本研究は記憶、学習の基礎的現象として重要な海馬CA1領域の長期増強(LTP)と長期抑圧(LTD)の生起におけるN-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体チャネルを介するCa2+流入の役割を明らかにすることを目的として、ラット海馬切片標本を用いて、種々の条件刺激によるシナプス伝達効率の変化を検討したものであり、下記の結果を得ている。 1.高頻度刺激によらずしてNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入をもたらすため、Mg2+-free人工脳脊髄液(ACSF)灌流中に低頻度刺激を与える方法をとった。実際、-70mVに電位固定した細胞でAMPA受容体の選択的阻害剤である10 Mの6-cyano-7-nitroquinoxaline-2,3-dione(CNQX)を加えたMg2+-freeACSFを10分間灌流後でも,NMDA受容体の選択的阻害剤であるD-(-)-2-amino-5-phosphonovalericacid(D-AP5)で消失するEPSCを認めた。このことからMg2+-free ACSFを10分間程度灌流後、低頻度刺激でもNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入が起きることが確実に示された。 2.Mg2+-freeACSFを10分間灌流し、1Hz、50回の条件刺激を与えたところ、細胞外およびホールセル記録両方で、安定したLTPが観察された。このLTPの惹起は50 MのD-AP5存在下で阻止されたので、NMDA受容体依存性をもつと考えられる。また予め3回のテタヌス刺激(100Hz、1秒間)によってテタヌス刺激によるLTPを飽和させておくと、その後にはこのLTPは惹起されなかった。以上よりこのLTPとテタヌスによるLTPが少なくとも共通の過程を持つことが示された。 3.Mg2+-freeACSF灌流中の条件刺激の頻度は1Hzのままで、回数を50、25、10、5、3、2、1回と全く条件刺激を与えない(0回)と変えて検討した。結果は、0、1および2回では有意な変化なく、3回以上では有意なLTPが見られ、その程度は回数につれて増大した。25回以上ではLTPの程度は飽和していた。2回では全体としては有意な変化を認められなかった。8枚中5枚の標本でわずかながら(約10%程度)LTPと思われる変化が認められており、LTP惹起のための閾値は2回ないし3回程度であろうと考えられる。1回ではLTPもLTDも出現しなかった。 4.Mg2+-freeACSF灌流中1回の刺激でも、シナプス後細胞内へのCa2+流入が、LTDの惹起に適当な範囲を上回ってしまった可能性を考え、グルタミン酸受容体阻害剤によりシナプス後細胞内へのCa2+流入を減少させ、LTDが惹起されるかどうか検討した。10 MのCNQXを含んだMg2+-freeACSFの場合、1回の刺激ではLTPもLTDもなく、1Hz3回以上ではLTPが認められた。さらにNMDA受容体を介するCa2+流入を減少させるため、D-AP5を2 M用いてNMDA受容体チャネルを部分ブロックしたところ、LTDを惹起させることができた。以上より、LTDの惹起には低頻度多数回刺激は必ずしも必要でなく、NMDA受容体チャネルを介するCa2+流入量が適当であれば一回の刺激でもLTDを惹起できることが示された。 5.Mg2+-free ACSF灌流中の条件刺激の回数は10回に固定し、頻度を0.2Hz、0.05Hzと低くした。いずれの場合も有意なLTPが観察された。この場合20秒以上持続する細胞内過程が加重してLTPの閾値を越えたことが示唆される。 以上、本論文は海馬CA1領域におけるシナプス可塑性の方向決定にNMDA受容体チャネルを介するCa2+流入量が重要であることを明らかにした。本研究は従来不明であったシナプス可塑性の方向決定因子の解明に貢献すると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。 |