学位論文要旨



No 112830
著者(漢字) 水野,智之
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,トモユキ
標題(和) NMDA受容体チャネルを介するCa2+流入と海馬シナプス可塑性
標題(洋) Ca2+ influx through NMDA receptor channels and synaptic plasticity in the hippocampus
報告番号 112830
報告番号 甲12830
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1200号
研究科 医学系研究科
専攻 第二臨床医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,智幸
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 三品,昌美
内容要旨 はじめに:

 海馬のシナプス可塑性は記憶、学習の基礎的現象としてのみならず、神経細胞死やてんかんへの関与も考えられ、神経学的にもきわめて重要な研究対象である。海馬のシナプス可塑性のなかでも特に詳細に研究されているのが、CA1領域の長期増強(LTP)と長期抑圧(LTD)である。CA1領域のLTPは100Hz、1秒といった高頻度刺激で惹起され、N-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体チャネルの特異的阻害剤であるD-(-)-2-amino-5-phosphonovaleric acid(D-AP5)によってその惹起が阻止される。CA1領域のLTDは1Hz、15分間といった低頻度長期の刺激により惹起され、やはりD-AP5によってその惹起が阻止される。LTPもLTDもその惹起にはシナプス後細胞内のCa2+濃度上昇が必須であることが示されており、最近の有力な仮説によればCa2+濃度上昇が高度であればLTPが導かれ、中等度であればLTDが導かれるとされる。ただこの考え方で問題となるのは、これまでのところLTDの惹起が低頻度長期の刺激によらねば困難であることから、中等度のシナプス後細胞内のCa2+濃度上昇以外に刺激回数や刺激の持続時間といった因子がLTDの惹起に必須であるかもしれないという点である。またLTP、LTD惹起におけるD-AP5感受性からシナプス後細胞内へのCa2+流入の主たる経路はNMDA受容体チャネルと考えられるが、電位依存性Ca2+チャネルを介するCa2+流入の重要性を示唆する報告も多く、この点についても解決に至っていない。以上の諸問題に検討を加えるため、我々は、Mg2+非存在下ではMg2+によるNMDA受容体チャネルの電位依存性ブロックは解除され、シナプス後細胞の脱分極がなくともリガンドの結合のみでNMDA受容体チャネルの開口、Ca2+流入がおきる点に着目し、Mg2+を含まない(Mg2+-free)人工脳脊髄液(ACSF)灌流中に低頻度で条件刺激を与える方法をとった。 この方法は、既に述べたシナプス後細胞の脱分極なしにNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入を起こすことができるとともに、1Hz以下の低頻度刺激でNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入を起こすことが可能なので、時間分解能にすぐれ、NMDA受容体チャネルを介するCa2+流入量の微細な調節が容易であるという利点を持つ。

方法:

 ウィスター系ラット海馬切片CA1領域放線状層内でSchaffer側副路/交連線維を刺激し、錐体細胞のホールセル記録および樹状突起レベルでの細胞外興奮性シナプス後電位(f-EPSP)記録を行った。条件付けは通常Mg2+-free ACSFを10分間灌流し、低頻度(1Hz)で条件刺激(0〜50回)を与えることで行った。一部の実験では頻度をさらに下げた。ACSFの組成はNaCl124,KCl5.0,MgSO41.3,NaH2PO41.2,NaHCO326,CaCl22.4(いずれもmM)とし、Mg2+-freeACSFの組成は通常のACSFからMgを含む塩を除いたものである。パッチピペットの内液の組成はCsGluconate 122.5,CsCl17.5,NaCl8,EGTA0.2,Cs-HEPES10,MgATP2,Na3GTP0.3(いずれもmM)とし、pHは7.25、浸透圧は290から310mOsmに調整した。

結果:Mg2+-free ACSF灌流時におけるNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入

 -70mVに電位固定しEPSCを観察した際、10Mの6-cyano-7-nitroquinoxaline-2,3-dione(CNQX)を加えたMg2+-free ACSFを10分間灌流後のEPSCは、正常ACSF灌流中のEPSCに比べ時間経過が遅延していた(頂点潜時12ミリ秒から34ミリ秒へ延長)。このEPSCは、その後25MのD-AP5でほぼ消失したので、主たる成分はNMDA受容体チャネルを介する電流と考えられる。Mg2+-free ACSFを10分間程度灌流後、低頻度刺激でもNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入が起きることが確実に示された。

Mg2+-freeACSF灌流時低頻度刺激によるLTP

 Mg2+-freeACSFを10分間灌流し、1Hz、50回の条件刺激を与えたところ、細胞外およびホールセル記録両方で、安定したLTPが観察された。このLTPの惹起は50MのD-AP5存在下で阻止されたので、NMDA受容体依存性をもつと考えられる。また予め3回のテタヌス刺激(100Hz、1秒間)によってテタヌス刺激によるLTPを飽和させておくと、その後にはこのLTPは惹起されなかった。

条件刺激回数を変化させた場合

 Mg2+-freeACSF灌流中の条件刺激の頻度は1Hzのままで、回数を50、25、10、5、3、2、1回と全く条件刺激を与えない(0回)と変えて検討した。結果は、0、1および2回では有意な変化なく、3回以上では有意なLTPが見られ、その程度は回数につれて増大した。25回以上ではLTPの程度は飽和していた。2回では全体としては有意な変化を認められなかった。8枚中5枚の標本でわずかながら(約10%程度)LTPと思われる変化が認められており、LTP惹起のための閾値は2回ないし3回程度であろうと考えられる。1回ではLTPもLTDも出現しなかった。

グルタミン酸受容体阻害剤の効果

 Mg2+-free ACSF灌流中1回の刺激でも、シナプス後細胞内へのCa2+流入が、LTDの惹起に適当な範囲を上回ってしまった可能性を考え、グルタミン酸受容体阻害剤によりシナプス後細胞内へのCa2+流入を減少させ、LTDが惹起されるかどうか検討した。10MのCNQXを含んだMg2+-freeACSFの場合、シナプス後細胞の脱分極が減少し、電位依存性Ca2+チャネルを介するCa2+流入が減少するのであるが、1回の刺激ではLTPもLTDもなく、1Hz3回以上ではLTPが認められた。さらにNMDA受容体を介するCa2+流入を減少させるため、D-AP5を2M用いてNMDA受容体チャネルを部分ブロックしたところ、LTDを惹起させることができた。

条件刺激の頻度を下げた場合

 Mg2+-free ACSF灌流中の条件刺激の回数は10回に固定し、頻度を0.2Hz、0.05Hzと低くした。いずれの場合も有意なLTPが観察された。

考察:

 1Hz以下の低頻度刺激に対するEPSPは時間的に加重しないので、正常ACSF灌流時にはMg2+によるNMDA受容体チャネルの電位依存性ブロックは解除されず、そのような低頻度刺激によるNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入は非常に少ないと考えられる これに対し、我々の系においては、 、-70mVに膜電位を固定しても、単一の刺激に対してD-AP5感受性のあるEPSCが観測されたことから、Mg2+-freeACSF灌流中の低頻度刺激によってNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入が起きていることは確実である。実際、1Hz3回以上の条件刺激ではLTPが惹起された。このLTPはテタヌス刺激によるLTPと同様NMDA受容体依存性であり、またこれと閉塞することから両者は共通の過程を持つことが示された。また条件刺激1回ではLTPもLTDも起きず、さらにD-AP5でNMDA受容体チャネルを部分的に阻害するとはじめて条件刺激1回でLTDが起きた。このことはシナプス後細胞への大量のCa2+流入によりLTPが、比較的少量のCa2+流入によりLTDが起きること、さらにその中間にシナプス伝達効率に変化を与えない領域があることを示唆する。またLTDの惹起のために、刺激が多数回であることや、長時間持続することは、必ずしも必要ではないことも示された。0.05Hzで10回という条件刺激でもLTPが起きたことは、20秒以上続くシナプス後細胞内の何らかの状態変化が加重した結果LTPが惹起されたと考えられる。

審査要旨

 本研究は記憶、学習の基礎的現象として重要な海馬CA1領域の長期増強(LTP)と長期抑圧(LTD)の生起におけるN-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体チャネルを介するCa2+流入の役割を明らかにすることを目的として、ラット海馬切片標本を用いて、種々の条件刺激によるシナプス伝達効率の変化を検討したものであり、下記の結果を得ている。

 1.高頻度刺激によらずしてNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入をもたらすため、Mg2+-free人工脳脊髄液(ACSF)灌流中に低頻度刺激を与える方法をとった。実際、-70mVに電位固定した細胞でAMPA受容体の選択的阻害剤である10Mの6-cyano-7-nitroquinoxaline-2,3-dione(CNQX)を加えたMg2+-freeACSFを10分間灌流後でも,NMDA受容体の選択的阻害剤であるD-(-)-2-amino-5-phosphonovalericacid(D-AP5)で消失するEPSCを認めた。このことからMg2+-free ACSFを10分間程度灌流後、低頻度刺激でもNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入が起きることが確実に示された。

 2.Mg2+-freeACSFを10分間灌流し、1Hz、50回の条件刺激を与えたところ、細胞外およびホールセル記録両方で、安定したLTPが観察された。このLTPの惹起は50MのD-AP5存在下で阻止されたので、NMDA受容体依存性をもつと考えられる。また予め3回のテタヌス刺激(100Hz、1秒間)によってテタヌス刺激によるLTPを飽和させておくと、その後にはこのLTPは惹起されなかった。以上よりこのLTPとテタヌスによるLTPが少なくとも共通の過程を持つことが示された。

 3.Mg2+-freeACSF灌流中の条件刺激の頻度は1Hzのままで、回数を50、25、10、5、3、2、1回と全く条件刺激を与えない(0回)と変えて検討した。結果は、0、1および2回では有意な変化なく、3回以上では有意なLTPが見られ、その程度は回数につれて増大した。25回以上ではLTPの程度は飽和していた。2回では全体としては有意な変化を認められなかった。8枚中5枚の標本でわずかながら(約10%程度)LTPと思われる変化が認められており、LTP惹起のための閾値は2回ないし3回程度であろうと考えられる。1回ではLTPもLTDも出現しなかった。

 4.Mg2+-freeACSF灌流中1回の刺激でも、シナプス後細胞内へのCa2+流入が、LTDの惹起に適当な範囲を上回ってしまった可能性を考え、グルタミン酸受容体阻害剤によりシナプス後細胞内へのCa2+流入を減少させ、LTDが惹起されるかどうか検討した。10MのCNQXを含んだMg2+-freeACSFの場合、1回の刺激ではLTPもLTDもなく、1Hz3回以上ではLTPが認められた。さらにNMDA受容体を介するCa2+流入を減少させるため、D-AP5を2M用いてNMDA受容体チャネルを部分ブロックしたところ、LTDを惹起させることができた。以上より、LTDの惹起には低頻度多数回刺激は必ずしも必要でなく、NMDA受容体チャネルを介するCa2+流入量が適当であれば一回の刺激でもLTDを惹起できることが示された。

 5.Mg2+-free ACSF灌流中の条件刺激の回数は10回に固定し、頻度を0.2Hz、0.05Hzと低くした。いずれの場合も有意なLTPが観察された。この場合20秒以上持続する細胞内過程が加重してLTPの閾値を越えたことが示唆される。

 以上、本論文は海馬CA1領域におけるシナプス可塑性の方向決定にNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入量が重要であることを明らかにした。本研究は従来不明であったシナプス可塑性の方向決定因子の解明に貢献すると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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