学位論文要旨



No 112727
著者(漢字) 李,康徳
著者(英字)
著者(カナ) リ,カントク
標題(和) シス-2,3-エポキシブタン-1,4-ジオールジアシルエステルを光学活性モノエステルに変換する新規微生物酵素の研究
標題(洋) Studies on the Novel Microbial Enzymes Which Hydrolyze 1,4-Diacetoxy-cis-2,3-epoxybutane to Optically Active Monoesters
報告番号 112727
報告番号 甲12727
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1790号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 魚住,武司
 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 若木,高善
 東京大学 助教授 正木,春彦
内容要旨

 生物活性の高い有機化合物を合成するためには、光学純度の高い鏡像異性体の合成が要求される。近年、反応や反応種を制御する手法や理論の急速な進歩で光学活性物質の合成、あるいは不斉合成が大きく発展した。不斉合成は、純粋な有機合成化学的手法に限ることなく、生物がもともと持っているキラリティーを反応に利用することもできる。すなわち有機合成経路の重要な一部に、不斉な酵素反応、あるいは微生物菌体による生体触媒反応を利用することにより、全体の効率と純度を上げて付加価値の高い有用物質を合成することが可能である。昆虫の性フェロモンは、一般に鎖状または環状の炭化水素を基本とした比較的簡単な有機化合物でありながら、種特異的が高く、きわめて微量で効果を現すので、昆虫の生態制御あるいは害虫の防除といった応用面からも重要な物質である。しかしこれらは天然からはごく微量しか得られず、しかも多くの場合唯一の立体異性体のみが高い活性を持つので、昆虫フェロモンの不斉有機合成に関する研究がさかんに行なわれている。

 多くの鱗翅目昆虫の雌に対する性フェロモンでは、cis(meso)-エポキシ環を有する化合物が非常に多く使われている。Brevetと森1)は、gypsy moth(マイマイ蛾)の性フェロモンであるdisparlure、及びruby tiger蛾のフェロモンなどの光学活性体への合成において、cis-2-butene-1,4-diolを出発物質とする合成法を確立したが、その中で不斉性導入の鍵となる、1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneから(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olのような光学活性モノエステルへの加水分解反応(*)において、ブタ膵臓由来のリパーゼを用いることにより、最大約90%の光学純度(%e.e.)を得ることができた。

 本研究では、この1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneから(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olへの加水分解反応において、微生物酵素を利用することで、安価により高い変換収率を得ることを目指し、微生物のスクリーニング、微生物の同定、酵素を大量生産するための精製方法の確立、酵素の特性、酵素の遺伝子のクローニング及び塩基配列の決定に関する研究を行った。

 

1.酵素生産菌株の分離及び同定

 酵素生産菌株は東京近郊で採集した土壌から分離した。基質として用いた1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneは、Brevetらの方法に従いcis-2-butene-1,4-diolを出発物質として合成した。土壌から単離した約1000株の微生物について、細胞外画分(培地)、細胞内画分(超音波破砕上清)を基質と反応させ、薄層クロマトグラフィで展開してそれぞれの基質の変換活性を調べ、いくつかの標品に関して、生じた4-acetoxy-2,3-epoxybutane-1-olの光学活性を旋光計で測定した。

 その結果、5株の細菌の生産する酵素が、1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneを70%以上の光学純度(%e.e.)を持つ4-acetoxy-2,3-epoxybutane-1-olに変換することが分かった。特にそのうち2株、HIM42とKSR24による産物は95-100%e.e.の光学純度を持つ(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutane-1-olであった。HIM42株はグラム陰性、運動性の桿菌である。KSR24株は生理試験、及び電子顕微鏡と光学顕微鏡を用いた形態的特徴の検討の結果、グラム陰性で運動性のあるわずかに湾曲した桿菌であり、極鞭毛を持っていた。また通性嫌気性であることからVibrio属と推測した。KSR24,HIM42両株の(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutane-1-olへの変換活性を持つ酵素は細胞外酵素であり、培養とともに細胞外へ分泌されることが明らかになった。

2.酵素の精製と性質

 加水分解反応(*)の結果放出される酢酸を、酵素カップリング法で測定することにより本酵素の活性を定量化し、HIM42株,KSR24株からの細胞外酵素の精製を行った。しかしHIM42株酵素は1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneに対する光学純度は98-100%と高かったが、蛋白質が分解されやすいためかあるいは他の理由か不明だが、SDS-PAGEで分散した像を与えるのみで酵素の精製は困難であった。ただし本菌は培養液上清を用いても1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneに対し高い光学活性を示すことから、応用上は細胞の培養液を直接利用する方法も考えられる。

 一方、KSR24株の酵素は、培養上清の50-80%飽和硫安沈澱、フェニルトヨパール、Q-セファロース、さらにMono-QとSuperdex200を用いたカラムクロマトグラフィーにより部分精製し、比活性は約93倍上昇した。SDS-PAGEによる推定分子量は約40,000であり、Superdex200ゲルろ過による推定分子量が120,000であることから、三量体酵素である可能性が考えられる。本酵素はp-nitropalmitateを基質としたリパーゼ活性を示さず、Tween20に対するエステラーゼ活性も示さないので、新しいタイプのエステラーゼである。非変性PAGEから抽出した精製酵素を1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneと反応させた時の純度は95%e.e.であり、Brevetらの用いたブタ膵臓リパーゼによる光学純度より高いことが分かり、以降本酵素の検討を進めた。なお、上記基質を用いて得られた本酵素の最適作用pHは7から8であった。

 一方本酵素は、Ni,Ru,Agなどのキレート剤である1,10-フェナントロリン(1mM)によっては阻害されたが、EDTA(1mM)では阻害されなかった。HgCl2(1mM)で失活し、PCMB(1mM)やモノヨード酢酸(1mM)でも部分的失活が見られたので、活性保持に遊離SH基が関与している可能性がある。また、セリンプロテアーゼの阻害剤であるDFP(1mM)、PMSF(1mM)によって阻害を受けたので、活性中心の構造がセリンプロテアーゼに類似している可能性が考えられる。

3.遺伝子のクロニンーグ

 精製したKSR24株の酵素を、Lys-C,V8,Asp-N,トリプシンの4種のプロテアーゼで部分分解し、N末端を含め合計10個のペプチド断片のN末端アミノ酸配列を決定した。このアミノ酸配列をもとに29組の、混合オリゴDNAプライマーを合成し、考えうる組合せすべてに関してPCR増幅を行った。その結果、別々のプライマーの組合せで、0.4kbp,0.5kbp,0.6kbpの3種の明瞭なPCR産物が得られた。それぞれのPCR産物をベクタープラスミドに挿入してプライマー近傍のDNA塩基配列を決定した結果、0.4kbpと0.6kbpの塩基配列は得られている部分アミノ酸配列と整合しなかったが、0.5kbpのPCR産物の塩基配列が部分アミノ酸配列と整合し、さらに別の断片の部分アミノ酸配列領域をも含んでいた。そこでこの0.5kbpのPCR産物をプローブとして遺伝子のクロニンーグを行った。種々の制限酵素で分解した染色体DNAのサザンハイブリダイゼーションの結果をもとにして、4.2kbpのHindIII断片をベクターpUC119のHindIII部位に連結し、大腸菌を形質転換してコロニーハイブリダイゼーションにより、約5000個のコロニーから13個の陽性クローンを取得した。このうちひとつの陽性クローンを選び、挿入断片の制限酵素マッピングとDNA塩基配列の決定を行っている。予備的実験ながら、本組換え体の菌体抽出液では、SDS-PAGEで推定分子量約40,000の蛋白質が新たに観察され、また大腸菌宿主の示すバックグラウンド活性に対し、70倍の酵素活性が測定されたので、求めるエステラーゼ遺伝子が得られていることが示唆された。

4.まとめ

 土壌から分離した2菌株HIM42とKSR24が、1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneを光学純度95%e.e.以上のモノエステル(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutane-1-olへの加水分解する酵素を分泌することを明らかにした。KSR24菌株の酵素を精製してその特徴を明らかにし、それが新しいタイプのエステラーゼであることを示した。さらに酵素の部分アミノ酸配列情報をもとに遺伝子のクロニンーグを行った。

 今後の展望としては、精製した酵素に対する基質としてスクリニンーグをすることにより、本酵素を新しい不斉変換反応に応用する可能性を。また、遺伝子の組み換え技術を応用することにより、大量発現系を構築すれば、さらに容易に大量の酵素を得ることができる。蛋白質工学的な遺伝子の改変により、1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneから光学活性モノエステルへの変換反応の光学純度及び収率の向上が期待される。

 1)Brevet,J.-L.and Mori,K.;Synthesis,1992,1007.

審査要旨

 本論文は、昆虫のフェロモンなど生物活性の高い有機化合物を合成する際に有用な、光学活性体の不斉合成を触媒する新規エステラーゼを微生物からスクリーニングし、それを精製して諸性質を解明し、その遺伝子をクローン化して塩基配列を決定し、大腸菌において活性を発現させたものであり、5章よりなっている。

 第1章序論においては、従来、光学活性エポキシ化合物の合成に用いられてきたリパーゼ、エステラーゼなどの性質とその限界について述べ、さらに光学純度の高い反応産物をあたえる新規酵素の探索の必要性について論じている。

 第2章では、gypsy moth(マイマイ蛾)の性フェロモンであるdisparlureなどの光学活性化合物の合成の出発材料として汎用性のある不斉化合物(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olなどを1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneの光学活性モノエステルへの加水分解反応によって生産する微生物酵素をスクリーニングし、土壌から新規に分離した約900株の細菌から、5株の有用細菌を発見した。その内の1株グラム陰性運動性の桿菌HIM42株の培養によって生産された菌体外粗酵素は、1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneから(2R,3S)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olへの加水分解反応において、光学純度96%e.e.の産物を与えることから、本菌株が実用上の価値が高いことを見出した。

 第3章では、本研究で発見同定したVibrio属細菌KSR24株の培養上清から、新規エステラーゼを精製し、純化した酵素が1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneを加水分解して、光学純度94%e.e.の(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olを与えることを示した。本酵素はp-nitrophenyl palmitateを基質としたリパーゼ活性を示さず、Tween 20に対するエステラーゼ活性も示さない新しいタイプのエステラーゼである。

 本酵素の最適作用pHは7から8であった。本酵素はNi++などの金属イオンキレート剤である1,10-フェナントロリン(1mM)によっては阻害されたが、EDTA(1mM)では阻害されなかった。PCMB(1mM)、モノヨード酢酸(1mM)によりやや阻害されたが、2-メルカプトエタノール(1mM)、N-エチルマレイミド(1mM)では殆ど影響を受けなかった。また、セリンプロテアーゼの阻害剤であるDFP(1mM)、PMSF(1mM)によって阻害を受けるので活性中心の構造がセリンプロテアーゼに類似している可能性があると考察した。

 第4章では、KSR24株のエステラーゼの部分アミノ酸配列を決定し、それを元にして設計した種々の合成DNAプライマーを組み合わせて本菌のDNAにたいしてPCR増幅をおこない、得られたDNA断片をプローブとして、本酵素の遺伝子をクローン化した。さらに、その塩基配列を決定し、本酵素が954塩基から成るORFによってコードされ、そのアミノ酸配列は、エステラーゼの活性中心のコンセンサス配列に一致するGVSAGのアミノ酸配列を持つことを明らかにした。この遺伝子は大腸菌中で活性を発現し、その菌体抽出液は大腸菌宿主のバックグラウンドに対し、70倍の酵素活性を示した。

 第5章の総合討論においては、本研究で発見した2種の新規エステラーゼの有用性と将来の応用の可能性について論じている。

 以上、本研究は、1,4-diacetoxy-cis-2,3-epoxybutaneを基質として光学純度94%e.e.以上のモノエステル(2R,3S)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olあるいは(2S,3R)-4-acetoxy-2,3-epoxybutan-1-olへの加水分解反応を行う新規酵素を生産する細菌をスクリーニングし、2種の有用な酵素を発見するとともに、その一つを精製し、酵素学的性質を解明し、さらにその遺伝子をクローン化して塩基配列を決定し、大腸菌中での活性発現を達成したものであり、学術上ならびに応用上貢献するところが少なくない。

 よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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