様々な刺激に応答した特定の遺伝子の速やかな発現が、中枢神経細胞でみられる。刺激の直後から一過性かつ大量に発現する前初期遺伝子は、刺激の数分後から発現が誘導され、その際に新たな蛋白合成を必要としない。前初期遺伝子の中には、転写因子をコードするものがある。zif268,c-fosをはじめとするこれら転写因子は、前初期遺伝子に引き続いて発現する遺伝子の発現制御を行うと考えられる。 適切なタイミングで適切な遺伝子が発現することが、発生における細胞の運命決定には必須の条件である。学習・記憶の際に新たな神経回路が形成されると考えられるが、このような神経の長期的な変化においても適切なタイミングの遺伝子発現が必要といわれている。この点、学習・記憶の過程と発生過程との類似性が考えられる。 アメフラシ、ショウジョウバエなど様々な動物を用いた研究から、長期記憶に対応する細胞レベルのプロセスに、新規の蛋白合成が必要であることが示されている。人工的に誘導できる長期増強(LTP)や長期抑圧(LTD)は、長期記憶の細胞レベルのモデルと考えられている。RNA合成阻害剤処理により、LTPの持続時間が短縮する。このことからLTPの維持に特定の時期の新規のRNA合成が必要と考えられる。zif268遺伝子はLTPと相関して発現する転写因子をコードする前初期遺伝子であり、この遺伝子のLTPにおける役割が注目されている。 本論文は、ラット褐色細胞腫由来のPC12D細胞(PC12の亜株)におけるzif268遺伝子の発現に関わる細胞内情報伝達系と転写調節エレメントについて調べたものである。 1)ムスカリン性アセチルコリン受容体(mAChR)を介してzif268遺伝子を発現させる細胞内情報伝達経路 PC12D細胞では、無刺激下ではzif268 mRNAは検出されないが、ムスカリン受容体(mAChR)アゴニストのカルバコールの投与で大量かつ一過性のzif268 mRNAの発現が見られる。PC12細胞にはm4サブタイプのmAChR mRNAのみ存在するとの報告があるが、PC12D細胞ではm4に比べて少量ながらm1 mRNAも発現していることが分かった。ヘビ毒由来のm1特異的なアンタゴニストであるm1-Toxin前処理によって、カルバコールによるzif268mRNA発現が完全に抑えられた。このことからm1 AChRを介してzif268 mRNAの発現が促進されることが分かる。また、カルバコールによるPIP2代謝促進及びzif268 mRNA発現促進の用量-作用曲線はほぼ等しかった。PIP2代謝活性化はDAG産生からPKC活性化、IP3産生から細胞内へのCa2+放出につながる。PKC特異的な阻害剤であるGF109203Xの前処理によって、カルバコールによるzif268 mRNAの発現が部分的に抑制された。このことからzif268 mRNA発現に対するPKCの一定の寄与が考えられる。GF109203X抵抗性のzif268 mRNA発現は、さらにEGTAを加えることで消失した。EGTA存在下では、カルバコール投与による細胞内Ca2+ストアからの一過性のCa2+の放出に引き続く細胞外からのCa2+流入が抑えられた。以上より、m1 mAChR活性化によるPKC活性化及び細胞外からのCa2+流入それぞれが、部分的に独立にzif268 mRNAの発現促進に寄与すると結論した。また、細胞内のCa2+ストアからの一過性の放出だけではzif268 mRNAの発現には不十分であり、引き続き細胞外からCa2+が流入して細胞内Ca2+濃度が上昇し続けることが発現に必要であることも分かった。 2)mAChRによるカルシウム流入調節の解析 上記の結果を踏まえ、PC12D細胞におけるmAChR活性化によるCa2+流入機構の解明を目的として、Fura-2蛍光測定法を用いて細胞内Ca2+濃度を調べた。mAChRの活性化によって、細胞内Ca2+ストアからの放出と、それに引き続く細胞外からの流入による持続的なCa2+濃度上昇が起こる。PC12の亜株であるPC12-64細胞におけるmAChR活性化による細胞内へのCa2+流入は、細胞内Ca2+ストアが空になることに引き続くCa2+流入である"capacitative entry"と、受容体が直接作用する"receptor operated channel"の双方が機能するといわれている。 タプシガルギンは細胞内のCa2+ストアを枯渇させてcapacitative entryを起こすといわれている。PC12D細胞において、タプシガルギン、カルバコール、或いは両方を投与したときの細胞内Ca2+濃度変化及びCa2+流入速度について調べた。この結果、PC12D細胞におけるmAChR活性化は、"receptor operated channel"とは無関係であり、細胞内のCa2+ストアを枯渇させた結果引き起こされるcapacitative entryのみによって、Ca2+を流入させることが示唆された。 電位依存性Ca2+チャネル(VOCC)の抑制についても調べた。KCl投与によるVOCCを介するCa2+の流入は、タプシガルギン前処理の影響を受けなかったが、カルバコール或いはホルボールエステルによる前処理で抑制された。このことから、m1-mAChRを介したPKC活性化によって、電位依存性Ca2+チャネルの抑制が起こると結論した。一方、KCl投与による脱分極の結果、mAChR活性化によるCa2+流入が抑制されることが分かった。脱分極とmAChR活性化は、互いのCa2+流入を抑制しあう。 3)zif268遺伝子プロモーターの解析 PC12D細胞において、NGF、カルバコール、A23187(カルシウムイオノフォア)の投与は、それぞれMAPK(mitogen activated protein kinase)を活性化する。c-fos遺伝子では、MAPKが活性化されることで、SRE(serum response element)を介する転写の活性化が起こる。zif268遺伝子も5’上流450bpの範囲にSREを含むことから、この領域がMAPK活性化に引き続いた遺伝子発現をつかさどると考えられてきた。 PC12D細胞において、どの細胞内情報伝達系及び転写調節エレメントがzif268遺伝子の発現に関与しているかを詳しく知る目的で、SRE配列を含むzif268遺伝子プロモーター領域2.5Kbをルシフェラーゼ遺伝子につないだ発現ベクターを作製し、刺激に対するプロモーター領域の転写活性化能を調べた。この結果、zif268遺伝子の5’側領域2.5Kbによる転写活性化能は、NGF刺激に比べてカルバコール、A23187投与では著しく弱く、ルシフェラーゼの発現とzif268 mRNAの発現パターンが一致しないことが分かった。今までの報告とは異なり、遺伝子上流2.5Kb以外のDNA配列か、もしくは転写後調節が、zif268 mRNA発現に関与していると考えられる。 また、A23187或いはカルバコールによる細胞内Ca2+濃度の上昇が、NGFによる転写活性化を50%程度抑えることが分かった。細胞内Ca2+濃度の上昇は、MAPKを活性化する一方で、このMAPK/SREを介するzif268遺伝子の転写活性化の情報伝達をMAPKより下流のどこかの段階で抑制すると考えられる。 |