キチンはセルロースについで天然界に多量に産出され、その構造が似ていることからセルロースと対比される。キチンは少なくともキチン、キチンの二種の結晶構造を持つことが知られ、前者は逆平行鎖、後者は平行鎖構造をとるといわれる。キチンは酸処理によってキチンに変態する。最も安定な構造とされるキチンのチェイン・ポラリティは、X線結晶構造解析で空間群P212121と決定されたことから逆平行鎖と考えられてきた[Minke and Blackwell,1978]。ところが空間群P212121の禁制反射(010)、(001)が現れる例が報告されており[Atkins et al.,1979],逆平行鎖構造にも疑問が持たれていた。 本研究は、キチンのチェイン・ポラリティを明らかにしたうえで、塩酸膨潤によってキチンがキチンに結晶変態する機構を解明することを目的とした。キチンが逆平行鎖構造であればこのキチンの変態は、溶解状態を経ずにチェイン・ポラリティを反転させるといわれているセルロースIからIIへの結晶変態に対応するものとして興味深い。 第2章では動物性プランクトンの一種であるヤムシ(Sagitta)の顎毛を高結晶性キチン試料として用いた。電子線回折ではこの試料にP212121の消滅則をみたさぬ001と0k0(kおよび1は奇数)の反射がはっきりと見られた。これらの禁制反射は、キチンに吸着した金属元素の影響であるか、あるいはキチンの構造そのものに起因するのか検討をおこなった。禁制反射の強く見られる試料のEDXSによる元素分析、浮沈法による密度測定から、この試料は純粋なキチンであることが確認された。試料厚さや晶帯軸を変化させた場合の電子線回折から、P212121の消滅則をみたさぬ禁制反射は、試料が完全結晶に近く厚みを持つために多重回折が生じた結果であることがわかった。キチンの結晶格子像が得られ、動力学的効果による禁制反射が現れることがこの像からも確認された。このことから空間群P212121(逆平行鎖構造)としたMinke and Blackwellの構造解析は妥当であると考えられる。この試料は結晶性が高く構造解析に適した試料であることが明かになったため、シンクロトロン放射光による回折実験を試みた。幅20mにカットした試料の径10mの領域にX線を照射して300点の回折を得たが、a*c*面の配向の乱れによる10°程度のピークの広がりのため、100が消滅しているか否かを確認できず、空間群P22121である可能性も残された。 第3章では、海藻類のPhaeocystisの放出するキチンフィラメントに関して解析を行った。フィラメントは珪素を含む成分から構成されるとされていたが、著者らはそれが高結晶性ウィスカー状のキチンであることを見いだした。キチンの鎖軸方向はフィラメントの長さ方向に一致しており、ツイストしたフィラメント上を走査することで一連のキチン特有の電子線回折図を得た。試料は単結晶状で、Sagittaの顎毛と異なり、配向の乱れによる格子点の重なりの影響が無い。プローブを絞り込むことで、とくに110との重なりによって従来捕らえにくいa*c*面上の100の消滅を観測し、空間群P212121の消滅則がa*軸方向にも満たされていることを初めて確認した。 第2、3章の結果から、キチンが空間群P2121に属する、すなわち逆平行鎖構造であることが判明した。セルロースが天然には一部の例外を除き平行鎖構造であるのに対し、天然界の多くのキチンは逆平行鎖構造のキチンでありカニ、ロブスターの殻や腱にも含まれる。しかしSagittaやPhaeocystisのような高結晶性である場合、逆平行鎖構造に生合成、結晶化される機構は考えにくい。特にPhaeocystisなど藻類にも見出されたことから,従来知られている平行鎖構造のセルロースやキチンを合成する生合成サイトと全く違う可能性がある。 つぎにキチンのキチンへの変態について、由来の異なる数種のキチンを用いて検討した。結晶変態でよく知られているのは6N塩酸によるイカの結晶変態である。第4章では多量に入手可能なイカの骨格に含まれるキチンを用いて塩酸による結晶変態の検討を行った。結晶変態を伴う6Nから8Nの塩酸によるキチンの一次構造変化については、プロトンNMRによる測定からアセチル化度の変化は全くないが、粘度法では2時間程度の処理で分子量が30%にまで低下することがみいだされた。また8Nの塩酸で30分の処理をするだけでも同様の分子量の低下がみられた。ただし分子量低下が10%程度の30分程度の処理でもキチンがみられることから、分子量の低下とキチンの生成は直接的に関連づけられるものではない。結晶変態をおこすのは文献値では6Nとされているが、X線回折によれば4Nより強い酸で処理するとその後完全に水和しなくなることから、4Nでも変成を受けていることがわかった。6Nで酸処理し次いで水和処理を施すとキチンの回折のうち強いものがいくつか見られるようになったが、赤道線上では水和キチンの強いピークのみが見られ、この濃度ではごく僅かにしか結晶変態していないことがわかった。完全にキチンだけが生じたのは7.5N以上の塩酸で処理した場合であった。生じたキチンは塩酸処理によって消滅したことからロブスターの腱などに天然に産するキチンに比べ結晶性がかなり低いことが考えられた。一方、高結晶性のキチン試料である珪藻の粘糸では6N塩酸処理によるX線回折図形の変化が見られない。そこでイカと珪藻のキチンの違いをFT-IRで調べた。キチンはアミドIのピークが1本であることが特徴とされているが、珪藻では1630cm-1付近にあるのに対してイカの場合キチンピークに近い1660cm-1にピークがみられた。3N塩酸で煮沸して加水分解するとX線回折像は変化しないがこのピークが鋭くなることから、結晶性でない成分が1660cm-1付近にピークを生じることが考えられる。6N塩酸処理により、イカではアミドIの領域に2本のピークが現われキチンの生成が確認されたが、珪藻では2本以上のピークが現われてブロードにみえた。これより、イカキチンは結晶性でないキチンを持ち、その部分が結晶性キチンに比べ結晶変態しやすい可能性がある。イカキチンは6N塩酸処理で寸法変化することに加えて、脱タンパク前の試料に20nm間隔の繊維方向に垂直な縞構造が見られるなど、結晶変態挙動の特徴が組織構造に由来している可能性もある。 第5章では高結晶性で結晶サイズも大きいTevniajerichonanaの棲管から得られたキチンが結晶変態の試料に供された。室温下で様々な濃度の塩酸に浸漬したところ、6Nより弱い酸ではX線回折像に変化は見られなかった。6Nから7Nではキチンは完全に塩酸膨潤してブロードな回折ピークに変わったが、これを水洗するとキチン二水和構造に戻った。この濃度で処理すると、X線回折では検出できない程度に局所的にキチンが生じていることが電子線回折によって確認された。電子顕微鏡形態像では、30-80nmのミクロフィブリルが酸膨潤後には3-5nmほどにフィブリル化していた。2時間以上の塩酸処理ではもとのキチンミクロフィブリル上にキチンが堆積したシシカバブ構造が見られたが、このカバブ部分は酸加水分解で除去され、かなりの非晶を含んでいることが推測された。キチンとキチンの繊維軸方向は一致しており、キチンがキチン上にエピタクシアル成長したことがわかった。7Nから8Nの間では処理後にキチンに加えキチンがX線回折でも検出された。電子顕微鏡形態的には、紡錘型のキチン結晶と、細くなったキチン結晶が共存していた。8N処理後は、キチンの回折のみがみられた。シシカバブの核になっていたキチンミクロフィブリルは完全に失われ、無配向に堆積した紡錘型キチン結晶だけが見られた。以上より塩酸中で膨潤しても機械的にキチン鎖の配列が平行に保たれている7N以下ではもとのキチンに戻り、試料が塩酸中でミクロフィブリルの形態を失う8Nにおいて結晶変態は完全に達成されることが判った。 極低温電顕法とX線回折での含水試料の観察によれば、キチンは塩酸を水洗する過程で形成されていた。また6N以上の塩酸に浸漬したあと水の代わりにアルコールで洗浄すると、キチンとアルコールのコンプレックス結晶が出来ることがわかった。その他数種のアルコールとの間で形成され、いずれもキチン格子のb軸方向のみに膨張し、乾燥すると無水キチンになる。低温電顕法での電子線回折でもメタノールキチンのb軸方向の格子定数はX線回折の結果と一致していた。膨潤後のアルコール洗浄で分子鎖シート間に浸入したアルコール分子とコンプレックスを形成することはセルロースにも共通してみられる。 キチンの低分子化を伴わない溶媒として知られる塩化リチウム/ジメチルアセトアミド溶液、チオシアン酸リチウム水溶液による結晶変態を試みた。これらの溶媒処理と塩酸処理との形態的違いは、シシカバブ構造を生じず、生じたキチンは紡錘型ではなく長い繊維状であったことである。またFT-IRによる測定から、塩化リチウム/ジメチルアセトアミド溶液は非晶を生じないことが示唆された。キチン鎖が分子内水素結合を保ったままリボン状に伸びきっているといわれるこの系では、キチン鎖の低分子化も折り畳みも伴わずに、キチン鎖は直線上のままキチンミクロフィブリルから剥離して、溶媒中で統計的に逆向きに遊離しているキチン鎖と再結合することでキチン結晶に成長していくと考えられる。 |