学位論文要旨



No 112782
著者(漢字) 佐藤,光
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,コウ
標題(和) 癌化シグナルに応答できないラット細胞変異株の解析
標題(洋) Analysis of rat cell mutants defective in oncogenic transformation.
報告番号 112782
報告番号 甲12782
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1152号
研究科 医学系研究科
専攻 第二基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石川,隆俊
 東京大学 教授 渋谷,正史
 東京大学 助教授 平井,久丸
 東京大学 助教授 竹島,浩
 東京大学 助教授 多久和,陽
内容要旨

 これまでに多くの癌遺伝子が単離された。それらを培養細胞に導入すると速やかに癌化を引き起こす。癌遺伝子(v-oncogene)には、それに相当する癌原遺伝子(protooncogene)が細胞内に存在し、これらの多くは増殖シグナルの伝達に関わっている因子である。この癌遺伝子がどのような作用機序で癌を引き起こしていくのかについては、多くの研究室によって行われている膨大な分子生物学的、生化学的な研究や、我々の研究室での細胞遺伝学的な解析によってその一部分が次第に明らかになってきている。

 我々は細胞癌化機構の解明にラット線維芽細胞NRK-49Fを主に用いている。この細胞は、EGFとTGF-の添加によって可逆的に癌化を引き起こす性質を持っている。これまで、この細胞を用いて、EGFとTGF-を添加しているにも関わらず癌化を起こさない変異株を樹立し癌化シグナル伝達カスケードの構成因子の解析、変異遺伝子の同定を通して、癌化と増殖との関係を検討してきた。それによって、増殖因子であるEGF及びPDGFのシグナルの一部は細胞内でrasGタンパクとrafキナーゼが関わった伝達経路に流入していること、さらにその経路がほとんどの癌遺伝子の標的となっていると共に発癌に必須であることを明らかにした。さらに、この経路の活性化によって、通常細胞周期の開始に必須な足場がない状態でも増殖が引き起こされることを明らかにした。

 本研究では、NRK細胞からEGFとTGF-添加によっても癌化しない新しい2つの劣性変異株を樹立し、その解析から、癌化シグナル伝達を行う新たな因子の存在を示唆する結果及び、増殖の根幹である細胞周期スタートのメカニズムと癌化との深いかかわり合いを示唆する結果を得た。

 まず、このうちの456と名付けた変異株について、種々の癌遺伝子に対する感受性を検討することによってEGFシグナル伝達経路のどの位置に変異があるかを決定した。その結果、親株NRKと比較して変異株456では、v-erbBには感受性を示さず、活性化型c-erbB2に対しては感受性の著しい低下が観察された。しかしながら、Ki-ras、v-fms、v-mos、v-src、ポリオーマミドルT抗原など、それ以外の全ての癌遺伝子に対しては、親株NRKと同程度の感受性を保持していた。このことから、この変異株456の変異点はEGF受容体のシグナルがrasへ伝わるまでの間に存在することが分かった。これと同じ表現型を示す変異株(変異株23)が、当研究室の近藤によって既に樹立解析されている。そこでこれらの変異点が同一であるか否かを調べるため、この変異株23と変異株456とを細胞融合させ、EGFとTGF-存在下で培養を行った。その結果、互いを相補し、癌化能を回復することが分かった。これらの実験から二つの変異株の変異点は非常に近接してはいるが、同一の分子ではないと結論づけられた。変異株23では、EGF受容体の下流で働く因子で、SH2-SH3領域を持つアダプター分子であるcrkIIにドミナントネガティブ型変異を起こしているために癌化シグナルが伝わらないことが証明されている。そこで変異株456にcrkI、crkII、grb2、shc(アダプター分子)、sos、C3G(GDP-GTP交換因子)を導入し相補活性を検討したが、crkIIそれ自身及びその上流及び下流で働くと報告されている既知遺伝子では相補できなかった。以上の解析によって、EGF受容体からRasにシグナル伝達を行う未知の因子の存在が示唆された。

 次にもう一つの変異株111の癌遺伝子に対する感受性を調べた結果、変異株456とは異なり、用いた全ての癌遺伝子に対して非感受性であった。特に、EGFシグナルの最下流に位置する癌遺伝子の一つであるv-rafについて、そのタンパク発現量と癌化能について詳細に検討した結果、変異点がrafの下流に存在することが示唆された。そこで、この変異株の増殖特性を調べたところ、対数増殖期における増殖速度はNRKと変わりなかったが、一度、細胞周期のG1期で停止させ、その後細胞周期をスタートさせると、親株NRKに比べS期開始の著しい遅延が観察された。実際、NRKが10時間程度でS期に進入するのに対し、変異株111では、20時間を要した。また、S期初期に停止後、細胞周期を開始させた場合には大幅な遅れは観察されないことを考え合わせると、この変異株では細胞周期のG1期からのスタート機構に何らかの異常が生じていると判断された。そこでこの癌化シグナル伝達に関与する因子に欠損がある変異株111の、G1期調節に関与する因子の発現レベルを検討した。細胞をメチルセルロース中で浮遊させて培養(足場非依存的な状態)してG1期に停止後、メチルセルロース中(足場非依存的な状態)、または培養皿上(足場依存的な状態)でEGFとTGF-の添加によって細胞周期を開始させ、G1期制御因子のRNA及びタンパク質レベルでの発現を検討した。その結果、足場がある状態で変異株111は、G1期の制御に深く関わっているサイクリンD1の発現上昇が極端に遅延していることが分かった。さらにこの遅延時間は、変異株111のS期進入の遅延時間と良く一致していた。次に、足場がない状態での癌化シグナルによる細胞周期の開始において、親株NRKでは、サイクリンD1の発現誘導前で細胞が停止し、EGFとTGF-の添加によってサイクリンD1が誘導されると共にS期進入が起こるが、それに対して変異株111ではこのサイクリンD1の発現の誘導が見られないため、S期への進入が起こらないことが分かった。この結果から、サイクリンD1発現誘導の阻止が、足場がない状態でのG1期停止の一つの機構であり、この調節がG1期停止から細胞周期の開始制御に深く関わっており、癌化シグナルによる足場非依存性増殖制御の標的の一つであることが示唆された。

 今後、癌化のシグナル経路とサイクリンDの発現調節機構を含めたG1期のスタート機構の解明を進めていきたいと考えている。

審査要旨

 本研究は、癌化シグナル伝達機構を明らかにするために、ラット線維芽細胞(NRK49F)の変異株を樹立し、どのような因子が癌化シグナル伝達に関わっているのかを解析したものであり、下記の結果を得ている。

 1.EGF及び、TGF-の存在下で可逆的に癌化を起こすNRK49Fを変異原処理し、独立した2回のスクリーニングからそれぞれ1つずつ計2つの癌化を起こさない劣性変異株456及び、変異株111を樹立した。

 2.変異株456に癌遺伝子を導入し、その感受性を検討したところ、EGF受容体に近いv-erbB遺伝子には感受性を示さず、活性化型c-erbB2には非常に低い感受性を示した。またPDGF受容体に近いv-fms、Ki-ras,v-src,v-mos,ポリオーマミドルT抗原などによる癌化シグナルには、正常に癌化形質を示した。これらより、変異株456の変異点はEGF受容体の下流で、rasよりも上流であることが示唆された。

 3.この変異株456の感受性はすでに樹立解析がなされているアダプター分子crkII遺伝子に変異のある変異株23と同一のものである。しかしながら、変異株23と456の融合細胞を作成し、解析した結果、互いに変異を相補する事がわかり、これらは異なった遺伝子に変異があることが示唆された。さらに、アダプター分子近傍で機能していると考えられる遺伝子、crkI、grb2、shc、sos、C3Gといった因子による相補活性を検討したが、相補する因子は存在しなかった。これらから、変異株456の変異因子はアダプター分子近傍で、未知の因子であると考えられた。

 4.変異株111に癌遺伝子を導入し、その感受性を検討したところ、用いたすべての癌遺伝子について非感受性であった。特にEGFシグナルの最下流に存在する癌遺伝子の一つであるv-rafについて、その蛋白発現量と癌化能について詳細に検討したところ、rafの下流に変異点が存在していることが示唆された。

 5.変異株111の対数増殖期の増殖特性は親株と変わらないが、一旦G1期に停止させ、その後細胞周期を再スタートさせると、親株に比べ、S期の開始が著しい遅延が観察された。実際親株が10時間程度でS期を開始するのに比べ、変異株111は20時間を要した。また、S期初期に停止後の再スタートに関しては問題ないことから、この変異株ではG1期の再スタートに何らかの以上が生じていることが示唆された。

 6.変異株111を足場のない状態でG1期に停止後、癌化シグナルで再スタートさせ、G1期の進行のどこに異常が生じてS期の開始ができないのかを明らかにするために、G1期を制御している因子群の発現を経時的にRNA及び蛋白質レベルで解析した。変異株111は足場のない状態ではS期に進行できないが、そのときにG1期初期を制御しているサイクリンD1の発現の誘導が著しく減少していた。またそれに続くサイクリンEの発現誘導も起きていなかった。このことより、この変異株がS期に進行しないのはサイクリンD1の誘導の阻害が一原因になっていることが示唆された。

 以上、本論文はラット線維芽細胞NRK49Fの変異株の解析から、アダプター分子近傍の癌化シグナルを伝える新たな未知の因子の存在の可能性と、通常の足場依存的増殖開始メカニズムと、癌化に特異的な足場非依存的増殖との接点にサイクリンD1分子が深く関わっている可能性を示唆した。本研究はこれまで未知に等しかった癌化シグナル伝達の細胞レベルでの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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