学位論文要旨



No 112728
著者(漢字) 川崎,信治
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,シンジ
標題(和) Pseudomonas aeruginosaの脱窒遺伝子群の構造と機能
標題(洋) Structure and function of the denitrification gene cluster from Pseudomonas aeruginosa
報告番号 112728
報告番号 甲12728
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1791号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五十嵐,泰夫
 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 教授 松澤,洋
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 助教授 西山,真
内容要旨

 脱窒は、酸素の代わりに窒素酸化物を最終電子受容体とする嫌気呼吸の一種で、NO3-→NO2-→NO→N2Oで示される一連の還元過程を経て、最終的に窒素ガスを大気中に放出する反応である。本反応は水圏の窒素酸化物を窒素ガスとして大気中に放出する唯一の生物反応であり、地球上における重要な窒素サイクルの一翼を担っている。現在、人類の文明向上に伴う副産物としての窒素酸化物が、深刻な環境汚染をもたらしており、バイオレメディエーションの立場から、窒素循環における脱窒プロセスの重要性が再認識されている。脱窒反応に関与する酵素は、硝酸還元酵素(Nitrate reductase,Nar)、亜硝酸還元酵素(Nitrite reductase,Nir)、一酸化窒素還元酵素(Nitric oxide reductase,Nor)、亜酸化窒素還元酵素(Nitrous oxide reductase,Nos)の4種類であるが、これら一連の酵素反応は生物学的には嫌気条件下で行われるため人為制御が難しく、脱窒反応の有効的な利用の観点から、そのメカニズムの解明が嘱望されている。一方、分子生物学的な観点からは、脱窒反応が酸素呼吸以前に生物が獲得した原始呼吸鎖であるとの認識もあり、そのメカニズムの解明は、酸素呼吸鎖との進化・系統の関連性を論じる上でも重要である。

 以上のような背景のもと、本研究では脱窒メカニズムの解明の一環として、代表的な脱窒菌であるPseudomonas aeruginosaの脱窒遺伝子群に着目し、遺伝子群の構造と機能、および発現調節機構の解明を目的としている。

第一章脱窒遺伝子クラスターの構造解析

 Pseudomonas aeruginosaのNirはヘム型のcytochrome cd1であるが、本酵素のin vivoにおけるプロセッシングの機構、特に本酵素にのみその存在が確認されているheme d1の合成機構に関しては、不明な点が多く残されている。脱窒遺伝子クラスター内には、脱窒反応に特異的に関与する遺伝子群がクラスターをなして存在しており、過去において酵素反応を指標とした解析実験では得ることの難しいコンポーネント蛋白質をコードするいくつかの遺伝子を同定した経緯もあり、更なる解析によるheme d1合成領域の同定が期待された。Pseudomonas stutzeriでは、脱窒クラスター内のNirの構造遺伝子nirS下流域におけるトランスポゾン変異株から、いくつかのheme d1 deletion mutantが得られており、nirS下流域にheme d1合成領域の存在が推定されていた。また、nirS遺伝子を脱窒能を有さない他菌種へ導入すると、heme d1を欠如したsemi-apoNirが発現することなども、脱窒菌特有のheme d1合成領域の存在を示唆している。本研究では以上の知見を踏まえ、それまでに報告がなかったnirS下流域の構造解析を行うことによる新規遺伝子領域の発見と、亜硝酸還元反応に関与する遺伝子領域の解明を試みた。その結果、nirSMC下流域に新たに8個のORFを発見し、遺伝子構造の解析の結果、合計11個の遺伝子群(nirSMCFDLGHJEN)が、nirS上流のプロモーターに制御される約9kbのオペロン単位として存在していた。

第二章nirオペロンの機能性

 本章では、nirオペロン構成遺伝子群の機能解明を試みた。データベースを利用したホモロジー解析や、遺伝子産物上の保存配列からの知見を得た結果、第一章で発見した新規な遺伝子8個のうち7遺伝子が機能不明な蛋白質をコードしていた。また、ヘム合成のキーエンザイムであるUroporphyrinogen III methyltransferaseをコードすると推定される遺伝子(nirE)が存在したことから、新規領域のheme d1合成への関与が示された。そこで新規遺伝子の機能性追求の手段として必要となるNir蛋白質、及びheme d1の精製を行った。その後、新規遺伝子の欠損株をMarker exchange mutagenesisの手法で作成し、得られたミュータントの性質を、WesternによるNir蛋白の発現と、heme d1および欠損遺伝子による相補実験を行うことで解析した。その結果、本オペロンは、Nitrite reductaseの構造遺伝子nirS、亜硝酸還元に関与するチトクロム蛋自質をコードすると推定されるnirMCとnirN遺伝子、およびheme d1の生合成に必要不可欠なnirFDLGHJE遺伝子で構成されていた。

第三章脱窒反応の発現機構

 脱窒反応は嫌気条件下で起こる反応として古くから知られていたが、詳細な発現のメカニズムに関しては明らかとなっていない。P.aeruginosaの脱窒反応は、酸化還元レベルを認識する転写調節因子ANRの欠損株では発現しないことが、Hassらの実験により明らかになっている。また脱窒遺伝子クラスター内に存在し、新規転写調節因子をコードすると推定されるdnr遺伝子も、脱窒遺伝子の発現へ関与することが新井らのプロモーター活性を指標とした実験により推定されている。本章では、これら転写調節因子の脱窒反応への関与を明らかにすることを目的として、脱窒反応のキーエンザイムであるNirの発現を指標として実験を行った。本実験にはanr欠損株PAO6261株、dnr欠損株RM536株を用い、(1)両転写調節因子の発現への関与(2)Nir発現と酸素濃度との相関関係(3)ANR,DNR両転写調節因子の認識機構、について検討を行った。その結果、PAO6261,RM536株でNir蛋白の発現は誘導されず、両遺伝子のNir発現への必要性が明らかとなった。またPAO6261株にdnr遺伝子を強制発現させた結果、Nirの発現が誘導されたことから、ANR→DNR→Nirのカスケード式調節機構で制御されることが推定された。酸素濃度レベルによるNir発現の影響を観察したところ、野生株では酸素濃度5%以上でNirの発現が観察されなかった。ANRは酸素濃度を酸化還元レベルの変化として認識する転写調節因子であるので、ANRによる嫌気制御を解除することで、好気環境下におけるNir発現を制御できるのではないかと考え、PAO6261株においてDNRを強制発現させた株におけるNirの発現と酸素濃度の相関性を観察した。その結果、野生株とほぼ同様の結果が得られ、DNRによる転写調節が、ANRと同様、酸素濃度レベルに影響されることが明らかとなった。DNRはANRに保存される酸化還元レベルの認識に関与するシステインクラスターを有しておらず、新規の酸化還元レベルの認識機構を有することが推察された。そこでDNRが亜硝酸の有無を感知する可能性が考えられたため、DNRを強制発現させた株において、低酸素濃度下での亜硝酸濃度とNir発現との相関性を観察したところ、亜硝酸非存在下ではNir発現が誘導されず、DNRが亜硝酸の存在を認識する転写調節因子であることが示された。

まとめ

 P.aeruginosaの脱窒遺伝子クラスターを解析した結果、nirSMC下流に新たに8個の遺伝子を発見し、nirSの上流のプロモーターから供転写される約9kbのオペロン構造を形成していた。nirオペロンの機能性解明を、欠損株の作成と相補実験の解析により試みた結果、亜硝酸還元反応を触媒すると推定されるチトクロム蛋白質をコードする遺伝子や、Nirのcofactorであるheme d1の生合成に必要不可欠な蛋白質をコードする遺伝子など、亜硝酸還元反応に直接関与する遺伝子群で構成されていた。

 脱窒反応の発現を、Nir蛋白質の発現を指標として解析を行った結果、酸素濃度レベルを認識するANRと亜硝酸の存在を認識するDNR両転写調節因子によってANR→DNR→Nirというカスケード式に発現制御されていることが示された。

 今後は、本遺伝子クラスターを他菌種で発現させる試みなどを通じて、未だ機能性の不明である遺伝子群の役割や、脱窒反応全体の詳細な発現制御機構の解明が望まれる。また本研究により得られた知見は、今後の脱窒反応の人為制御への応用に役立つことが期待される。

図表
審査要旨

 近年、窒素酸化物の環境中への放出が、酸性雨や水質の富栄養化などの環境汚染を引き起こしており、生態系への悪影響が懸念されている。本研究は、そのような背景の下、窒素酸化物を窒素ガスへ変換する唯一の生物反応を担う脱窒菌に着眼し、脱窒反応のメカニズムを解明しようとする試みであり、環境微生物における基礎研究として重要なのみならず微生物による環境浄化の実用化の立場からも期待される研究である。

 第一章の序論では、研究の背景と意義について述べ、脱窒反応の解析を遺伝子レベルから行うことの重要性と有効性について述べている。特に、脱窒反応を担う酵素をコードする遺伝子群が、染色体上に近接して存在しており、スーパーオペロン構造を有している点からも、その解析により多くの知見が得られるであろうことを示唆している。

 第二章においては、緑膿菌Pseudomonas aeruginosa由来の脱窒遺伝子クラスターの全様解明を目的とした遺伝子構造の解析を行っている。約10kbの遺伝子構造の解析によって、これまでに報告のない8個の新規な遺伝子を同定し、それらがオペロン構造を有していることを推定している。

 第三章では第二章で同定した新規遺伝子の機能解明を試みており、その結果、7つの遺伝子が本菌の脱窒に必須な生体因子であるheme d1の生合成に必要不可欠であることを明らかにした。またホモロジー解析から、heme d1合成経路を推定しており、今後のheme d1合成経路の解明に役立つことが期待された。

 第四章では、脱窒反応発現調節機構の解明を試みている。脱窒反応は、好気条件下では発現が抑制され、嫌気条件下で発現が促進される。これまでの研究から、好気・嫌気の発現調節はANR転写調節因子によって制御されていると報告されているが、プロモーター領域への直接的な結合を確認した研究は無く、その調節メカニズムは不明であった。また脱窒遺伝子クラスター内に存在するdnr遺伝子の転写調節への関与も推察されていた。本論文では、脱窒反応の初反応酵素である亜硝酸還元酵素Nirの発現を指標として、anr、dnr両遺伝子の転写調節機構の解明を試みている。その結果、ANRによるNirの発現調節は直接的ではなく、DNRが直接的にNirの発現を調節することを明らかにした。また、DNRもANRと同様に、好気嫌気状態を認識することを、実験データから推定しているが、ANRに保存されるシステインクラスターを有しておらず、その認識機構に興味が持たれた。脱窒反応は、窒素酸化物の存在によっても反応が促進されるので、DNRがその役割を担っているのではないかと推定し、実験をおこなっている。その結果、DNRによるNirの発現調節が、亜硝酸の存在によって、オンオフされることを明らかにした。

 総括では、これまでに同定された緑膿菌由来脱窒遺伝子クラスターの全体像からの考察を行っている。本論文で明らかにした約10kbのnirオペロンを含めて、P.aeruginosaの脱窒遺伝子クラスターは、約20kbが明らかになり、Nirと一酸化窒素還元酵素Norの両反応を担うと推定される遺伝子領域の全体像が、ほぼ同定されたと考察される。しかし残念ながら、脱窒遺伝子クラスターを他菌種へ導入して発現させるという試みは、今後の研究課題として残されたが、もしこの遺伝子クラスターを、脱窒能力のない他菌種で発現させることが可能となれば、脱窒反応の人為制御による有効利用も近い将来可能となることが期待される。

 以上、本論文は、新規脱窒遺伝子クラスターの構造解析と、機能不明な遺伝子群の機能解明を行い、またこれまで不明であった酸素呼吸から脱窒反応への呼吸鎖の変換メカニズムの解明を行っており、学術上、応用上、貢献するところが少なくない。よって、番査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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