学位論文要旨



No 112735
著者(漢字) 何,士慶
著者(英字)
著者(カナ) ホ,シンチン
標題(和) 神経軸索膜に存在する胎児期特異的な新規蛋白質NP-190に関する研究
標題(洋) Studies on the novel NP-190 protein that is specifically expressed in the axonal membrane during the embryonic period.
報告番号 112735
報告番号 甲12735
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1798号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 石浦,章一
内容要旨

 脳は、その数140億ともいわれる膨大な数の神経細胞同士が突起を伸ばし、シナプスを介して結合し、情報処理を行う複雑なシステムである。発生過程においては、個々の神経細胞から伸びる軸索は周囲の神経細胞や非神経細胞と細胞間相互作用を積み重ねることにより正確に標的の領域に誘導され、シナプスを形成する。近年、こうした軸索誘導に関与する分子が次々に明らかにされ、次第に神経回路網形成機構の全貌が明らかにされつつある。それらの知見によれば、軸索はまず拡散性因子に誘導されてその伸長方向を決定して標的の領域に投射し、続いてより局所的に作用する細胞膜・細胞外マトリクス成分の作用により正しい標的を認識してシナプスを形成するという。こうした軸索誘導に関与する因子には誘引性のものと反発性のものが知られており、両者の協調的な作用により精密な神経回路網の形成が保証されているものと考えられている。

 こうした過程において中心的な役割を果たすのが軸索の先端部の成長円錐と呼ばれる構造である。成長円錐は活発な運動性を有し、誘導因子から受け取った情報に基づいて細胞骨格系を制御することにより軸索経路を決定すると考えられている。このように成長円錐にはその機能に対応して、神経回路網形成時にのみ機能し、成熟したシナプス部には存在しない特異的な因子が存在することが予想される。本研究はこうした点に着目し、成長円錐に存在する新たな細胞表層因子を見いだし、その構造と機能を解析することにより神経回路網形成過程に関する基礎的な知見を得ることを目的として行った。

第一章モノクローナル抗体を用いた成長円錐特異的抗原分子の探索

 成長円錐画分と特異的に反応するモノクローナル抗体を取得するため、Pfenningerらの方法を参考にしてブタ胎児脳よりショ糖密度勾配遠心による分画を繰り返すことにより成長円錐粒子(growth cone particles;GCPs)を調製した。得られた画分に成長円錐が濃縮されていることは、抗GAP-43モノクローナル抗体を用いたウエスタンブロットにより確認した。GAP-43は成長期、あるいは再生中の神経細胞の成長円錐において細胞質膜の内側に局在することが知られている蛋白質である。次に調製したGCPsを抗原としてマウスを免疫してハイブリドーマを作製した。これらの培養上清から、成長円錐とは結合するが、成熟脳より調製したシナプトソームとは反応しないモノクローナル抗体を生産するクローンをELISA法によりスクリーニングした。この方法により、成長円錐画分に特異的な抗原を認識すると考えられるモノクローナル抗体を生産するハイブリドーマを3種類得た。ブタ胎児脳抽出液のウエスタンブロットをおこなったところ、これらはそれぞれ分子量230kDa、l90kDaおよび52kDaの蛋白質を認識することがわかった。

 次にこれら3種類の抗原蛋白質の生化学的性質を検討した。その結果、230kDaの蛋白質はほぼ胎児期の脳に特異的に発現する膜表在性の蛋白質であること、またその後の解析から細胞外マトリクスの構成成分であるテネイシンに類似した蛋白質であることが明らかとなった。また52kDaの蛋白質は微小管蛋白質画分に多量に存在することなどから、胎児脳に多いことが知られているタイプI-チューブリンであることが示唆された。一方190kDaの蛋白質に関しては、種々の検討から軸索および成長円錐の膜に局在する新規蛋白質であることが示唆された。以上、得られた3種類のモノクローナル抗体を用いた検討から、この190kDaの蛋白質(NP-190)が目的とする蛋白質であると判断し、以下の解析を行った。

第二章NP-190蛋白質の生化学的性質の解析

 ブタ脳抽出液を用いたウエスタンブロット解析から、NP-190蛋白質は成熟脳にも少量存在するもののほぼ胎児脳特異的な蛋白質であること、また心臓と骨格筋に僅かに検出される以外に他の臓器にはほとんど認められないことが明らかとなった。胎児脳抽出液を種々の条件で処理し可溶化条件を検討したところ、NP-190蛋白質は高濃度の塩、または高いpHでは可溶化されず、Triton X-100による抽出で可溶化されたことから、膜内在性蛋白質であると考えられた。次にモノクローナル抗体を用いブタ大脳皮質培養細胞におけるNP-190蛋白質の局在部位を予備的に検討したところ、神経細胞の軸索および成長円錐の膜に存在することが示唆された。

 抗NP-190モノクローナル抗体はブタ以外の動物種と交叉反応性を示さない。そこで抗体アフィニテイーカラムを用いて精製したブタNP-190蛋白質をマウスへ免疫し、抗NP-190ポリクローナル抗体を取得した。このポリクローナル抗体を用いたウエスタンブロット解析から、ラット、ニワトリ胎児脳においてもNP-190相同の分子量170kDa、200kDaの蛋白質が発現していることが認められた。またラット脳の発生各段階における発現量変化について調べたところ、胎生15日目から生後直後まではほぼ変化しないが、成熟脳では減少することが明らかとなった。ニワトリでも同様に胎生12日目から19日目まで一定であるが、生後は徐々に減少することがわかった。

 次に抗NP-190ポリクローナル抗体を用い培養ラット大脳皮質神経細胞の免疫組織化学染色を行った。その結果、NP-190蛋白質は細胞体(特に軸索起始部)および軸索に存在するが、樹状突起には認められず、また一部の細胞において成長円錐に存在することが明らかとなった。

第三章NP-190cDNAのクローニングとその解析

 抗体アフィニティーカラムを用いて精製したブタNP-190蛋白質をSDSゲルから切り出し、溶出した蛋白質をV8プロテアーゼにより切断してペプチド断片を得た。これらのうち、抗NP-190モノクローナル抗体と反応性を示した2つのペプチドについて部分アミノ酸配列を決定した。データベース検索の結果、有意な相同性を持つ蛋白質は認められず、本蛋白質が新規蛋白質であることが強く示唆された。

 次にNP-190蛋白質のcDNAの取得を試みた。ブタ胎児脳からグアニジン-超遠心法によりRNAを調製し、gt11上にランダムプライマーを用いてcDNA発現ライブラリーを作製した。抗NP-190モノクローナル、ポリクローナル抗体を用いて2.5×105クローンをスクリーニングしたところ、約1.8kbの挿入断片を持つ陽性クローンが2個得られた。その塩基配列を解析したところ、NP-190の部分アミノ酸配列のうちのひとつと一致する読み枠が認められ、これがNP-190cDNAの部分断片であると判断した。

 ノーザンブロット解析からNP-190のmRNAのサイズが約5kbであること、また得られた1.8kb断片の末端にAが16個連続して存在していたことから、この1.8kb断片がmRNAの3’端を含む領域であると予想した。そこで上流の配列を取得するため、1.8kb断片の5’端から約100bp内側の配列をプライマーとしてgt10ライブラリーを作製し、さらにスクリーニングを行った。2.8×105クローンを検索した結果、上流約2.2kbの断片が得られ、この配列の中に決定したアミノ酸配列のうちの残り一つが確認された。この2.2kb断片中の最も5’端側にあるATG配列の上流に、哺乳動物細胞において開始コドン近傍に認められる共通配列とほぼ一致する配列が認められたこと、またさらに上流にはGCリッチな領域が存在していたことなどから、このATGが開始コドンであることが強く示唆された。しかしcDNAから予想される分子量がSDSゲル上での見かけの分子量に比べ小さいことから、特に3’側に関しては取得したクローンがcDNA全長をカバーしているかどうかの確認が必要であると考えている。またコードするアミノ酸配列についてデータベース検索を行ったが、有意な相同性を有する蛋白質は認められなかった。

 以上、本研究ではモノクローナル抗体を用いて成長円錐画分に特異的な抗原を探索し、新規膜蛋白質NP-190を見出した。生化学的解析の結果、本蛋白質が細胞体および軸索膜に局在する胎児脳特異的蛋白質であることを明らかにした。また発現ライブラリーの検索からcDNAを取得し、その一次配列について解析を行った。今後は本蛋白質の発生初期の脳における機能を解析することにより、複雑な神経回路網形成の制御機構に関しての理解が深まるものと考えている。

審査要旨

 脳は、その数140億ともいわれる膨大な数の神経細胞同士が突起を伸ばし、シナプスを介して結合し、情報処理を行う複雑なシステムである。発生過程においては、個々の神経細胞から伸びる軸索は周囲の神経細胞や非神経細胞と細胞間相互作用を積み重ねることにより正確に標的の領域に誘導され、シナプスを形成する。近年、こうした軸索誘導に関与する分子が次々に明らかにされ、次第に神経回路網形成機構の全貌が明らかにされつつある。こうした過程において中心的な役割を果たすのが軸索の先端部の成長円錐と呼ばれる構造である。成長円錐は活発な運動性を有し、誘導因子から受け取った情報に基づいて細胞骨格系を制御することにより軸索経路を決定すると考えられている。著者は成長円錐に存在する新たな細胞表層因子を見い出し、その構造と機能を解析することを目的としてモノクローナル抗体を用いた検索を行い、本論文にまとめている。論文は序論、第一章、第二章、第三章および総括から成る。

 第一章はモノクローナル抗体を用いた成長円錐特異的抗原分子の探索に関するものである。

 著者は成長円錐画分と特異的に反応するモノクローナル抗体を取得するため、Pfenningerらの方法を参考にしてブタ胎児脳より成長円錐粒子(GCPs)を調製した。得られた画分に成長円錐が濃縮されていることは、抗GAP-43モノクローナル抗体を用いたウエスタンブロットにより確認した。次に調製したGCPsを抗原としてマウスを免疫してハイブリドーマを作製し、その培養上清から、成長円錐とは結合するが成熟脳より調製したシナプトソームとは反応しないモノクローナル抗体を生産するクローンをELISA法によりスクリーニングした。この方法により、成長円錐画分に特異的な抗原を認識すると考えられるモノクローナル抗体を生産するハイブリドーマを3種類得た。ブタ胎児脳抽出液のウエスタンブロットをおこなったところ、これらはそれぞれ分子量230kDa、190kDaおよび52kDaの蛋白質を認識した。

 次にこれら3種類の抗原蛋白質の生化学的性質を検討した。その結果、230kDaの蛋白質は細胞外マトリクスの構成成分であるテネイシンに類似した蛋白質であること、また52kDaの蛋白質はタイプI-チューブリンであることが示唆された。一方190kDaの蛋白質に関しては、種々の検討から軸索および成長円錐の膜に局在する新規蛋白質であることが示唆されたことから、この190kDaの蛋白質(NP-190)が目的とする蛋白質であると判断し、以下の解析を行った。

 第二章では、NP-190蛋白質の生化学的性質の解析結果について述べている。

 ブタ脳抽出液を用いたウエスタンブロット解析から、NP-190蛋白質は成熟脳にも少量存在するもののほぼ胎児脳特異的な蛋白質であること、また心臓と骨格筋に僅かに検出される以外に他の臓器にはほとんど認められないことを明らかにした。胎児脳抽出液を種々の条件で処理し可溶化条件を検討したところ、NP-190蛋白質は高濃度の塩、または高いpHでは可溶化されず、Triton X-100による抽出で可溶化されたことから、膜内在性蛋白質であると考えられた。次にモノクローナル抗体を用いブタ大脳皮質培養細胞におけるNP-190蛋白質の局在部位を予備的に検討したところ、神経細胞の軸索および成長円錐の膜に存在することが示唆された。

 抗NP-190モノクローナル抗体はブタ以外の動物種と交叉反応性を示さない。そこで抗体アフィニティーカラムを用いて精製したブタNP-190蛋白質をマウスへ免疫し、抗NP-190ポリクローナル抗体を取得した。このポリクローナル抗体を用いたウエスタンブロット解析から、ラット、ニワトリ胎児脳においてもNP-190相同の分子量170kDa、200kDaの蛋白質が発現していることが認められた。またラット脳の発生各段階における発現量変化について調べたところ、胎生15日目から生後直後まではほぼ変化しないが、成熟脳では減少することを明らかにした。ニワトリでも同様に胎生12日目から19日目まで一定であるが、生後は徐々に減少した。

 次に抗NP-190ポリクローナル抗体を用い培養ラット大脳皮質神経細胞の免疫組織化学染色を行った。その結果、NP-190蛋白質は細胞体(特に軸索起始部)および軸索に存在するが、樹状突起には認められず、また一部の細胞において成長円錐に存在することを明らかにした。

 第三章では、NP-190 cDNAのクローニングとその解析結果について述べている。抗体アフィニティーカラムを用いて精製したブタNP-190蛋白質をSDSゲルから切り出し、溶出した蛋白質をV8プロテアーゼにより切断してペプチド断片を得た。これらのうち、抗NP-190モノクローナル抗体と反応性を示した2つのペプチドについて部分アミノ酸配列を決定した。データベース検索の結果、有意な相同性を持つ蛋白質は認められず、本蛋白質が新規蛋白質であることが強く示唆された。

 次にNP-190蛋白質のcDNAの取得を試みた。ブタ胎児脳からグアニジン-超遠心法によりRNAを調製し、ランダムプライマーを用いてgt11上にcDNA発現ライブラリーを作製した。抗NP-190モノクローナル、ポリクローナル抗体を用いて2.5×105クローンをスクリーニングしたところ、約1.8kbの挿入断片を持つ陽性クローンが2個得られた。その塩基配列を解析したところ、NP-190の部分アミノ酸配列のうちのひとつと一致する読み枠が認められ、これがNP-190 cDNAの部分断片であると判断した。次いで上流の配列を取得するため、1.8kb断片の5’端から約100bp内側の配列をプライマーとしてgt10ライブラリーを作製し、さらにスクリーニングを行った。2.8x105クローンを検索した結果、上流約2.2kbの断片が得られ、この配列の中に決定したアミノ酸配列のうちの別の一つが確認された。この2.2kb断片中の最も5’端側にあるATG配列の上流に、哺乳動物細胞において開始コドン近傍に認められる共通配列とほぼ一致する配列が認められたことなどから、このATGが開始コドンであることが強く示唆された。しかしcDNAから予想される分子量がSDSゲル上での見かけの分子量に比べ小さいことから、特に3’側に関しては取得したクローンがcDNA全長をカバーしているかどうかの確認が必要である。またコードするアミノ酸配列についてデータベース検索を行ったが、有意な相同性を有する蛋白質は認められなかった。

 以上本論文はモノクローナル抗体を用いて成長円錐画分に特異的な抗原を探索し、その結果見出した新規軸索膜蛋白質NP-190に関する生化学的、分子生物学的解析結果を論じたもので、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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