ネコ免疫不全ウイルス(Feline immunodeficiency virus:FIV)は、1986年にアメリカで、エイズ様症状を呈したネコから初めて分離されて以来、世界各国でその感染が報告されており、全世界的な広がりが明らかになっている。また広範な疫学調査により、少なくとも1968年よりFIVが存在していたことが示された。FIVはヒトおよびサル免疫不全ウイルス(HIV、SIV)と同じレトロウイルス科レンチウイルス属に分類され、これらウイルスと生物学的あるいは遺伝子レベルで多くの相同性を有している。さらにヒトのエイズと同様に、FIVに感染したネコは、数年におよぶ長い潜伏期を経て、最終的にエイズ様の症状を引き起こすことから、獣医領域のみならず医学領域においても、ヒトのエイズの動物病態モデルとしての有用性が期待されている。レンチウイルスは構造蛋白あるいは酵素をコードする、gag、polおよびenv遺伝子を持ち、その他にウイルスの転写効率や粒子形成を調節する補助遺伝子をいくつか持っている。近年サルを用いたSIVの研究において、SIVの補助遺伝子の1つであるnefがエイズ発症に大きく関係していることが示された。病原性を持つSIVを接種されたサルはエイズ様の症状を呈し死亡したのに対して、そのSIVのnef遺伝子欠損変異株を接種されたサルは、ウイルスの増殖が抑えられエイズ様症状を示さず生残した。さらにnef遺伝子欠損変異株を接種されたサルに親株であるSIVで攻撃したところ、顕著な感染防御を示し、ワクチンとしての効果が報告された。さらに、最近ヒトにおいて、HIVが感染しているにもかかわらず、長期にわたりエイズを発症せず健康状態を保っている症例(いわゆるlong-term nonprogressors:LTNPs)が報告され、LTNPsにおけるHIVの遺伝子を解析した結果、一部でnef遺伝子が欠損していた。さらに他のLTNPsに関する報告では、HIVのいくつかの補助遺伝子に変異が存在していた。これらのことから、レンチウイルスの補助遺伝子は、エイズ様症状発現に重要な役割の一部を担っていることが示唆された。 一方、FIV遺伝子の両端に位置するlong terminal repeat(LTR)内には、ウイルスの転写に関与し、細胞性またはウイルス性の蛋白が結合する部位がいくつか存在し、マウスに白血病を引き起こすmurine leukemia virusは、そのLTRが病原性発現に深く関連することが報告されている。 しかし、FIVの病原性発現のメカニズムや、生体内における各遺伝子の機能についてはいまだ不明な点が多い。FIVにおいても各遺伝子の生物学的機能、またウイルス複製と宿主側の免疫応答との関係などを明らかにすることで、FIVのウイルス学的な知見を深めるのみならず、FIVの病原性発現あるいは抑制メカニズムの解明が期待できる。また、臨床的にもFIV感染予防や治療、あるいはワクチン開発、さらに発展し、ヒトのHIV感染対策に応用可能な基礎的な知見が得られる。そこで、生体内でのFIVの各遺伝子の機能の解明を目的として、遺伝子を欠損させた変異株をネコに接種しその役割の解析を行った。しかし、この研究を始めた時点では、FIV感染ネコにおけるウイルス複製、および宿主の免疫応答を総合的に評価するために適用できる評価系が存在しなかった。そのため、まず始めに、ウイルスの定量系、中和抗体価の測定法の確立を試み、生体内でのウイルス量、および中和抗体価の推移について検討した。 本論文は以下の3章より構成されている。 第1章FIV感染ネコの末梢血単核球におけるproviral DNAの定量 末梢血単核球(peripheral blood mononuclear cell:PBMC)に組み込まれたFIVのproviral DNAをPCR法を用いて定量的に評価することを目的とし、数種類のプライマーを、FIV TM2株の塩基配列をもとにデザインし検討した。FIV TM2株由来クローンであるpTM219を鋳型として、これらのプライマーをそれぞれ組み合わせてPCRを行ない、少なくともFIV proviral DNA101copyまで検出できるプライマーの組み合わせを選択した。次に、FIV TM1、TM2およびPetaluma株を実験感染させたネコ、さらに非感染ネコのPBMCからDNAを抽出し、このプライマーペアーを用いてPCRを行なった。FIV TM1およびTM2株感染ネコにおいては特異的なDNAが増幅されたが、非感染ネコおよびPetaluma株感染ネコでは増幅されなかった。日本の分離株であるTM1およびTM2株は、Petaluma株を含むアメリカおよびヨーロッパの分離株と遺伝的に大きく異なっている。そのため、このプライマーはTM2タイプのFIVの検出に有効であると思われた。さらに、同じ条件で臨床症状が異なる野外のFIV自然感染ネコ4匹と非感染ネコ2匹のPBMCからDNAを抽出し、同様にPCRを行なった。その結果、全てのFIV感染ネコで特異的なDNAが増幅され、野外のネコでもその有効性が確認された。次にpTM219を用いたPCRにより標準曲線を作製し、FIV感染ネコにおけるproviral DNAの定量を試みた。PCRで検出できなかったPetaluma株感染ネコ以外の全てのネコでFIV proviral DNAのコピー数が定量でき、新しいFIVの定量系を確立した。しかしながら、定量可能だったこれら6匹のネコではコピー数が、105PBMCあたり104・0から105.7と様々で、症状とFIVのコピー数の関係については明らかにできず、さらに多くのネコを用いて、病期ごとにネコを分類し、症状とウイルス量の関係を解明していく必要があると思われた。 第2章FIV感染ネコの長期間にわたる高い中和抗体価の維持 これまでに報告されたFIVに対する中和抗体を測定する試験法の多くは、ネコ腎由来株化細胞であるCRFK細胞を用い、細胞変性効果やプラック形成単位、上清中のウイルス抗原量あるいは逆転写酵素量により評価していた。しかし、本論文中を通して使われるTM2株をはじめ、FIVの多くの分離株はCRFK細胞に感染しない。そのため、中和抗体を測定するためにはTリンパ球系の株化細胞が用いられるか、あるいは試験ごとに非感染ネコからPBMCを分離するなど煩雑な準備を必要とした。 そこで、FIVに高感受性のネコリンパ芽球株化細胞であるMYA-1細胞を用いて、逆転写酵素の産生阻害を指標とした、新しい中和抗体価を測定する試験法の確立を試みた。最適なウイルス量と抗体との反応時間を決定した後、FIV実験感染初期におけるネコ3匹の中和抗体価の推移を検討したところ、接種後12週から中和抗体価が検出され始めた。次に、FIV接種後7年を経過したネコ2匹においてストックしてある血清を用いて長期の中和抗体価の推移を経時的に検討した。接種後約30週まで中和抗体価は上昇し続け、その後高い抗体価を7年間維持していることが明らかとなった。これら2匹は現在でも長い無症状潜伏感染の状態であり、高い中和抗体価により発症が抑制あるいは遅延している可能性が示唆された。 第3章感染初期におけるFIV補助遺伝子およびAP-1結合部位の生体内での役割 FIVは補助遺伝子として、vifおよびORF-A遺伝子、さらに、LTR内には転写を促進する細胞性蛋白の1つであるAP-1の結合部位の存在が明らかになっている。しかし、in vitroでのこれら補助遺伝子や結合部位の解析は進められているものの、in vivoでの解析は行われていない。そこで、FIV感染初期のネコにおいて、vif、ORF-AおよびAP-1結合部位は、ウイルスの複製あるいは宿主の免疫応答に対して実際にどのような役割をしているのかを検討した。TM2株のクローンウイルスである親株と、vif、ORF-A、およびAP-1結合部位をそれぞれ欠損させた変異株をそれぞれ3匹ずつSPFネコに接種し、第1章および第2章で確立した系を用いて16週間経時的に、FIVのコピー数、抗体および中和抗体、リンパ球のCD4/CD8比、ウイルス分離、組織変化を比較した。その結果、vif変異株接種群では、全てのネコでPCR法により感染が確認されたものの、ウイルスはほとんど増殖せず、16週後2匹においては定量限界以下であった。全期間を通じ、ウイルスは全く分離できず、弱い中和抗体が1匹からのみ検出された。リンパ球のCD4/CD8比および組織への影響も極めて少なかった。ORF-AおよびAP-1結合部位変異株接種群ではウイルスは分離できたが、ウイルスの増殖性は親株よりも弱く、抗体および中和抗体の誘導、CD4/CD8比の減少および組織変化も親株と比べ緩やかだった。ORF-AとAP-1結合部位変異株とを比較すると、AP-1結合部位変異株の方が、ウイルスの増殖性、免疫応答および組織変化において親株に近い性状を示したのに対して、ORF-A遺伝子欠損変異株では、ウイルスの増殖性に大きな影響を与えることが示された。以上の結果より、生体内でvif、ORF-A遺伝子およびAP-1結合部位は、ウイルスの増殖性あるいは感染性に重要な役割を果たし、宿主の組織や免疫応答に影響を与えている可能性が示唆された。 本研究により、FIVのウイルス量、免疫応答を評価するうえで有効な、2つの新しい実験系が確立された。また、FIVのvif、ORF-AおよびAP-1結合部位は生体内でのウイルスの効率的な複製に重要であり、病原性発現に関与している可能性が示唆された。これらの結果はFIVの病原性の解明に有用な知見を与え、今後さらなる発展が期待される。 |