[研究の背景と目的] 疫学的研究において高脂肪食と発癌との関係が報告されている。特に、乳癌、大腸癌、膵癌、前立腺癌、卵巣癌、子宮内膜癌等の癌の発生と高脂肪食との相関を述べた論文は数多い。しかし、脂肪食が癌の発育を促進すると報告しているもの、あるいは抑制すると報告しているもの等、一定の見解は得られていない。さらに、発癌の促進あるいは抑制には単に総脂肪摂取量だけではなく、脂肪の種類がその作用に大きく関与しているとされている。 動物実験においても、摂取食物中の脂肪の量と種類が重要とされており、その動物における癌の発生、増殖ならびに転移に大きい影響を与えると報告されている。その中で、一番注目されているのが多価不飽和脂肪酸である。In vivoの実験では、n-6多価不飽和脂肪酸は癌の発育を促進し、n-3多価不飽和脂肪酸は抑制するという報告が多いが、in vitro実験では数種類の癌細胞株に対して、n-6、n-3多価不飽和脂肪酸の両者とも細胞増殖を抑制するという報告が多い。このようにin vivoとin vitroの実験結果は異なっており、現在明確な結論は得られていない。 多価不飽和脂肪酸はn-6系列とn-3系列という二つの種類に分類され、共にヒトの必須脂肪酸であり、生体の細胞構成要素のひとつであるため、様々な細胞の機能に関与している。例として、膜の透過性、シグナル伝達、受容体の発現、酵素の活性や接着因子などが挙げられる。摂取多価不飽和脂肪酸の量ならびに種類を変化させた場合、細胞の脂肪酸組成が変化することが報告されている。したがって脂肪酸の量ならびに種類が細胞の機能にも大きな影響を与えるものと考えられる。この脂肪酸の細胞機能に与える影響は癌細胞、正常細胞を問わず、すべての細胞に及ぶものと考えられるが、癌細胞と正常細胞でどのような機能の変化があるかについては明確な結論は得られていない。さらに脂肪酸の種類による細胞の機能の変化について、癌細胞と正常細胞を対比して検討した報告はなされていない。また、脂肪酸と抗癌剤の関係については、脂肪酸投与により抗癌剤の白血病細胞(leukemia cells)に対する細胞障害性が増強されたとする報告があるが、正常細胞との比較で検討した報告はなされていない。 そこで、今回各種脂肪酸の細胞増殖に与える影響ならびに抗癌剤感受性に与える影響を明らかにすることを目的として、培養細胞を用いた研究を行なった。これまでのin vitroの研究と異なる点は悪性と非悪性の培養細胞を用いて比較検討した点である。この悪性と非悪性の細胞は同一起源の細胞で、悪性細胞は非悪性細胞に癌遺伝子を組み込むことにより樹立された細胞株である。 [研究材料と方法]研究材料 細胞株:非悪性細胞として、スイス・マウス胎児由来線維芽細胞株(NIH3T3)を用い、悪性細胞として、NIH3T3細胞にヒトS状結腸癌由来ret II癌遺伝子を組み込んだ細胞株(以下SIC transformant、国立癌センター生化学部より供与)を用いた。 脂肪酸:n-6系列不飽和脂肪酸として、linoleic acid,gamma-linolenic acid,arachidonic acidを、n-3系列不飽和脂肪酸として、alpha-linolenic acid,eicosapentaenoic acid(EPA),docosahexaenoic acid(DHA)を用いた。以上の脂肪酸はすべてSigma社より購入したもので、pure free fatty acidsである。 抗癌剤:Mitomycin-C(Sigma社より購入) 研究方法1.ヌードマウス移植実験 1×106個のNIH3T3細胞およびSIC transformantをそれぞれ5匹のヌードマウスの背部皮下に接種し、腫瘍形成性を確認した。 2.細胞増殖の測定 フォトメーター(Microplate Reader,BIO RAD社製)を用いたcolorimetric法で細胞数の測定を行なった。すなわち、96-well microplateを用い、上記の各種脂肪酸を各種濃度でwellに添加し、2日間細胞を培養した後、methylene blue染色を行ない、photometerを用いて吸光度を測定した。 3.細胞の抗癌剤感受性の測定 Mitomycin-Cを各種濃度で培養細胞に添加し、24時間細胞を培養した後、上記のcolorimetric法で細胞の増殖を測定した。 4.培養液中脂肪酸の成分分析 脂肪酸添加を施した細胞を2日間培養した後、その上清中の脂肪酸をmodified Folch法(凍結乾燥法)で抽出し、抽出した脂肪酸を高速液体クロマトグラフィー(high performance liquid chromatography:HPLC)を用いて、脂肪酸の成分分析を行なった。 5.培養細胞に含まれる脂肪酸の成分分析 脂肪酸添加を施した細胞を2日間培養した後、その細胞中の脂肪酸を上記と同様のmodified Folch法で抽出し、HPLCにて細胞に含まれる脂肪酸の成分分析を行なった。 [結果]1.ヌードマウスにおける腫瘍形成性(非悪性NIH3T3細胞と癌遺伝子を組み込んだSIC transformant細胞との比較) ヌードマウスへのSIC transformant細胞接種で全例腫瘍が形成されたのに対し、NIH3T3細胞では腫瘍形成は認められなかった。in vitroにおける両細胞の増殖率はほぼ同じで、形態的にも大きな相違は認められないが、SIC transformantにはcontactinhibitionが認められず、overlapping growthが認められた。 2.脂肪酸の細胞増殖に与える影響 Arachidonic acid(n-6)、eicosapentaenoic acid(EPA,n-3),及びdocosahexaenoic acid(DHA,n-3)により両細胞の増殖が抑制されたが、SIC transformant細胞の増殖抑制率はNIH3T3細胞と比較して、有意に高率であった。その脂肪酸の前駆物質として、linoleic acid(n-6)とalpha-linolenic acid(n-3)の細胞増殖に与える影響も検討したが、両細胞間に有意差は認められなかった。 3.細胞の抗癌剤感受性 脂肪酸非添加の条件下では、抗癌剤のNIH3T3細胞に対する細胞障害性は、SIC transformant細胞に比較し、有意に高値であった。低濃度EPA添加下(2g/ml,n-3,細胞増殖に影響を与えない濃度)で培養したNIH3T3細胞は、脂肪酸非添加で培養したNIH3T3細胞より抗癌剤感受性が有意に低くなり、一方、EPA添加下で培養したSIC transformant細胞は、脂肪酸非添加で培養したSIC transformant細胞より抗癌剤感受性が有意に高値となった。arachidonic acid(n-6)添加下で培養した細胞の抗癌剤感受性については、両細胞とも変化は認められなかった。 4.培養上清中の脂肪酸の成分分析 低濃度(2g/ml,細胞増殖に影響を与えない濃度)でEPAあるいはDHAを添加した条件下で、一定期間細胞を培養した後の上清中におけるlinoleic acid(n-6)の残存率は、脂肪酸を添加しない場合の残存率と比較して、有意に高値であった。すなわち細胞のlinoleic acid(n-6)利用は、n-3脂肪酸であるEPAあるいはDHAを添加することにより抑制されると解釈できる。このn-6脂肪酸利用抑制率は、NIH3T3細胞とSIC transformant細胞を比較した場合、SIC transformant細胞のほうが有意に高値であった。一方、arachidonic acid(n-6)を添加した条件下における培養上清中の脂肪酸残存率は、両細胞間で有意差を認めなかった。 5.細胞に含まれる脂肪酸の成分分析 脂肪酸非添加の培養条件下における細胞中の脂肪酸含有率について、両細胞間で差の認められたものは2種類の飽和脂肪酸であった。すなわち、ひとつはlauric acid(C12:0)で、SIC transformant細胞における含有率はNIH3T3細胞と比較し、有意に低値であった。もうひとつはstearic acid(C18:0)で、SIC transformant細胞における含有率のほうが有意に高値であった。低濃度(2g/ml,細胞増殖に影響を与えない濃度)のEPAを添加した培養条件下における細胞中の脂肪酸含有率についても、両細胞の間で有意差が認められた。すなわち、NIH3T3細胞と比較して、SIC transformant細胞のlauric acidとmyristic acidの含有率がより低く、EPAの含有率がより高いという結果であった。一方、arachidonic acid添加下の場合、細胞の脂肪酸含有率は両細胞の間で有意差が認められなかった。 [考察] 良性とされるNIH3T3細胞とこれに癌遺伝子を組み込んだSIC transformant細胞を用いて、脂肪酸の細胞増殖及び抗癌剤の細胞障害性に与える影響を検討した。細胞の起源が同一で、癌遺伝子を組み込んだ部分のみ異なる細胞を用いて両者を比較することにより脂肪酸の影響を検討した研究は、検索した範囲では本研究が初めてである。SIC transformant作製時に用いられたret II癌遺伝子は細胞膜におけるtyrosine kinaseの活性に関与する癌遺伝子のひとつであり、ret II遺伝子の導入により細胞のcontactinhibitionの抑制ならびにヌードマウスでの腫瘍形成性が認められたことから、NIH3T3細胞の悪性化細胞とみなしうる細胞である。 本研究において、脂肪酸の細胞増殖に対する影響については、n-6系列のarachidonic acidならびにn-3系列のEPAとDHAは、ある範囲の濃度に限り、悪性細胞の増殖しか抑制しない、すなわち悪性細胞に対する選択的抑制作用があるという結果が得られた。脂肪酸の濃度が高い(2g/ml以上)場合には、非悪性細胞、悪性細胞を問わず、細胞に対する毒性が認められた。すなわち細胞増殖に与える脂肪酸の影響を検討する場合、その濃度が重要な因子のひとつであることが判明した。 細胞の抗癌剤感受性については、n-3系列のEPA添加により悪性細胞においてはその感受性が増強し、逆に、非悪性細胞においては感受性の低下という作用が認められた。さらに両細胞間におけるこの抗癌剤感受性の相違は、細胞増殖に影響を与えない程度の低濃度で認められた点も臨床応用を考える上で重要な事項といえる。 脂肪酸添加による細胞上清ならびに細胞自身の脂肪酸組成の変化を検討した理由は、細胞の脂肪酸利用の変化が細胞増殖あるいは抗癌剤感受性の変化を惹起する可能性の傍証を得るためである。培養上清中の脂肪酸残存率ならびに細胞自身の脂肪酸が含有率を検討した結果、SIC transformant細胞ではn-6系脂肪酸の利用率が低下しており、細胞自身のn-3系脂肪酸含有率が高値を示した。この変化はEPAあるいはDHAなどのn-3系脂肪酸を添加した時にのみ認められる変化で、n-6系脂肪酸添加では認められていない。すなわち、悪性細胞であるSIC transformant細胞においては、EPA、DHAを添加することによりこれらn-3系脂肪酸は一旦細胞内に取り込まれるが、何らかの理由でn-6系脂肪酸への代謝が阻害されているため、n-3系脂肪酸が細胞質内に貯留する一方、n-6系脂肪酸の利用率も低下し、このために細胞膜の透過性亢進あるいは脆弱化が惹起され、抗癌剤に対する感受性が増加したものと推測される。一方、非悪性のNIH3T3細胞においては添加されたn-3系脂肪酸は細胞内に取り込まれ、n-3系脂肪酸に代謝され、その利用率も亢進するために細胞膜の安定化が得られ、抗癌剤に対する感受性の低下が惹起されたものと考えることによって説明しうるが、この推測を証明するためには細胞膜における脂肪酸含有率と膜の強度あるいは透過性などをさらに検討する必要があるものと考えられる。 [結語] 1.細胞の増殖速度については、NIH3T3細胞とSIC transformant細胞との間で差が認められなかった。 2.形質転換細胞SIC transformantはヌード・マウスにおける腫瘍形成性が認められたが、NIH3T3細胞は腫瘍形成性が認められなかった。 3.多価不飽和脂肪酸の中で、n-6系列のarachidonic acidとn-3系列のEPA、DHAは悪性SIC transformant細胞の増殖に対して、非悪性NIH3T3細胞と比較して、選択的に抑制作用が認められた。 4.n-3系の脂肪酸であるEPAは悪性SIC transformant細胞に対し、その抗癌剤感受性を増強する効果が認められた。一方、非悪性NIH3T3細胞に対しては抗癌剤感受性を低下させる効果が認められた。 5.培養上清と細胞の脂肪酸分析の結果から、SIC transformant細胞はNIH3T3細胞と比較し、添加されたn-3系脂肪酸の利用率が低く、これが両細胞間における抗癌剤感受性の相違を惹起する原因のひとつと考えられた。 |