猫白血病ウイルス(Feline Leukemia Virus,FeLV)はレトロウイルス科に属するウイルスであり、猫の間で水平伝播し、胸腺型リンパ腫をはじめとする種々の造血器腫瘍を引き起こすことが知られている。FeLVが造血器腫瘍を発生させる際にはプロウイルスの両端に存在するlong terminal repeat (LTR)のプロモーターあるいはエンハンサーが組み込み部位近傍の細胞遺伝子の発現を増強もしくは変化させることが重要であると考えられる。またLTRは、ウイルス遺伝子発現の調節を行っており、腫瘍の細胞特異性ならびに病原性と深く関わっていることが知られている。これまで、猫の胸腺型リンパ腫において、myc遺伝子領域へのFeLVの組み込みならびに、myc遺伝子のtransductionが報告されてきたが、最終的に悪性腫瘍にまで進行するためにはmyc遺伝子の活性化以外に更なる癌関連遺伝子の変化が必要であることをが示されている。そこで、本研究においては、猫の造血器腫瘍発生に関与する分子機構として中心的な役割を果たすプロウイルスの組み込みによる遺伝子発現の変化(insertional mutagenesis)に焦点をあて、ウイルス遺伝子および細胞遺伝子の両面から分子生物学的解析を行った。第一章においてはFeLV共通組み込み領域であるfit-1領域のgenomic cloneの単離および組み込まれているFeLVプロウイルスLTRの構造について述べ、第二章においては猫の自然発生胸腺型リンパ腫における癌遺伝子の構造異常について追求する。また、第三章においては胸腺型リンパ腫由来FeLV LTRの構造と機能について、第四章においては急性骨髄性白血病(AML)由来FeLVLTRの構造と機能について述べ、それらの腫瘍化における役割を検討した。 第一章fit-1領域のgenomic cloneの単離およびその性状 正常猫末梢血単核球DNAをSau3A部分消化後、10-20kb分画のDNAをFIXIIベクターに挿入して得られたgenomic libraryから、polymerase chain reaction(PCR)で得られた650bpのfit-1特異的フラグメントをプローブに用いてプラークハイブリダイゼーションを行った。その結果約16kb(58A3)および17.3kb(301B2)の2クローンを単離することができた。これらのクローンは、fit-1領域の18kbをカバーするものであり、そのうち15kbの領域は重なり合うものであった。つぎにfit-1領域へのFeLV組み込みが認められるネコの胸腺型リンパ腫由来細胞株(FT-1、FT-G)を用い、fit-1 genomic cloneから得られた8種のプローブによるノザンブロット分析を行ったが、明らかな転写産物は認められなかった。fit-1 genomic cloneを用いて、zoo blot解析を行ったところ、ヒト、アカゲザルおよび犬のDNAにおいて明瞭なバンドが認められたことから、fit-1領域は哺乳類間で比較的保存されていることが明らかとなった。また、FT-1細胞のfit-1領域に組み込まれているプロウイルスLTRのクローニングを行ったところ67bpのエンハンサーが3回繰り返した構造を有していることが明らかとなり、その構造はmyc領域に組み込まれているものと同一であった。本研究によって、myc遺伝子と協調して腫瘍化に働くと考えられるfit-1領域のgenomic cloneを単離することができ、そこに組み込まれているFeLV LTRが遺伝子の転写活性化に深く関与することが示唆されたが、得られたcloneに由来する転写産物は認められなかった。したがって、得られたcloneよりも遠位に存在する遺伝子の活性化が想定されたため、今後これらfit-1 genomic cloneを用いたgene walkingによって活性化される遺伝子を同定して行く必要があるものと考えられた。 第二章自然発生胸腺型リンパ腫における癌遺伝子の異常 血漿中FeLV抗原陽性の自然発生胸腺型リンパ腫症例11例の腫瘍細胞から高分子DNAを抽出し、4種の癌遺伝子(c-myc、bmi-1、pim-1およびfit-1)の遺伝子クローンをプローブにしてサザンブロット分析を行った。その結果、mycプローブを用いて解析したところ11例中5例において異常が認められ、その5例中3例はc-mycへのFeLVプロウイルスの組み込み、2例はmyc遺伝子のFeLVへのtransductionによるものであった。またその11例中、bmi-1およびpim-1へのFeLV組み込みが、それぞれ1例に認められ、fit-1領域へのFeLV組み込みが2例に認められた。これら各遺伝子の異常の関連を検討した結果、bmi-1、pim-1、fit-1に異常が認められた症例では、いずれもmycの異常を伴っていた。つまり、症例1ではmycとbmi-1、症例2ではmycとpim-1、症例3および5ではmycとfit-1の両方の遺伝子にFeLVの組み込みによる再構成が認められた。このように、FeLVによる自然発生胸腺型リンパ腫において複数の癌遺伝子に異常が認められ、また各癌遺伝子の異常は相互に関連することから、これら腫瘍は多段階発癌の過程を得て発生したものと推定された。さらに、myc遺伝子の異常と予後との関連を調べたところ、1例を除いて、いずれも生存期間は2ヶ月以内であり、生存期間の中央値は48日であったことから、myc遺伝子の異常がある症例は予後が悪いことが示唆され、これら腫瘍における分子レベルでの分析は、治療ならびに腫瘍の分類にも役立つものと考えられた。 第三章胸腺型リンパ腫由来FeLV LTRによる遺伝子発現調節の解析 FeLV LTRのプロモター活性を測定するため、chloramphenicol acetyltransferase(CAT)遺伝子にLTRを連結させたプラスミドを用いたtransient expression assayを行なった。FT-1細胞において、c-myc上流に組み込まれているFeLVプロウイルスクローン由来でエンハンサーが3回繰り返した構造を有するLTR(pFTLTR)、低病原性FeLVから単離されたpFGA5クローン由来で1エンハンサーのみを持つLTR(Glasgow-1LTR)およびpFTLTRから得られた変異株で1エンハンサーのみを持つLTR(pFTLTR1E)を、猫の腎臓由来線維芽細胞株(CRFK)、猫の胸腺型リンパ腫由来T細胞株(FT-1)および、ヒトT一細胞株(Jurkat)にtransfectし、プロモーター活性を測定した。LTRのプロモーター活性は、pFTLTR、pFTLTR1E、Glasgow-1LTRの順に高く、それぞれの差はいずれも有意であった。一方、CRFK細胞においては、pFTLTR、pFTLTR1EおよびGlasgow-1LTRはほぼ同様のプロモーター活性を示した。このようにT細胞においてエンハンサーの繰り返し配列がその転写活性に有効に機能していることから、エンハンサーの繰り返し配列を持つFeLVは、T細胞指向性を示し、その組み込みによって、近傍の細胞遺伝子の転写を著しく増強することが示唆された。また、pFTLTR1Eのプロモーター活性はGlasgow-1LTRのそれよりも高いことから、pFTLTRにはT細胞特異的なcis-elementが存在することが示唆された。さらに、FeLVのエンハンサー領域におけるLVb,SV40CORE,NF1,GREおよびFLV-1siteに変異を入れたLTRを構築し検討したところ、いずれにおいてもプロモーター活性の著しい低下が認められたため、これら転写因子結合部位がいずれもFeLVのプロモーター活性に影響を及ぼすpositive elementであることが明らかとなった。 第四章急性骨髄性白血病(AML)由来FeLV LTRの構造および機能の解析 FeLV抗原陽性のAML8例および胸腺型リンパ腫4例から腫瘍細胞を採取し、polymerase chain reaction(PCR)法を用いて3’LTRのクローニングを行い、塩基配列を決定した。塩基配列を解析した結果、AMLに特徴的なLTRの構造を見出すことができた。AMLの8例中5例において、エンハンサー上流の領域(URE,upstream region of enhancer)において、42から75baseから成る配列が2-5回繰り返しており、これらUREの繰り返し配列は胸腺型リンパ腫由来FeLVや既知のFeLVには認められなかった。AML由来FeLV LTRのすべてにおいて胸腺型リンパ腫において見い出されるエンハンサー領域の繰り返し配列は認められず、またエンハンサー領域の変異および欠失がしばしば認められた。またAMLの1例において、エンハンサー下流域(DRE、downstream region of enhancer)に42-bpの繰り返し配列が認められた。つぎに、AMLおよび胸腺型リンパ腫由来FeLVのLTRをCAT遺伝子に連結させたプラスミドを構築し、そのプロモーター活性をヒトの造血系細胞株を用いて評価した。ヒトT細胞株(Jurkat)では、AML由来LTRのプロモター活性は胸腺型リンパ腫由来LTRのそてと比較して、明らかに低値を示した。一方、ヒト骨髄性白血病由来細胞株であるTHP-1、K562を用いた場合、AML由来LTRのプロモーター活性は高値を示した。とくに、THP-1細胞におけるプロモーター活性は、UREおよびDREのコピー数に依存して高値を示すことが明らかとなった。さらに、URE繰り返し配列をエンハンサーを持たないCATベクターに連結させ、エンハンサー活性を調べたところ、UREの繰り返し構造を持つAML由来LTRはTHP-1細胞においてきわめて強いエンハンサー活性を示し、その活性は繰り返し構造の数に依存していた。以上の結果、猫のAMLにおいては特徴的なLTRを有するFeLVが存在し、そのLTRは骨髄由来細胞において強いプロモーターおよびエンハンサー活性を示すことが明らかとなった。 以上の研究結果から、myc、bmi-1、fit-1、pim-1といったな細胞遺伝子へのFeLVプロウイルスの組み込みによる遺伝子発現の変化によって、胸腺型リンパ腫が多段階的に惹起されることが示された。また、T細胞系腫瘍である胸腺型リンパ腫および骨髄系腫瘍であるAMLの発生において、FeLV LTRの特異な構造が細胞特異性を決定し、またその発生に関与していることが明らかとなった。本研究は、猫の造血器腫瘍におけるFeLVのinsertional mutagenesisの重要性を明らかにするものであり、ウイルス遺伝子による細胞遺伝子の発生の変化に関してきわめて興味ある知見を提供するものと考えられた。 |