学位論文要旨



No 112729
著者(漢字) 木野内,忠稔
著者(英字)
著者(カナ) キノウチ,タダトシ
標題(和) アミロイド前駆体蛋白質の限定分解及び分泌と情報伝達系の関係
標題(洋)
報告番号 112729
報告番号 甲12729
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1792号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 助教授 吉田,稔
 東京大学 助教授 石浦,章一
内容要旨 1.はじめに

 アルツハイマー病は初老期から老年期にかけて発症する進行性の変性痴呆疾患である。アルツハイマー病患者の脳にはその特徴として、アミロイド蛋白質(Amyloid -protein、以下A)を核に持つ老人斑が観察されるが、現在のところ、このAの異常蓄積が神経細胞死の原因と考えられている。A自身は、より大きな前駆体蛋白質であるアミロイド前駆体蛋白質(Amyloid Precursor Protein、以下APP)の一部をなしており、アルツハイマー病患者の脳内では、APPのプロセシング異常によって生成され、蓄積するものと考えられている。即ち、正常なプロセシング状態では、APPはAドメインのほぼ中心付近で蛋白質分解酵素により切断を受け、結果としてAは蓄積せず、一方でAPPのN末端断片(secreted form of APP、以下sAPP)は細胞外に分泌される(図)。ところが、何らかの異常が細胞内で起こるとAPP内部のAドメインの両端で切断が生じ、Aの蓄積が起こる(このようなAPPの分解を担う酵素は、仮想的にAPPセクレターゼと呼ばれており、非アミロイド生産性の正常型分解を担うプロテアーゼを-セクレターゼ、Aドメインの両側でアミロイド生産性の異常型分解を担うプロテアーゼをそれぞれ-セクレターゼとしているが、未だ同定されていない)。このようにAPPの代謝様式には正常型と異常型の2種類の代謝経路が存在し、健常者の脳神経系細胞では正常型のプロセシングが優勢で、Aは蓄積しないように調節されていると考えられる。アルツハイマー病研究の初期においては、APPからのAの生成は、結果であって原因ではない、という考え方もあったが、後にミスセンス変異を起こしたAPP遺伝子による家族性アルツハイマー病の家系が多数発見され、それ以来APPはアルツハイマー病の最も根元的な原因蛋白質と考えられるようになった。現在では、正常型のAPPプロセシングによって生じたsAPPの分泌量と、異常なプロセシングによるAの生成量は、反比例の関係にあると考えられており、生理的条件下では、正常型と異常型の2種類の代謝経路は、何らかの制御系によって正常側にバランスが保たれていると思われる。こうしたことは、アルツハイマー病の発症機構が複雑に制御されていることを暗示しており、近年、我々のグループをはじめとして、世界的にアルツハイマー病を単なる蛋白質代謝疾患ではなく、情報伝達系などの不調による複合疾患としてとらえる傾向が出てきた。従って、sAPPはAPPプロセシングのマーカーとして、そのバランスの変化の検出に用いられている。

 以上の背景に基づき、本研究では、APPのプロセシング制御機構の解明こそ、アルツハイマー病の原因究明の第一歩と考え、最初に培養細胞レベルでのAPPプロセシングのモデル系の構築、プロセシングのバランスを正常型、もしくは異常型に変えるような因子を手がかりとして研究を進め、さらに創薬的考察を加える目的で以下の研究を行った。

図:代表的なAPPアイソフォーム、APP770とAPPセクレターゼによって生産されるAPP限定分解産物。-セクレターゼによるAPPの切断点を図中それぞれと示した。KPIドメイン:Kunitz型プロテアーゼインヒビタードメイン
2.正常型APPプロセシングのモデル細胞、ヒトグリオブラストーマA172細胞

 最初に私は、ヒトの神経系培養細胞株であるヒトグリオブラストーマAl72細胞が他の培養細胞系に比べ、内在性APPをspontaneousに多く発現しており、APPを放射性標識することなくその動態を観察可能であること、従ってAPPの代謝の指標である細胞外に分泌されるsAPPの分泌系を調べるのに非常に良い系であることを明らかにした。同時に、sAPPの検出系を構築し、この培養細胞系を利用することでAPPの代謝のバランスを変化させる以下の発見があった。1、血清を除去することにより、分化・形態変化と共に、正常時に比べより多くのsAPPを分泌する。2、ホルボールエステルをA172細胞に処理することによりsAPPの分泌量が著しく増加することが分かった。以上の結果は、細胞外における環境の変化が、細胞内におけるAPPの代謝様式の変化として応答する、即ち、APPプロセシングに積極的に作用する情報伝達経路の存在を強く示唆するものであった。

3.PKCカスケードの活性依存的sAPPの分泌

 A172細胞でホルボールエステルを培養細胞に処理するとsAPPの細胞外分泌量が増加することが明らかになり、細胞内におけるホルボールエステルのレセプターのひとつであるプロテインキナーゼC(Protein Kinase C以下、PKC)が活性化した結果ではないか、即ち、APPプロセシングの制御機構としてPKCカスケードの存在が考えられた。従って、PKCカスケードとsAPPの分泌のより直接的な証拠を得ると共に、数種類存在するPKC分子種のうち、どの分子種がAPPプロセシングの制御に関わっているのかを調べるために、最も良く研究が進んでいる代表的なPKC分子種を繊維芽細胞に過剰発現させた培養株を利用して、PKC分子種によるsAPPの分泌能力の違いについて検討した。実験に用いたのは、脳を含め多くの臓器に普遍的に発現しているカルシウム結合部位を持つPKC-、PKC-とほぼ同様の組織分布を持ちながらカルシウム結合部位を持たないPKC-、カルシウム結合部位を持たず脳と免疫系に発現しているPKC-の3種のPKCそれぞれ過剰発現している細胞である。その結果、PKC-がその活性化とともにsAPPの分泌を促進することが判明したが、はコントロールとほぼ変わらなかった。

 さらに、先述のA172細胞において、優勢に発現しているPKC-をそのアンチセンスDNAによって発現抑制したときのAPPプロセシングについて検討した。その結果、正常型APPプロセシングのマーカーであるsAPPの分泌量がコントロールに比べ80%減少し、PKCカスケードがAPPプロセシングに積極的にかかわっていることが明らかになった。しかしながら、PKCの発現阻害率に比して、sAPPの分泌は抑制されず、他の制御系の存在が示唆された。

4.APPプロセシングを制御するPKCカスケード以外の情報伝達系

 そこで、情報伝達経路の活性化・不活性化に着目し、研究を進めた結果、sAPPの分泌量を変化させる外的因子として、アラキドン酸カスケードを阻害する抗炎症剤(インドメタシン等)が効果的であることが分かった。特にアラキドン酸カスケードの構成分子であるシクロオキシゲナーゼ、リポキシゲナーゼの阻害は、その濃度に依存して顕著なsAPPの分泌量の減少を起こした。その原因として、両酵素の代謝産物であるエイコサノイドの生産量の減少が考えられたが、代表的なプロスタグランジン類、ロイコトリエン類を添加してみてもsAPPの分泌量に変化は観察されず、現在も検討中である。治療薬の開発やAPPの代謝機構の解明という観点から、培養細胞系に様々な薬剤を加えてsAPPの分泌量を変化させる試みが世界的に行われてきたが、これまでに報告のあった薬剤の中でsAPPの分泌量を大きく変えたのは発癌プロモーターであるホルボールエステルのみであるが、これは実際には人体に対して有害な薬剤である。従って、今回のように炎症の治療に用いられている薬剤を使用して、APPの代謝バランスの操作に成功したことは、今後のアルツハイマー病予防薬の開発に大きく貢献するものであり、また、アルツハイマー病の有力な原因の1つが脳内の炎症によるものであることを裏付けることとなった。

 さらに、プロテソーム阻害剤の投与により、sAPPの分泌亢進が観察され、同時に活性化型PKC-のダウンレギュレーションが阻害されていることが明らかになった。従って、プロテソーム阻害剤の効果は、細胞内情報伝達系分子の寿命を調節することによってAPPのプロセシングに関与していることが示唆された。

5.まとめ

 以上の結果はAPPの代謝・分泌に際し、PKCカスケード及びアラキドン酸カスケードという細胞内の主要な2つの情報伝達系が積極的に関与していることを強く示唆したものであった。さらに、プロテソームが活性化型PKCの寿命を制御していることが示唆され、APPプロセシングは、細胞内における複数の情報伝達系の活性化・不活性化という質的変化とともに、量的変化によって制御されていることも明らかとなった。現在は、APP結合蛋白質(APP-BP1)のAPPプロセシングに対する影響を検討中である。

審査要旨

 アルツハイマー病は初老期から老年期にかけて発症する進行性の変性痴呆疾患である。アルツハイマー病患者の脳にはその特徴として、アミロイド蛋白質(Amyloid -protein、以下A)を核に持つ老人斑が観察されるが、現在のところ、このAの異常蓄積が神経細胞死の原因と考えられている。A自身は、より大きな前駆体蛋白質であるアミロイド前駆体蛋白質(Amyloid Precursor Protein、以下APP)の一部をなしている。従って、APPの代謝様式には正常型と異常型の2種類の代謝経路が存在し、健常者の脳神経系細胞では正常型のプロセシングが優勢で、Aは蓄積しないように調節されていると考えられる。こうしたことは、アルツハイマー病の発症機構が複雑に制御されていることを暗示しており、近年、申請者をはじめとして、世界的にアルツハイマー病を単なる蛋白質代謝疾患ではなく、情報伝達系などの不調による複合疾患としてとらえる傾向が出てきた。

 以上の背景に基づき、申請者は、APPのプロセシング制御機構の解明こそ、アルツハイマー病の原因究明の第一歩と考え、最初に培養細胞レベルでのAPPプロセシングのモデル系の構築、プロセシングのバランスを正常型、もしくは異常型に変えるような因子を手がかりとして研究を進め、結論としてAPPプロセシングを制御する情報伝達系を同定し、抗炎症剤などの投薬により、アルツハイマー病の治療・発症予防についての創薬的可能性を述べている。

 まず、ヒトの神経系培養細胞株であるヒトグリオブラストーマA172細胞が、他の培養細胞系に比べ、内在性APPを多く発現しており、APPを放射性標識することなくその動態を観察可能であること、従ってAPP代謝の指標である細胞外に分泌される正常型APP分解断片、即ちsAPP(secreted from of APP)の分泌系を調べるのに非常に良い系であることを明らかにした。同時に、sAPPの検出系を構築し、A172細胞の培養外液から血清を除去すると、正常時より多くsAPPを分泌すること、A172細胞をホルボールエステルで処理することにより、sAPPの分泌量が著しく増加することを明らかにした。以上の結果は、細胞外における環境の変化が、細胞内におけるAPPの代謝様式の変化として応答する、即ち、APPプロセシングに積極的に作用する情報伝達経路の存在を強く示唆するものであった。

 ホルボールエステルによるsAPP分泌量の増加は、細胞内におけるホルボールエステルのレセプターのひとつであるプロテインキナーゼC(Protein Kinase C以下、PKC)が活性化した結果ではないかと考え、代表的なPKC分子種を繊維芽細胞に過剰発現させた培養株を利用して、PKC分子種によるsAPP分泌量の変化ついて検討した。その結果、PKC-がsAPP分泌量を増加することが判明した。

 さらにA172細胞において、優勢に発現しているPKC-をそのアンチセンスDNAによって発現抑制したときのAPPプロセシングについて検討した。その結果、sAPP分泌量がコントロールに比べ80%減少し、PKCカスケードがAPPプロセシングに積極的にかかわっていることが明らかになった。しかしながら、PKCの発現阻害率に比して、sAPPの分泌は抑制されず、他の制御系の存在が示唆された。

 そこで、情報伝達経路の活性化・不活性化に着目し、研究を進めた結果、sAPPの分泌量を変化させる外的因子として、アラキドン酸カスケードを阻害する抗炎症剤が効果的であることが分かった。アラキドン酸カスケードの構成分子であるシクロオキシゲナーゼ、リポキシゲナーゼの阻害は、その濃度に依存して顕著なsAPP分泌量の減少を起こした。

 さらに、プロテソーム阻害剤の投与により、sAPPの分泌亢進が観察され、同時に活性化型PKC-のダウンレギュレーションが阻害されていることが明らかになった。従って、プロテソーム阻害剤の効果は、細胞内情報伝達系分子の寿命を調節することによってAPPのプロセシングに関与していることが示唆された。

 以上の結果は、APPの代謝・sAPPの分泌に際し、細胞内の主要な2つの情報伝達系であるPKCカスケード及びアラキドン酸カスケードが積極的に関与していることを強く示唆している。さらに、プロテソームが活性化型PKCの寿命を制御していることが示唆され、APPプロセシングは、細胞内における複数の情報伝達系の活性化・不活性化という質的変化とともに、量的変化によって制御されていることも明らかとなった。

 以上、本論文は学術的のみならず、アルツハイマー病治療薬に対する創薬的な示唆に富んだもので、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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