学位論文要旨



No 112852
著者(漢字) 平野,裕子
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,ユウコ
標題(和) 在日フィリピン人出稼ぎ労働者の社会的経済的ストレインとその関連要因に関する研究
標題(洋)
報告番号 112852
報告番号 甲12852
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1222号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 ソムアッツ,ウォンコムトオン
 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 教授 金川,克子
 東京大学 助教授 大嶋,巌
内容要旨 Iはじめに

 1980年代後半より、出稼ぎ目的で来日する外国人(以下「在日外国人労働者」)の数が急増してきている。1995年末現在、合法労働者は約9万人、非合法労働者は約30万人とも言われている。

 国際的な労働力移動は、労働力送り出し国における要因(すなわち人口過剰、高い失業率など)および労働力を受け入れる国における要因(日本の場合であれば人口増加率の減退とその結果生じる人口の高齢化による労働力不足など)が指摘されている。

 日本へ出稼ぎに来る在日外国人労働者をめぐる諸問題については、日本での過酷な労働、生活環境、地域社会への適応困難や葛藤といった問題が報告されてきた。また、そのような問題に関して過度に適応を迫られた在日外国人労働者が、精神不健康をきたしやすいことが指摘されている。

 彼らの抱える困難や葛藤などについて、QOLの観点から把握することは、精神不健康に対する予防的見地から重要であると思われる。先行研究においては、問題の所在として、日本における生活環境に着眼する傾向があった。しかし、労働力移動の構造が送り出し国における要因を含む限り、送り出し国に関する諸問題もまた、在日外国人労働者に影響を与えうるのではないかと思われる。

 本研究は、出稼ぎ目的で来日した在日フィリピン人(以下「在日フィリピン人出稼ぎ労働者」)を対象に、彼らの出稼ぎ生活において認知される社会的経済的な緊張、葛藤、困難(以下「社会的経済的ストレイン」)の構造と、それが精神不健康に与える影響について、明らかにすることを試みた。本研究の目的は以下のようである。

 1.在日フィリピン人出稼ぎ労働者における出稼ぎ特有の社会的経済的ストレインと対処資源の内容について明らかにする。

 2.在日フィリピン人出稼ぎ労働者の属性、社会的経済的特性による社会的経済的ストレインの違いについて明らかにする。

 3.社会的経済的ストレインに対する対処資源の影響のしかたを検討する。

 4.社会的経済的ストレインと精神不健康との関連性を明らかにする。

 5.社会的経済的ストレインの精神不健康への関連性に対する対処資源の影響のしかたを検討する。

II対象と方法

 1.本研究は、第一次調査(質的研究法)、第二次調査(量的研究法)に分けて行われた。

 2.質的研究法としては、問題探索的研究に適しているとされているFocus Group Discussionを行った。そしてその結果から量的調査法の調査枠組みを作成した。

 3.量的研究法としては、自記式無記名の調査票(英語およびタガログ語を併記)を作成し、配票調査を行った。社会的経済的ストレインは、第一次調査で得られた結果に基づいて調査項目を作成した。そして慢性的な困難、葛藤、緊張の度合いを測定する目的で、6段階評価で経験頻度を得点化し4つの関連領域(後述)毎に単純加算を行った。精神不健康はCES-D尺度(Radloff,1977)を用いて測定した。

 4.統計処理には、PC版統計パッケージSPSS6.1Jを用い、主に、ピアソンの積率相関、T検定、一元配置分散分析、重回帰分析、二元配置分析を行った。なお本研究の分析では、0.1%,1%,5%の有意水準を用いた。

 5.本研究の対象者は、関東地方のキリスト教教会の礼拝に出席する在日フィリピン人出稼ぎ労働者である。第一次調査(8ヵ所の教会で実施)は計89名を対象に行った。また、第二次調査(12ヵ所の教会で実施)は、配票調査での有効回答数346人(回収率62.8%)のうち、労働目的で来日したと回答した者計265人を分析の対象とした。

III第一次調査の結果・考察

 1.社会的経済的ストレインは領域別に(1)在日仕事関連ストレイン(職場の日本人に悪い言葉で罵られることなど)(2)在比家族関連ストレイン(家族から過度の経済的期待をかけられることなど)(3)日常生活関連ストレイン(日本人の人間関係がフィリピンとは異なることなど)(4)将来関連ストレイン(いつまで家族と離れていなければならないのか心配なことなど)があった。(1)(3)は国際的な労働力受け入れ国側に関する社会的経済的ストレイン、(2)(4)は送り出し国側に関する社会的経済的ストレインであることが明らかになった。

 2.対処資源は、対処スタイル(感情を押し込める、誰かと話をする、など)、在日支援ネットワーク(情報的、情緒的、道具的支援)、在比家族からの情緒的支援などがあった。

 3.出稼ぎに特有と思われる対処資源については、日本語能力(日本における社会的資源を活用する際に、対処レパートリーを広げることができる個人の能力)などがあった。

 4.対処資源は社会的経済的ストレインと精神不健康との関連を修飾する因子として働くほか、対処資源自体が社会的経済的ストレインに関連することが考えられた。

IV第二次調査の結果1.対象者の属性、社会的経済的特性、対処資源、精神不健康の概要1)対象者の属性(括弧内は%)

 男性183人(69.1)女性80人(30.2)。平均年齢33.8歳(±7.0)。学歴は、大学卒117人(44.2)が最も多かった。滞日期間は平均50.4ヶ月(±31.6)。在比家族の経済的状況は「生活するのに大変困難」24人(9.1),「困難であるが生活していける」158人(59.6),「困難ではない」37人(14.0)であった。

2)社会的経済的特性

 来日動機(複数回答)については、「家族を経済的に支えるために働きに来た」220人(83.0)「日本での生活を経験するために働きに来た」125人(47.2)であった。職種は男性では、建設労働者103人(61.3)工場労働者43人(25.6)エンジニア8人(4.8)、女性は工場労働者47人(66.2)エンターテイナー11人(15.5)自営業4人(5.6)の順で多かった。稼得収入は、月額平均205,000円(±77,048)であった。現在在比家族に定期的に送金している者は203人(76.6)であった。また、定期送金額(月毎)は平均98,106円(±55,504)であった。

3)社会的経済的ストレイン

 領域別社会的経済的ストレインの得点は、在日仕事関連ストレイン(6項目:Cronbachの=0.73)は、レンジ0〜30、平均10.14点(±6.10)であった。在比家族関連ストレイン(5項目:Cronbachの=0.60)はレンジ0〜25、平均11.39点(±5.25)であった。日常生活関連ストレイン(4項目:Cronbachの=0.85)はレンジ0〜20、平均6.82点(±4.82)であった。将来関連ストレイン(3項目:Cronbachの=0.68)はレンジ0〜15、平均7.89点(±4.31)であった。

4)対処資源

 対処スタイル(感情を押し込める)を「時々とる・よくとる・いつもとる」人は186人(70.2)であった。在日支援ネットワーク(情報的支援)がある人は217人(81.9)であった。主観的な日本語能力についてはfair(日常会話ができる)と回答した者が204人(77.0)と最も多かった。

5)精神不健康状態

 CES-D得点はレンジ0〜60、平均18.3点(±9.2)であった。またCronbachのは0.84であった。対象者の属性、社会的経済的特性別にCES-D平均得点を比較したところ、男性18.50点(±8.56)女性18.16点(±10.79)、20歳代以下18.32点(±9.13)、30歳代18.47点(±8.62)、40歳代以上18.41点(±10.81)であった。また、CES-D得点が、カットオフポイント16点以上の者のしめる割合は112人(42.3%)で、15点以下91人(34.3%)を上回っていた。平均値の差の検定の結果、有意な差が見られたのは、月収にしめる定期送金額の割合であり、送金割合50%以上の者(平均20.96点)は50%未満の者(平均16.96点)よりも有意にCES-D得点が高いことが明らかになった。

2.対象者の属性および社会的経済的特性と.領域別社会的経済的ストレインとの関連

 対象者の属性、社会的経済的特性を独立変数、社会的経済的ストレインを従属変数として、4つの関連領域別に重回帰分析を行った。

 1)在比家族の経済的状況がよい者ほど、在比家族関連ストレイン(=-.296,p<0.01)、日常生活関連ストレイン(=-.275,p<0.05)、将来関連ストレイン(=-.224,p<0.05)が有意に低かった。

 2)在日仕事関連ストレインは男性が有意に高かった(=-.365,p<0.01)。また、男性のうち、工場労働・建設労働に従事している者ほど有意に低かった(=-.336,p<0.05)。

 3)在比家族関連ストレインは工場労働・建設労働に従事する者ほど有意に低かった。(=-.218,p<0.05)。

 4)日常生活関連ストレインは滞日期間の長い者ほど有意に低くかった(=-.242,p<0.05)。

 5)将来関連ストレインは学歴が高い者ほど有意に高く(=-.216,p<0.05)、「日本での生活を経験するため来日した」動機がより強い者ほど有意に低かった(=-.247,p<0.05)。

3.領域別社会的経済的ストレインに対する対処資源の影響

 2.において有意な関連の見られた属性および年齢、社会的経済的特性と、対処資源(対処スタイル、日本語能力、在日情報的支援ネットワークなど)を独立変数に、社会的経済的ストレインを従属変数として4つの関連領域別に重回帰分析を行った。

 1)在比家族ストレインおよび将来関連ストレインはどの対処資源とも有意な関連が見られなかった。

 2)在日仕事ストレインは、「感情を押し込める」対処スタイルをとる傾向のより強い者ほど有意に低く(=-.269,p<0.05)、日本語能力の高い者ほど有意に高かった(=.237,p<0.05)。

 3)日常生活ストレインは、「感情を押し込める」対処スタイルをとる傾向のより強い者ほど有意に低く(=-.328,p<0.01)、情報的支援ネットワークがある者ほど有意に低かった(=-.245,p<0.05)。また来日前に家族から経済的支援を受けた者ほど有意に低かった(=-.200,p<0.05)。

 4)在比家族関連ストレインは、他領域の社会的経済的ストレインと比べ、説明力が小さかった。

4.領域別社会的経済的ストレインと精神不健康との関連

 CES-D得点と有意な相関が見られた領域別社会的経済的ストレインは、相関の高い順に在比家族関連ストレイン(r=.365,p<0.001)、将来関連ストレイン(r=.252,p<0.01)、在日仕事関連ストレイン(r=.200,p<0.05)であった。なお日常生活関連ストレイン(r=.118,n.s.)では有意な相関は見られなかった。

5.領域別社会的経済的ストレインの精神不健康への関連性に対する対処資源の影響

 社会的経済的ストレインおよび対処資源の精神不健康への関連性を検討するため、CES-D得点と有意な相関の見られた社会的経済的ストレイン(3領域)と、対処資源(14種類)の全ての組み合わせに関して、社会的経済的ストレインと対処資源を独立変数、CES-D得点を従属変数として、個別に二元配置分散分析を行い、2次の交互作用効果を分析した。その結果、4つの組み合わせで有意な交互作用がみられたが、いずれも外れ値の影響を受けており、解釈が困難であった。

V全体考察

 1.本研究の成果は、在日フィリピン人出稼ぎ労働者の社会的経済的ストレインには、在日仕事関連ストレイン、日常生活関連ストレインという受け入れ国側に関する社会的経済的ストレインのみならず、在比家族関連ストレイン、将来関連ストレインという送り出し国側に関する社会的経済的ストレインがあることを明らかにしたことである。また、送り出し国側に関する社会的経済的ストレインにおいて、精神不健康との相関がより高いことを示したことである。従来、「異文化ストレス」「海外不適応」などの定義により、日常生活において触れる異文化という文脈における外国人の精神不健康が多く研究されてきたことを考えると、本研究の結果は新たな視点の重要性を示唆することになる。

 2.第一次調査において、日本語能力は、対処資源として、社会的経済的ストレインと精神不健康との関連性を緩和する因子として働くことが考えられた。第二次調査において、日本語能力の緩和因子としての働きは明らかにできなかったが、日本語能力の高さは、在日仕事関連ストレインの強さと正の関連があることを明らかにした。このことは、言語能力が高いことが移住先での生活適応を促進させる方向に働く(Aroian,1990)という先行研究の結果が、在日フィリピン人出稼ぎ労働者に対しては必ずしもあてはまらないことを示唆したものと思われる。

 3.本研究の限界としては、対象者を教会の礼拝出席者に限定せざるを得なかったこと、調査実施上の制約があり合法労働者と非合法労働者の統計的な比較ができなかったことなどがある。また、社会的経済的ストレインは出身国によって異なることが考えられるため、本研究のモデルを在日フィリピン人労働者以外に当てはめる時にはさらなる改良が必要となろう。

 4.このように対象者の出身国毎にモデルを改良することは不可欠であるが、その作業を繰り返すことによって、在日外国人労働者に普遍的なモデルを作成することは、急速に国際化が進みつつある日本において、重要な課題であると思われる。

審査要旨

 本研究は、今日急激な増加をみている、在日フィリピン人出稼ぎ労働者の社会的経済的緊張、葛藤、困難を、社会的経済的ストレインと定義づけ、その構造とそれが精神不健康に与える影響を明らかにするため、関東地方に在住する、合法労働者・非合法労働者に対して質的および量的調査・分析を行ったものである。本研究では下記の結果を得ている。

 1.在日フィリピン人出稼ぎ労働者の社会的経済的ストレインには、在日仕事関連ストレイン(職場の日本人に悪い言葉で罵られることなど)、日常生活関連ストレイン(日本人の人間関係がフィリピンとは異なることなど)という国際労働力受け入れ側に関する社会的経済的ストレインのみならず、在比家族関連ストレイン(家族から過度の経済的期待をかけられることなど)、将来関連ストレイン(いつまで家族と離れていなければならないのか心配なことなど)という送り出し国側に関する社会的経済的ストレインもあることが示された。

 2.在比家族関連ストレインは、その他の社会的経済的ストレインとは関連する要因の構造が異なることが示された。

 3.本研究の対象者のCES-D得点の平均は18.3点であり、やや高い傾向がみられたことが示された。

 4.CES-D得点と対象者の社会的経済的特性との関連においては、月収にしめる定期送金額の割合が50%を越すと回答した者で有意にCES-D得点が高いことが示された。

 5.CES-D得点と領域別社会的経済的ストレインとの相関については、在比家族関連ストレイン、将来関連ストレイン、在日仕事関連ストレインの順で相関が高く、日常生活関連ストレインでは有意な相関が見られないことが示された。

 以上、本論文はこれまで未知の分野であった、在日フィリピン人出稼ぎ労働者の社会的経済的ストレインの構造、およびそれが精神不健康に与える影響を明らかにした。本研究は、在日フィリピン人出稼ぎ労働者の精神不健康に関わる要因として、従来指摘されてきた日本における仕事や地域社会との摩擦、適応困難のみならず、新たに、母国の家族との葛藤にも着眼したこと、また前者に比べ、後者において抑うつ尺度得点との相関が高値であったことを指摘した。また、研究方法として、質的研究法および量的研究法を統合させた点が評価された。従って、本研究は在日外国人労働者研究の新しい視点からの貴重な結果を提出し、彼らの精神不健康、QOLの研究に貢献をなし、学位の授与に値するものと考えられる。

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