ネコ免疫不全ウイルス(FIV)は、免疫不全様の症状を示したネコから1987年に初めて分離された。FIVはヒト免疫不全ウイルス(HIV)と同じ、レトロウイルス科、レンチウイルス属のウイルスで、感染ネコにヒトのHIV感染症と類似した臨床症状や免疫異常を引き起こすことから、その感染症はHIV感染症の重要な動物モデルと考えられている。一方、FIVはアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本など世界中に広く蔓延しており、とくに日本においては、その感染率が高いことが報告されている。そのため、飼いネコの間にみられるFIV感染症は小動物臨床の分野において極めて重要な問題となっている。 FIVの遺伝子構造は全体的にはHIVのそれと類似しているが、FIVには、tatやnefといったHIVに存在するアクセサリー遺伝子が欠けている。またHIVの主要なレセプターがCD4分子であるのに対し、FIVではCD4がそのレセプターの機能を示さないことが知られている。これらの相違にも関わらず、FIV感染ネコに見られる病態はHIV感染のそれと類似している。高ガンマグロブリン血症、末梢血CD4+リンパ球の減少、リンパ球表面のMHC classII抗原およびIL-2レセプターの発現の増強、感染初期におけるリンパ節の過形成と病期の進行に伴うリンパ節の萎縮と退行、および数年にわたる無症状期とその後の免疫不全症への進展など、多くの免疫学的異常がFIVおよびHIV感染症に共通して認められる。HIV感染症においてウイルスの分子生物学的な解析の発展にも関わらず、その病態の理解は遅れており、FIV感染の病態を比較、解析することにより、HIV感染症の病態の理解に有用な知見が得られるものと考えられる。FIV感染の制圧という点においても、その病態と病期の進行の解析が必要とされている。本論文では、FIV感染症の病態と病期の進行に焦点をあて、第1章では、FIV感染症の遺伝子診断法を確立し、第2章および第3章ではFIV感染症の病態に深く関わるアポトーシスについて研究し、第4章ではFIVの各サブタイプのエンベロープ蛋白の発現と精製を行った。 本論文の第1章では、FIV感染を迅速かつ正確に診断するために、polymerase chain reaction(PCR)法を応用した遺伝子診断法を確立した。FIV感染の診断は主として血中の抗ウイルス抗体の証明によって行われる。しかし、感染初期で抗体価の上昇がない場合やFIV感染の母ネコからの移行抗体が存在する新生ネコなどの場合では免疫学的な手法では診断が困難である。さらに今後期待されるワクチン開発やその応用に際して、免疫学的な手法に変わる遺伝子診断法が必要と考えられる。FIVの遺伝子診断の方法としては、末梢血中の血液細胞に組み込まれたプロウイルスDNAを増幅するPCR法が、容易で汎用性に優れていると考えられた。しかし、FIVはHIVと同様に変異に富むため、異なるサブタイプに属するFIVを効率よく増幅するプライマーペアを作成する必要がある。そこで、サブタイプAおよびBに属するFIVの塩基配列をもとにミックスプライマーペアを設定し、外側および内側の2組のプライマーペアによるnested PCRによる増幅を行った。その結果、異なるサブタイプのウイルスを感染させた実験感染ネコの血液中のプロウイルスを検出することに成功した。さらに、FIV抗体陽性の臨床例11例についても同様にPCR法を行ったところ、すべての症例で特異的なFIVの増幅が認められた。今回の研究で用いた方法は、比較的容易で、感度、特異性の点でも優れており、抗体によるFIVの診断が困難な場合にも広く応用することが可能であると考えられた。 HIV感染FIV感染によって引き起こされる免疫不全症は、リンパ球の減少を原因とする免疫システムの崩壊に起因すると考えられている。しかし、生体内で実際にウイルスに感染している細胞はリンパ系細胞の1%未満であり、リンパ球の減少はウイルスによる直接的な細胞の破壊やCTL細胞による感染細胞の特異的な除去以外の機序によって起きていることが想定される。そこで第2章および第3章では、FIV感染で見られるリンパ球減少の機序として、アポトーシスの関与について検討した。以前の研究で大野らは、ネコの線維芽細胞株CRFK細胞にFIVを持続感染させるとTNF-依存性のアポトーシスが誘導されることを報告している。本論文の第2章では、大野らの研究をさらに進め、CRFK細胞をアポトーシスの標的細胞として用い、アポトーシスを促進する液性因子に関する研究を行った。その結果、FIV感染CRFK細胞の培養上清を標的細胞に添加すると、TNF-依存性のアポトーシスが促進されることが明らかとなり、FIV感染細胞からアポトーシスを促進する因子が産生されていることが示された。さらにFIV感染ネコ6頭の血漿を1%の濃度でCRFK細胞の培養液に添加した場合には、非感染ネコ6頭の血漿を添加した場合に比較して、TNF依存性のアポトーシスが有意に促進されることを見出し、FIV感染ネコにおいてもアポトーシスを促進する因子が産生されていることが示唆された。また第3章では、FIV感染ネコからリンパ球を分離し、無刺激で短期間の培養を行いアポトーシスの観察を行った。その結果、FIV感染ネコのリンパ球は非感染ネコのリンパ球にくらべ、アポトーシスを起こして死滅する細胞の割合が有意に高かった。とくに臨床上、重篤な免疫不全様症状を呈していた3例では、高率にリンパ球のアポトーシスが観察された。また、アポトーシスにより死滅する細胞のポピュレーションについて、フローサイトメトリーにより解析した結果、今回観察されたアポトーシスがCD4+細胞のみでなく、CD5+細胞やsIg+細胞などにおいても認められ、このアポトーシスがFIV感染細胞に特異的なものではなく、非感染細胞にも見られることが示唆された。この結果は、FIV感染ネコのリンパ球は、生体内ですでにアポトーシスを起こしやすいような状態にあり、環境の変化により容易にアポトーシスを起こし死滅していくことを示唆している。第2章および第3章の結果から、FIV感染により生体内でアポトーシスを促進する因子が産生されること、また実際に、FIV感染ネコのリンパ球はアポトーシスを起こしやすい状態にあることが明らかになり、二次感染などの刺激により、血中TNF濃度が上昇すると、FIV感染ネコのリンパ球は容易にアポトーシスにより死滅する可能性が示され、FIV感染ネコに見られるリンパ球の減少にアポトーシスが深く関わることが示唆された。 FIV感染症の病態を理解するためにはウイルスと宿主の相互作用の解析が不可欠である。FIVのエンベロープ蛋白は、このウイルスと宿主の相互作用において最も重要な役割を担うと考えられる。エンベロープ蛋白には、中和抗体のエピトープや細胞障害性T細胞に認識される抗原部位が含まれ、宿主側の免疫反応を惹起する主要な抗原となっている。その他にもエンベロープ蛋白は、ウイルスの細胞親和性を決定すること、リンパ球のアポトーシスへの感受性を高めること、またリンパ球を非特異的に活性化する特殊な生理活性があることが報告されている。以前、西村らは、日本各地の自然感染例から採取したFIV遺伝子の系統解析を行い、日本の飼いネコの間に、FIVサブタイプA、B、C、Dのこれまで報告されているすべてのサブタイプが蔓延していることを明らかにした。第4章では、A、B、C、Dの各サブタイプのエンベロープ蛋白のV3からV4領域を含む蛋白の発現、精製を試みた。これら各サブタイプのエンベロープ蛋白のV3からV4をコードする遺伝子断片を増幅し、pGEX4T-3発現ベクターに組み込み、Glutathion S-Transferaseとの融合蛋白として大腸菌での発現を行った。その結果、約45kDaの融合蛋白の発現が確認され、精製と濃縮を行った結果、総量として約10mgの各サブタイプの融合蛋白を得ることができた。得られた融合蛋白は、FIV抗体陽性ネコの血漿と特異的な反応を示し、抗原性を保存していることが明らかになった。本研究により得られた蛋白は、サブタイプ間での抗原性の相違、とくに異なるサブタイプ間でのワクチンの有効性の研究に有用であると考えられるが、未だ同定されていないFIVレセプターの研究や、FIVのエンベロープ蛋白の持つ特殊な生理活性と病態との関連などにも応用できるものと考えられた。 本研究では、FIV感染症の病態と病期の進行に焦点をしぼり、一連の研究をおこなった。第1章で確立した診断法は、今後の予防法の開発においても必要と思われる診断法であり、第2章および第3章では、リンパ球の減少にアポトーシスが関与していることを示し、病態の本態と考えられるリンパ球の減少の機序を理解する上で有用な知見が得られた。また、第4章で、得られたエンベロープ蛋白は、有効なワクチンの開発に際しとくに有用である。FIV感染症およびHIV感染症の制圧にむけて、有効な診断法、治療法、予防法の開発は急務である。本研究では、これらに有益な知見を提供するものと思われる。 |