本論文の課題は中国における兼業農家問題を明らかにすることである。改革後の中国において、農家兼業化は著しいものがあり、それに関する研究は様々な角度からの接近が試みられているが、中心は農業経営問題と労働力の産業間の移動問題として行われてきた。しかし、これらにおいては問題のとらえ方が専業化すべきか兼業化すべきかとか、農業労働力の空洞化、兼業の深化という指摘にとどまっていて、兼業と農業との関係、兼業問題の本質が解明されず、兼業農家の多様な性格、異なる兼業問題の存在及びその存在条件が明らかにされてはいない。 著者は、中国における経済の地域的不均衡が極めて著しい事実に着目し、そこには性格の異なる兼業農家問題が併存していると認識している。また、農業の内部に兼業を促すプッシュ要因が根強く存在し、兼業農家問題を解明するには、これに対する分析が欠かせないと判断する。 このような認識に基づき、著者は本論文において、農家という農業経営の基本単位から出発し、兼業をめぐる農家側の主体的条件と農家を取り巻く社会経済的条件などの兼業化を促す客観的条件を分析すると共に、江蘇省の事例調査の結果を踏まえて、多様な兼業形態とそれに関する問題点を整理した上で、中国の兼業農家問題を明らかにすることを試みた。 論文は9章と結びからなりたっている。 第1章では、課題と分析視角について述べる。兼業問題の解明を課題とし、農業内部の条件に重点をおく視点と事例分析に基づく実証分析の手法をとっている。 第2章では、兼業の歴史を顧みた上で、改革後における兼業の本格化などの特徴を指摘し、また、改革後の労働力の産業間の移動、農家労働力の配置と労働時間の配分等の面から兼業化の展開と兼業の形態を把握する。 第3章では、経済改革と兼業との関係について述べる。制度的改革による市場経済への移行、経済成長と農業の発達はマクロ的な条件であり、家族経営の復活によってもたらされた農家の生産意欲の向上、農家の行動原理と行動範囲の変化は兼業農家の行動のミクロのベースを構成した。また、農業の発達によって、産業間の資源配分問題が農業問題の中に登場し始めた。 第4章では、農業経営、社会と所得の変化、農業の内部条件の変化と労働市場及び農村工業化などの側面から兼業化を促進する条件を吟味する。耕地経営規模、土地所有制度、固定資産の保有、生産構造などの側面から中国の農業経営の特質--零細規模--を明らかにした上で、その他の兼業要因に対する分析を展開する。 所得面では、零細耕作の下で、農業経営は農家の所得・生活改善の要求を充足させることができず、ことに農工間の所得格差の拡大に対応しえないことから、兼業が動機付けられるようになった。 農業内部では、労働力をプッシュ・アウトする力が益々強くなった。農村人口・労働力の増加、耕地面積の変化などの諸要素はいずれも就業圧力を強める傾向にあり、過剰就業の存在が労働生産性の向上を阻害する要因となった。農業生産力の向上と技術進歩に伴う労働時間の短縮と投入労働の減少は兼業のための技術的条件を用意したが、依然労働集約型技術体系であることが兼業を制約する要因の一つにもなる。また、土地資源の賦存状態、資金、技術と市場諸条件も労働力を農業に内部化することを困難にさせる。 就業条件面では、戸籍制度など制度的規制と都市部での失業の大量存在という条件のもとで、都市労働市場は、出稼ぎの場面しか提供できない。農村工業化は零細規模のもとでの過剰就業を緩和し、内発的な発展を図る試みとして理解できる。しかし、その展開は不均等であり、それに伴って展開してきた農村労働市場も地域的、重層的な性格をもっている。 第5章から第8章までは事例調査に関するものである。第5章では、江蘇省の社会経済の一般事情を述べた上で、産業構造、農村工業化などの諸指標から三カ所の調査地--常熟市、泰興市と淮陰県の間の格差を論じ、三つの調査地の社会経済が異なる発展段階にあることを述べる。 第6章では、農村工業化先進地域(江蘇省常熟市)の兼業事例及び兼業化の中での農業再編を検討する。農家に対する調査結果により、農村工業化地帯において、労働力の農業離れ、農業労働力の高齢化、女性化及び労働時間の短縮化、農業経営の両極分化(経営の整理・縮小と専門化)、農家経済における農業収入の低下等の現象を明らかにする。そこでの兼業は郷鎮企業への就業を中心とする恒常的勤務が主流となっているが、豊富な就業機会が存在すると同時に、低賃金、低労働条件などの問題点も残されている。また、兼業化の進展につれて、耕地の集積を中心とした農業再編が進み、大規模稲作農家が現れたが、大規模稲作農家の成立とその問題点が明らかにされたように、規模別の生産力格差がほとんど存在しない条件のもとで、兼業化への対応としての土地流動化には限界がある。 第7章では、農村工業化中位地帯(江蘇省泰興市)の兼業事例を述べる。そこでは、農村工業化は幾分進展しているが、建設業を中心とする出稼ぎが盛んである。複合的な農業経営の展開が農家経済を支えているが、出稼ぎなどの兼業収入が欠かせない柱の一つとなっている。しかし、大量の労働力がすでに農業以外に移動したにもかかわらず、養豚経営の展開にもみられるように余剰労働力が依然存在する。また、出稼ぎに対する分析を通じて労働市場の未整備、前近代的雇用関係の存在などの問題点を析出し、構造的問題が存在する可能性を指摘した。 第8章では、農村工業化の遅れた地域(江蘇省淮陰県)の兼業事例を検討する。歴史的な貧困地域であるため、農業の発達が遅れ、農村工業化が進んでいない。調査農家は雑多な農業経営で、農家経済は主に農業収入に依存している。労働市場の未発達を背景にして展開する兼業は、臨時雇用、伝統部門での就業を主とするものであり、経済的に付随的な地位にとどまっている。ここでは、このような農業経営、農家経済及び不安定な兼業の実態を明らかにすることを通じて、貧困問題の存在を指摘する。 第9章は論文を締め括る部分である。ここでは、まず、中国における兼業の深化と滞留の趨勢を指摘した上で、経済的、社会文化的側面と農村工業化の様式から、リスク受け入れ能力、雇用能力の不足、社会保障制度の不備、所得及び土地の機能、労働力の合理的利用などの兼業の滞留をもたらす原因を析出し、さらに機会コストという概念を用いて兼業の限界を指摘した。 次に、実態調査の結果を踏まえて、兼業の内容と形態の変化を指摘し、中国における兼業農家の経営上の性格、経済的性格と技術的性格の変化を分析した。地域間の経済発展の不均衡によって、兼業の性格の変化は一律ではないが、農村工業化に進展に伴って、一部の農家はすでに「土地持ち労働者」になっている。また、中国の特殊な条件の下では、古典的な農民層分解・分化の一形態である農民の下向分解に対する抵抗としての兼業との相違を指摘し、もっと広い意味で社会的分業の一環として兼業を捉えるべきことを述べる。 最後に、中国における兼業農家問題の所在を論ずる。中国における兼業農家に基本的に内包される矛盾は零細規模である。実態調査の結果と農家の内在的矛盾に対する分析を踏まえ、現段階の中国では、地域経済の不均衡によって、所得問題、構造問題としての兼業農家問題が同時に存在し、かつ発展的、構造的性格を帯びていることを述べる。 多くの中国の農家にとって、兼業農家問題はまず所得確保の問題である。零細規模のもとで、農家は低い農業所得のみで生活を支えきれず、兼業せざるを得なくなり、また、低農業所得と多就業、低農外賃金とが結び付いており、この意味で所得確保の問題は同時に就業問題であり、貧困問題でもある。 しかし、構造問題として、具体的にみると、農業就業構造の脆弱化、資源配分の歪み及び農業の産業としての成立をめぐる問題が既に露呈し始めている。農業全体として過剰就業という局面のもとでの局部的な農業就業構造の脆弱化は、機会コスト原理に基づく農家の行動、農工間の所得格差と利益格差、農外労働市場の労働需要及び労働集約型技術体系と深く関係している。土地利用率の低下、裏作の放棄などの現象も資源配分の歪みである。さらには、零細耕作という中国農業構造の特質は低農業所得、低労働生産性及び自立経営の不可能性を規定し、それ自体が構造問題となっている。また、兼業農家のもつ強い滞留性も構造改善を妨げている。この構造の改善、産業としての農業の成立は農業生産力の如何と深く係わっている。 中国における兼業農家問題は発展的・構造的な性格をももっているので、地域間の経済発展の不均衡の是正、農業構造の改善を含んだ経済全体の構造的変革と改善が求められている。 結びは、これらの内容を総括している。 |