不在村地主や不在村にも多くの小作地を持つ大地主に「小作料請求調停」が多かった。そして、この時期の調停の結果、結ばれた毛引条項は、町村農会の農会技術員や小作官による収量調査・減免額の決定というように、収量調査・減免額の決定において第三者を介在させて客観化をはかるものであり、さらに明確な減免の規定をした毛引条項や刈分小作制度まで出てくるという、減免条件の客観化を伴った小作制度を意味していた。そのような小作制度が出てきたのは、減額を求めた小作争議が起こせなくなったとはいえ、この時期も明治、大正期と比べれば依然として小作人の発言力・交渉力が強かったためであると考えられる。また、減免条件の客観化とは、小作人の取り分を優先させ最低でも再生産を保証するという意味での客観化のことであり、この減免条件の客観化を伴った小作制度を小作調停で推進していったことは、恐慌や不作により地主、小作人双方とも退けないという状況で、小作争議の解決、未然防止のための客観的条件をつくりだすという意味を持っていたのと同時に、小作人の発言力・交渉力の強化という地主・小作人関係の変化を政策的、社会的にも保証するものであった。

 第3期(昭和13〜15年)においては、第2期同様に小作人の「小作料未納」がある一方で、物価、米価ともに回復・上昇し、農業生産力の増大もみられ、そのことを背景に生産力上昇の担当層である経営規模2〜3町歩の中上層の小作人が減額を要求するという新たな小作争議・小作調停事件の動きがみられた。彼らは資本装備率の高度化により農業生産費が他の層よりも高く、そのことが「物価高騰」をより切実に意識させ、また「V」意識が確立されてきていたこともあって、小作争議を起こしたのであった。この小作争議・小作調停事件を起こした小作人の発言力・交渉力は非常に強かったわけだが、これには農村特務が強力に介入し、争議解決のために様々な斡旋を行った。その際、農村特務が立会の上収量調査や収量分配案の提示などを行ったが、小作人の取り分を優先させ最低でも再生産を保証するという減免条件の客観化を伴った小作制度が基本的には踏襲されていた。

 また、小作調停事件の調停結果はいずれの時期も小作人が未納した小作料の一部減免である「未納米減免」が最も多く、当時の小作人の経済状況を相当考慮したものであった。しかし、東北地方では、減免条件の客観化についてはほぼ同じ内容であるものの、近畿地方で実現した小作料の減額改訂と減免条件の客観化を主な内容とする集団的小作契約の締結はほとんどみられず、小作調停事件の調停結果の多くはこの「未納米減免」にとどまった。近畿地方と東北地方のこのような差異をもたらしたのは、小作争議・小作調停事件の規模や深化の差であり、小作人の発言力・交渉力の強さの差であったと考えられる。

審査要旨

 我が国の地主・小作人関係については、すでに戦前期以来かなり多くの研究の蓄積がある。しかし、従来の研究は、例えば「地主制」という用語がしばしば用いられたように、体制論あるいは社会構造論の一環として論じられる場合が多く、実証研究の領域としてみるとなお不十分、未解明の問題点が少なくない。

 本論文は、そのような未解明の領域に新しい実証研究の1頁を加えたものである。

 周知のとおり第1次世界大戦ののち、1920年代に入って、おりからの大正デモクラシーや普通選挙運動などの社会的背景もあって、各地で農民組合が組織され、主として小作料の引き下げを要求する運動が展開され、小作争議が急増した。ただし、その展開にはかなり地域による差異があり、まず近畿地方や関東周辺が先行したが、その間東北地方では小作争議の発生はほとんど見られなかった。

 1929年の世界恐慌を契機として、日本もいわゆる昭和恐慌の局面を迎えることになった。ところが、この時期に近畿など農民運動の先進地帯ではむしろ小作争議の件数は減少する。これと対照的に東北地方では、むしろこの頃から小作争議が多発する傾向を示す。

 近畿などにおける農民組合運動の後退については、政治的弾圧の強化などいくつかの要因が指摘されるが、それらはある意味で東北地方にも共通するものであり、先進地、後進地などの論理では説明出来ない。近畿などで小作争議が減少する時期に、むしろ東北地方では小作争議が増加する理由は何か。

 この点については、東北における地主・小作関係の変遷を実証的にあとづけながら解明する以外にない。

 本論文は全5章から構成されている。まず第1章では、上記のような研究課題と、申請者が対象とした秋田県平鹿郡の農業構造および地主家の概要が説明される。

 第2章では、明治期から大正期にかけてのこの地域の小作制度や小作料の変化が地主文書の分析を通じて明らかにされる。明治期にはいちど設定された小作料は長期的に変更しないという慣行のもとで、名目小作料を非常に高い水準に定めておき、年々の収穫量の変動に応じ、地主の「温情」として減免を行うというシステムがとられていた。

 しかし、明治末から大正期にかけての耕地整理や農事改良などにより、稲作収量が上昇かつ安定してくると、地主は小作料の仕組みを、平年作であれば小作農が支払い可能であり、したがって確実に小作料収入が確保出来る状態に改訂する。

 稲作反収の上昇もあって、この仕組みのもとで地主・小作関係はしばらく「安定」する。

 第3章では、小作調停事件の関係書類を主要資料としてこの間増加した小作争議の内容と、地主・小作関係の変化が分析されている。ひとたび、「安定的」状態にあった地主・小作関係も、昭和恐慌による小作農家の経済的困窮と農業経営における現金支出の増大などにより、小作農が小作料水準そのものの高位・不合理を主張するに至って、むしろ緊張の度を強めたのである。

 第4章では、これらを踏まえて昭和戦前期の秋田県における小作制度の変遷が整理されている。すなわち、徐々に戦時色が強まって行くなかで、社会的な紛争の発生を防止しようとする行政当局や警察などの介入が増加し、それは例えば不作の際の小作料減免基準をあらかじめ客観的に設定し、事実上制度化することで紛争の発生を事前に防止するものであった。

 それは、実質において生産力の担い手である小作農自身の再生産を前提にせざるを得ないものであり、その意味では地主の譲歩を求めるものであった。

 第5章は全体のまとめと、今後の課題の整理である。

 以上のように、本論文は具体的な地主と各小作農民の関係を具体的かつ詳細に分析し、東北地方における地主・小作関係の研究に新しい貢献を加えたものである。よって、審査委員会委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文に十分値すると認定した。

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