アルツハイマー病は初老期から老年期にかけて発症する進行性の変性痴呆疾患である。アルツハイマー病患者の脳にはその特徴として、アミロイド蛋白質(Amyloid -protein、以下A)を核に持つ老人斑が観察されるが、現在のところ、このAの異常蓄積が神経細胞死の原因と考えられている。A自身は、より大きな前駆体蛋白質であるアミロイド前駆体蛋白質(Amyloid Precursor Protein、以下APP)の一部をなしている。従って、APPの代謝様式には正常型と異常型の2種類の代謝経路が存在し、健常者の脳神経系細胞では正常型のプロセシングが優勢で、Aは蓄積しないように調節されていると考えられる。こうしたことは、アルツハイマー病の発症機構が複雑に制御されていることを暗示しており、近年、申請者をはじめとして、世界的にアルツハイマー病を単なる蛋白質代謝疾患ではなく、情報伝達系などの不調による複合疾患としてとらえる傾向が出てきた。 以上の背景に基づき、申請者は、APPのプロセシング制御機構の解明こそ、アルツハイマー病の原因究明の第一歩と考え、最初に培養細胞レベルでのAPPプロセシングのモデル系の構築、プロセシングのバランスを正常型、もしくは異常型に変えるような因子を手がかりとして研究を進め、結論としてAPPプロセシングを制御する情報伝達系を同定し、抗炎症剤などの投薬により、アルツハイマー病の治療・発症予防についての創薬的可能性を述べている。 まず、ヒトの神経系培養細胞株であるヒトグリオブラストーマA172細胞が、他の培養細胞系に比べ、内在性APPを多く発現しており、APPを放射性標識することなくその動態を観察可能であること、従ってAPP代謝の指標である細胞外に分泌される正常型APP分解断片、即ちsAPP(secreted from of APP)の分泌系を調べるのに非常に良い系であることを明らかにした。同時に、sAPPの検出系を構築し、A172細胞の培養外液から血清を除去すると、正常時より多くsAPPを分泌すること、A172細胞をホルボールエステルで処理することにより、sAPPの分泌量が著しく増加することを明らかにした。以上の結果は、細胞外における環境の変化が、細胞内におけるAPPの代謝様式の変化として応答する、即ち、APPプロセシングに積極的に作用する情報伝達経路の存在を強く示唆するものであった。 ホルボールエステルによるsAPP分泌量の増加は、細胞内におけるホルボールエステルのレセプターのひとつであるプロテインキナーゼC(Protein Kinase C以下、PKC)が活性化した結果ではないかと考え、代表的なPKC分子種を繊維芽細胞に過剰発現させた培養株を利用して、PKC分子種によるsAPP分泌量の変化ついて検討した。その結果、PKC-とがsAPP分泌量を増加することが判明した。 さらにA172細胞において、優勢に発現しているPKC-をそのアンチセンスDNAによって発現抑制したときのAPPプロセシングについて検討した。その結果、sAPP分泌量がコントロールに比べ80%減少し、PKCカスケードがAPPプロセシングに積極的にかかわっていることが明らかになった。しかしながら、PKCの発現阻害率に比して、sAPPの分泌は抑制されず、他の制御系の存在が示唆された。 そこで、情報伝達経路の活性化・不活性化に着目し、研究を進めた結果、sAPPの分泌量を変化させる外的因子として、アラキドン酸カスケードを阻害する抗炎症剤が効果的であることが分かった。アラキドン酸カスケードの構成分子であるシクロオキシゲナーゼ、リポキシゲナーゼの阻害は、その濃度に依存して顕著なsAPP分泌量の減少を起こした。 さらに、プロテソーム阻害剤の投与により、sAPPの分泌亢進が観察され、同時に活性化型PKC-のダウンレギュレーションが阻害されていることが明らかになった。従って、プロテソーム阻害剤の効果は、細胞内情報伝達系分子の寿命を調節することによってAPPのプロセシングに関与していることが示唆された。 以上の結果は、APPの代謝・sAPPの分泌に際し、細胞内の主要な2つの情報伝達系であるPKCカスケード及びアラキドン酸カスケードが積極的に関与していることを強く示唆している。さらに、プロテソームが活性化型PKCの寿命を制御していることが示唆され、APPプロセシングは、細胞内における複数の情報伝達系の活性化・不活性化という質的変化とともに、量的変化によって制御されていることも明らかとなった。 以上、本論文は学術的のみならず、アルツハイマー病治療薬に対する創薬的な示唆に富んだもので、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |