内容要旨 | | 1991年からの「新経済政策」によって,インド経済は急速な自由化への体制移行を進めている。 インドには,かなりの市場の歪みが存在している。それらは,混合体制期の過度の政府介入によるものであり,また市場の不完全性から生じているものである。 こうした多様な市場の歪みが存在する中で,部分的な自由化がどのような分配への影響を引き起こすかについて考察することが,本論文の目的である。 分析の要約を示すと以下のようになる。 第1章では,現在の「新経済政策」で行われている自由化政策の背景・概略について簡単に触れた。 1980年代の自由化と1991年以降の「新経済政策」は,いずれも国際収支危機をその契機としている。しかしながら,1980年代の自由化の対象は,かなり限られていた。すなわち,同期における製造業の規制緩和は,1950年代に成立した産業法,産業決議の抜本的見直しにまでは至っていなかった。また,貿易自由化についても,資本財・中間輸入財の輸入自由化を中心とするものであった。 1980年代,これらの自由化政策によって成長率は回復した。しかしながら一方で,財政赤字,投資・貯蓄ギャップの拡大といったマクロのインバランスが顕現化し,国際収支についても改善はみられなかった。「新経済政策」は,総需要管理政策によって,このマクロのバランスの回復を目指したものである。また,中・長期的な供給効率の改善を目指すために,民間部門の活動範囲の拡大,外資の導入,積極的な貿易の自由化などが行われた。 第2章では,農業部門の自由化政策について述べた。 インド農業は,1960年代中盤からの「緑の革命」による高収量品種の導入・普及によってめざましい成長を遂げてきた。その一方で,「緑の革命」は,地域間格差・階層間格差を拡大させるという負の影響をもたらした。 1980年代の農業政策は,製造業のような自由化は行われなかった。同期の農業政策は,「緑の革命」がもたらした負の影響を是正するための,農業・農村開発政策を中心としたものである。しかし,その一方で,肥料などの経常投入財の補助金が増大し,次第に政府の財政を圧迫するという問題が顕現化し始めた。 農業関連補助金の拡大が財政赤字拡大の一因であると認識されたことを受けて,「新経済政策」では農業部門も自由化の対象とされた。農業部門の自由化として,各種補助金の削減,民間部門による穀物流通の州間移動の自由化,貿易の自由化などが検討・着手されている。 第3,4章では,農業部門の自由化に焦点をあて,分配に与える影響について分析を行った。 農業に対する主な政府介入に,政府による穀物の政府買い上げ制度がある。これによって買い上げられた穀物は,緩衝在庫や公的分配システム(PDS)へ運営されているが,このために多額の食糧補助金が投じられている。この食糧補助金は,財政支出のかなりの割合を占めるため,「新経済政策」では削減が検討されている。しかし,公的分配システムは,低所得者層に食糧のアクセスを容易にするために行われている側面があるため,現在のところ,政府買い上げ・公的分配システムという政府介入の自由化は進展していない。 第3章,第4章では,この政府買い上げ・公的分配システムという政府介入を維持したままで,他の政府介入の自由化による分配への影響について考察した。 第3章では,政府買い上げ制度+公的分配システムに対して,穀物流通の州間移動制限の自由化がどのような影響を与えるかについてモデル分析を行った。その結果,「政府買い上げ制度が生産増大のインセンティブにつながった」とされるDantwala-Mellor命題が検証された。以下にその帰結をまとめる。 ・ Dantwala-Mellor命題は,民間部門流通の州間移動を制限している場合の方が成立しやすい。 ・ 州間移動の自由化自体は,穀物不足地域の消費者と穀物余剰地域の生産者に厚生の上昇をもたらす。逆に,不足地域の生産者と余剰地域の消費者の厚生は悪化する。 ・ 州間移動の自由化によって,政府買い上げ価格が上昇するため,食糧補助金の増大が生じる。 ・ 州間移動の自由化で,Dantwala-Mellor命題が成立しにくくなり,食糧補助金も増大する。したがって,州間移動制限は政府買い上げ制度の運営上,一役を担っていたと解釈できる。 また,この章では,経済成長による穀物需要の増大の影響についても州間移動の制限との関連で分析した。すなわち,州間移動制限のある場合と,自由化した場合とで,穀物不足地域の需要増大が各地域に及ぼす効果を分析し,以下の結論を得た。 ・ 不足地域における穀物需要増大は余剰地域の生産者の厚生を上昇させるが,州間移動が自由化されている場合の方が大きい。 ・ この場合,余剰地域生産者の厚生の増大は,製造業の需要の拡大・経済成長に大きく貢献する可能性があるので,州間移動の自由化は,経済成長の面からみれば肯定されうる。 ・ 不足地域の生産者の厚生の上昇は,政府買い上げを維持したままで州間移動の自由化を行う場合,最小となる。これにより,不足地域の農村が疲弊し,都市インフォーマル部門が拡大する恐れがある。また,これにより公的分配穀物が増大し,食糧補助金の増大も懸念される。 第4章では,「新経済政策」の下で財政赤字削減のための切札として注目されている肥料補助金削減の影響を分析した。肥料補助金削減により,政府買い上げ価格は上昇するが,公的分配システムの下での政府売り渡し価格の設定がどのような影響を及ぼすかを分析し,以下の結論を得た。 ・ 政府買い上げ・公的分配システムを維持(すなわち公的分配システムにおける穀物の政府売り渡し価格を不変)したままで,肥料補助金削減を行うと,政府買い上げ価格は上昇する。これにより食糧補助金が増大し,財政赤字の削減効果を抑制する。 ・ 公的分配システムにおける政府売り渡し価格を上昇させた場合には,肥料補助金削減によって食糧補助金の削減がもたらされる。しかし,この場合には,低所得者層の厚生を悪化させる。 ・ 政府売り渡し価格の設定方法に関わらず,食糧供給の減少がもたらされる。しかし,政府売り渡し価格を上昇させた場合の方が,食糧供給の減少の程度は大きい。これは3章で考察した,Dantwala-Mellor効果が逆に働くためである。 第3,4章での分析を,包括的にまとめれば,「市場の歪みが存在している状況では,部分的な自由化により分配はかえって悪化する可能性がある」ということに帰結する。 第5章では,この帰結を踏まえて,IMF・世界銀行の「構造調整」政策を,新古典派経済学が内包する問題点に焦点をあて,再検討を行った。その結果,新古典派経済学のフレームワークでは,「急進的」な自由化措置の正当性が導かれるが,インドのような要素市場の「調整」がスムーズには行われない国では「構造調整」政策がうまくいかない可能性があることを指摘した。また,「急進的」な自由化措置による経済的・社会的弱者層への分配上の負の影響も短期的なものではないことが指摘された。自由化が与える分配上の負の影響が短期的なものとするIMF・世界銀行の見方について,その危険性には十分注意をする必要があるのである。 この章では,インドの自由化の場合には,政府は政策の効果があがるまでどれくらい時間を必要とするかという点に十分に注意を払う必要があることも言及した。それは,各市場で「調整」の速度が異なる場合には,経済自由化の成果が各主体に及ぶ時間に違いが生じるためである。また,各主体自身がその時間をどう認識しているかについても差が生じる。インドのように,民意が政治の安定性に影響を及ぼしやすい国では,この認識のギャップを「調整」する必要がある。もし,その「調整」役を政府が効率的に担う場合には,政府・政策のcredibilityを向上させることが可能であると考えられる。 第6章では,第1章から第5章までの要約を行った。その上で,当面の課題として取り組むべき政策・制度改革として以下のものを挙げた。 1.政府の効率改善 各種の政策運営上生じている政府のコストは補助金増大の一因といわれている。この政府のコストの削減は,部分的自由化が与える分配上の負の効果を和らげるものと考えられる。 2.地域間・階層間格差是正のための取り組み 経済自由化では,モノ・カネの流れは流動化する。この中では,これまでの後進地域がさらに発展が遅れるといった事態が想像できる。経済自由化の中での’balanced growth’を模索しなければならない。 3.経済的・社会的弱者層への中・長期的措置の必要性 経済的・社会的弱者層に対する短期的なsafety netだけではなく,彼らが中・長期的にフォーマルな労働市場に参入できるような政策を講じる必要がある。このような政策は,労働市場の「調整」速度を速めることができる。そのため,インドのように労働力が豊富であるにもかかわらず,労働市場の「調整」がスムーズでない国では,このような措置はことさら重要である。 最後に,今後の自由化の方向として,市場に歪みが存在する場合の「公正を伴う成長」のpathを模索すべきだとして,そのためには政府介入の性質について十分に分析する必要があるとした。 以上が本論文の要旨である。 |