学位論文要旨



No 112807
著者(漢字) 袁,娟
著者(英字)
著者(カナ) ユアン,ジュアン
標題(和) 環境中の不安誘発物質FG 7142及びヒトにおける曝露レベルの評価
標題(洋) N-METHYL--CARBOLINE-3-CARBOXAMIDE(FG 7142),AN ANXIOGENIC AGENT IN THE ENVIRONMENT AND EVALUATION OF ITS EXPOSURE LEVEL IN HUMANS
報告番号 112807
報告番号 甲12807
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1177号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 荒記,俊一
 東京大学 助教授 長尾,正崇
内容要旨 目的

 FG7142(N-Methyl--carboline-3-carboxamide)は実験動物において強い不安症候群を生じるばかりでなく、ヒトに対しても極めて強い不安を引き起こすことが報告されている。このため、ヒトにおける不安の病因や機序を研究する手段として用いられている。また、FG7142は広範囲の行動学的および内分泌学的作用を持っており、例えば、ヒトにおいて血漿コーチゾル、成長ホルモンおよびプロラクチン濃度を上昇させる。実験動物においては食欲抑制作用や、学習や記憶力の改善作用があると報告されている。

 最近、FG7142がタバコ煙中に存在することが報告された。この事は、タバコ煙で汚染された屋内空気中に、FG7142が存在する可能性を示すと共に、植物の燃焼過程でFG7142が生ずる可能性を示唆している。このため、本研究においては第一部でFG7142が広く環境中に分布しているかどうか、何が環境中の発生源であるかについて明らかにすることを試みた。この結果、FG7142が屋内空気や大気中に存在することが明らかとなった。このため、第二部では、FG7142がヒト健康に影響を及ぼしているかどうかを明らかとするため、ヒトにおけるFG7142の曝露レベルを決定することを試みた。

材料及び方法1.環境中のFG7142の分布1)大気粉じん及びタバコ煙に汚染された屋内空気粉じんの採取

 a)大気粉じんは東京大学キャンパス屋上にて紀本電子のハイボリューム エアサンプラー120型を用いて石英フィルター上に1分間当たり1.5m3の大気を連続吸入させることにより採取した。

 b)タバコ喫煙前後の屋内空気粉じんの採取

 標準条件下で喫煙器を用いて実験室において、タバコの煙を発生させた前後に、紀本電子のハイボリュウーム エア サンプラー120型を用いて石英フィルター上に1分間当たり1.5m3の屋内空気を連続吸入させることにより採取した。

2)ディーゼル排ガス粒子、ゴミ焼却場灰及び植物が燃焼時に発生する煙凝集物の採取

 a)ディーゼル排ガス粒子は東京都環境保護研究所にて、シャシー ダイナモメターを用いて、ISUZU 4BDI(3.856-リットル)ディゼルエンジンを低速度と高速度の代表的な都内走行条件下で運転することにより採取した。

 標準の自動車排ガス粒子は国立環境研究所から入手した。

 b)植物の煙凝集物の採取

 五種類の木の葉は東京大学キャンパスにて採取した。木の葉を細断し、シガレット状に紙で巻いたものを標準条件下で燃焼させ自動喫煙器により、ガラス繊維フィルター上に煙凝集物を採取した。

 c)ゴミ焼却場灰の採取

 茨城県下の7カ所のゴミ焼却における焼却灰は国立環境研究所より入手した。

3)粉じんや排ガス粒子中のFG7142の抽出

 粉じんあるいは煙凝集物にメチレンクロライドを加え、一定時間混和後、メチレンクロライド層を採取した。メチレンクロライド抽出液中のFG7142はBond Elut SI カラムにてさらに抽出した。

 ゴミ焼却場の焼却灰の場合には、焼却灰5gを0.5N塩酸100mlに一晩中浸し、28%アンモニア水でPHをおおよそ8まで調節した後、メチレンクロライドで抽出した。この抽出物をさらうにBond Elut SI カラムを用いてFG7142を抽出した。

 Bond Elut SIカラムによる抽出物は一度乾固し、高速液体クロマトグラフによる測定時に20mM H3PO4/20mM NH4H2PO4/アセトニトリル(45/45/10/,v/v/v)で溶解した。

2.ヒトにおけるFG7142曝露レベル評価

 1)20名のボランティアから24時間尿サンプルを採取した。すべての対象者は健常人で、いかなる薬品も服用していなかった。半数のボランティアは喫煙者である。

 2)ラットの血漿及び尿の採取

 ラットにおけるFG7142の血漿中半減期を求めるために、FG7142(0.5mg/kgから5mg/kg)をラットの腹腔内に注射した。一定時間後に、下大静脈から血液6mlを採取し、血漿を分離した。FG7142はほとんど腎を介して尿中に排泄させると予想された。この仮説を確認する為に、ラットの腹腔内にFG7142(0.1mg/kg、0.3mg/kg、0.5mg/kg)を注射し、注射前24時間および注射後48時間に渡って代謝ケージを用いて尿を採取した。

3)尿および血漿中FG7142の抽出

 ラット尿および血漿サンプル中FG7142はメチレンクロライドを用いて、抽出した。メチレンクロライド抽出液中のFG7142はBond Elut SIカラムを用いて抽出を行なった。

 ヒト尿サンプル中FG7142はメチレンクロライド100mlで二度抽出し、メチレンクロライド抽出物は上記の方法で処理した。

結果1.環境中のFG7142の分布1)高速液体クロマトグラフによるFG7142の測定

 粉じんサンプル等に存在するFG7142の測定は、二つのカラム(ES-502CカラムおよびODS-300-5カラム)用いて2段階分離法により行った。ODS-300-5カラムを用いた最終段階におけるFG7142の分離は良好で、クロマト上単独の鋭いピークがえられた。また、クロマト上のFG7142のピークの高さと標準FG7142の用量は直線関係を示した。この直線関係を用いて、サンプル中のFG7142含量を算出した。なお、精製したFG7142が標準FG7142と同一であることは質量スペクトルにて確認した。

2)大気粉じん中のFG7142

 いずれの大気粉じん中にもFG7142が検出され、大気粉じん中の平均FG7142含量は1立方メートル大気当たり1.36±1.03pgで総浮遊粉じん当たりでは、平均FG7142含量は7.44±4.85pg/mgであった。なお、大気粉じん中FG7142レベルは季節変動が認められ、夏期に低く、冬期に高い傾向が認められた。

3)喫煙後の屋内空気中FG7142レベルの変動

 自動喫煙機による喫煙本数の増加と共に、室内空気中FG7142の濃度の上昇が認められた。なお、喫煙前の時点においても室内空気中にFG7142が検出された。

4)木の葉の煙凝集物中のFG7142

 FG7142は木の葉の煙凝集物のサンプルからすべてに検出された。しかし、FG7142は木の葉そのものには検出されなかった。

5)焼却灰中のFG7142

 ゴミ焼却場の焼却灰サンプルすべてに検出され、平均FG7142の含量はg重量当たり15.6±7.1pgであった。

6)ディゼル排ガス粒子中のFG7142

 FG7142は低速および高速運転下で採取したディゼル排ガス粒子や、国立環境研究所で作成した自動車排ガス粒子標品中にも検出されなかった。

2.ヒトにおけるFG7142曝露レベル評価1)ヒトにおけるFG7142の尿中排泄

 FG7142はすべてのヒト尿サンプル中から検出された。喫煙者尿中FG7142の平均濃度は非喫煙者尿中FG7142の濃度に比して約4倍であった。24時間当たりの尿中FG7142排泄平均量もおおよそ非喫煙者より4倍高かった。これらの結果はヒトがFG7142に曝露されていることを示唆するとともに、喫煙者は非喫煙者に比してより高いレベルのFG7142に曝露されていることを示唆している。

2)ラット血漿中のFG7142半減期

 ラットの腹腔内にFG7142を注射後5分ではFG7142は検出されなかったが、注射後20分の時点でFG7142が検出された。注射後30分間、FG7142の血中レベルは徐々に増加し、注射後45分に最高値に到した。そして、その後急速に減少した。注射後90分、120分、150分の血漿FG7142レベルから、血漿中のFG7142半減期は約30分と計算された。

3)ラットにおけるFG7142の尿中排泄

 FG7142を投与していないラットの尿からはFG7142は検出されなかった。0.1mg/kgから0.5mg/kg体重の用量でFG7142を投与したラットにおいては、注射量の約80%のFG7142が24時間内に尿中に排泄された。このことは、投与されたFG7142は主として腎を介して、24時間以内に尿中に排泄されることを示している。

考察

 大気粉じん、自動車排ガス粒子、ゴミ焼却場灰、木の葉の煙、タバコの煙に汚染された屋内空気の中にFG7142が存在するかどうかを高速液体クロマトグラフで検討した。この結果、FG7142は屋外環境の大気や室内空気中にも検出された。屋内空気中のFG7142の発生源は自動喫煙機を用いた実験により発生源の1つはタバコ煙であると決定された。さらに、この不安誘発物質は木の葉の煙やゴミ焼却場灰の中に検出されたが、木の葉そのものには検出されなかった。一方、ディゼル排ガス粒子や自動車排ガス粒子標品中には検出されず、石油系燃料の燃焼によってはFG7142は生じないことが示唆された。タバコ煙中にFG7142が存在するという以前の結果と一緒に、今回得られた結果を考察すると、FG7142は植物の燃焼過程で生ずる可能性が高いと考えられる。また、これらの結果は、FG7142は環境中に広く分布していることを示唆している。

 このような知見から、環境中のFG7142がヒト健康に影響を及ぼしている可能性も考えられる。この点を明らかとするために、ヒトにおけるFG7142の曝露レベルを検討した。FG7142は測定したすべてのヒト尿中に検出された。FG7142の尿中排泄レベルは非喫煙者では一日当たり平均0.503±0.25ngで、喫煙者では一日当たり平均2.418±0.384ngであった。このことは、ヒトがFG7142に曝露されていることを示唆するとともに、喫煙者のFG7142の曝露レベルが非喫煙者より高いことを示している。FG7142がタバコ煙中や室内空気および屋外大気中にも、また木の葉の煙中凝集物中にも存在するという知見を考慮すれば,食品を介しての曝露の可能性を否定できないが、ヒトが気道や肺を介してFG7142に曝露されていると考えられる。動物実験の結果は,血流中に入ったFG7142は短時間内に腎を介して尿中に排泄されることを示した。24時間内に投与量の約80%が尿中に排泄されるとするラットを用いた実験結果を、ヒトに外挿できると仮定すれば、一日当たりの尿中FG7142排泄レベルがFG7142の曝露レベルを反映していると考えられる。この考え方に立てば、今回得られたヒト尿中FG7142レベルは喫煙者においても一日当たり平均2.1ngで、最高値としても2.5ngであり、血中FG7142レベルは極めて低いと考えざるを得ない。ヒトにおける急性曝露実験において不安発作が認められたのは、血中濃度が150ng/ml以上の場合のみであることを考慮すれば、環境中のFG7142レベルはヒトに対して不安を誘発する程高いレベルにはないと考えられる。しかし、ヒトに関するFG7142の慢性曝露の影響についてはほとんど情報がなく,環境中のFG7142がヒト精神機能に影響がないとは結論できない。

審査要旨

 本研究は実験動物やヒトに対して強い不安発作を生ずることが明らかとされているFG7142(N-Methyl--carboline-3-carboxamide)の環境中での分布、発生源の検索を行うと共に、ヒトにおける曝露レベルの評価を行ない、下記の結果を得ている。

 1.環境中のFG7142の分布を検討した結果、FG7142が大気粉じん、木の葉の煙凝集物、室内空気粉じん、ゴミ焼却場灰中に存在することを明らかとした。しかし、木の葉そのものやディーゼル排ガス粒子や自動車排ガス粒子標品中には検出されなかった。これらの結果より、FG7142が一般環境中に広く分布していることが示された。また、タバコの葉そのものにはFG7142が検出されないにもかかわらず、タバコ煙中には存在するという以前の報告とを一緒に考察すれば、FG7142は植物の燃焼過程で生ずる可能性が考えられた。

 2.喫煙が室内空気中のFG7142の発生源となっているかどうかを調べるために、実験室で自動喫煙器による喫煙を行いながら、室内空気粉じん中のFG7142の増加の有無を検討した。この結果、室内空気粉じん中FG7142は喫煙前でも検出されたが、喫煙本数の増加と共にFG7142レベルの著しい上昇が認められ、喫煙が室内空気中FG7142の発生源の1つであると考えられた。

 3.ヒトがどの程度FG7142に曝露されているかを評価するために、20名の健常者(内10名は喫煙者)について一日に尿中排泄レベルを測定した。喫煙者では一日平均排泄量は約2.4ngで、非喫煙者の場合(一日平均排泄量約0.5ng)の約5倍であった。この結果はヒトがFG7142に曝露されていることを示唆すると共に、喫煙者では非喫煙者に比して曝露レベルが高い可能性が示された。

 4.ラットを用いた動物実験によりFG7142の血漿中の半減期の推定を行うと共に、腹腔内投与後48時間にわたりFG7142の尿中排泄量を検討した。FG7142を腹腔内投与した場合、血漿中FG7142の半減期は約30分と推定され、腹腔内投与24時間以内に投与量の約80%が尿中に排泄されることが明らかとなった。これらの結果は血流中に入ったFG7142は短時間に腎を介して尿中に排泄されることを示した。この実験結果をヒトに外挿できると仮定すれば、一日あたりの尿中FG7142排泄レベルがFG7142の曝露レベルを反映していると考えられた。今回得られたヒト尿中FG7142排泄レベルから判断してヒトにおける一日曝露レベルは数ng以下と推定されたことから、環境中のFG7142レベルはヒトに対して不安を誘発する程度高いレベルにはないと考えられた。

 以上、本論文はヒトに不安発作を生ずることが知られているFG7142が、大気や室内空気などの一般環境中に分布していることを明らかとした。また、発生源についても検討し、植物の燃焼過程で生ずる可能性を示した。さらに、FG7142の曝露レベル評価を行い、ヒトの精神活動への影響を考察した。本研究は環境中にヒトに不安を生ずる物質が存在することを初めて明らかとした点で、環境と精神機能との関連を解明する上で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に価するものと考えられる。

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