学位論文要旨



No 112853
著者(漢字) 一戸,真子
著者(英字)
著者(カナ) イチノヘ,シンコ
標題(和) 検査後から治療法の選択までの一連の診療過程における患者の意思決定に関する研究 : がん診療における住民の意思決定に関する調査を中心に
標題(洋)
報告番号 112853
報告番号 甲12853
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1223号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,通代
 東京大学 教授 武藤,徹一郎
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 助教授 甲斐,一郎
 東京大学 助教授 菅田,勝也
内容要旨 I、はじめに

 Christineらは、「現代は、医師-患者関係の変革期であり、『患者中心の医療』の実現は、医療の各領域において、患者の要求、ニーズ、嗜好などに対応することにより可能となり、『情報』と『意思決定』を、医師と患者とが分けあうことにより、患者の真の意味での医療への参加が可能となった」と分析している。日本においても、 「患者中心の医療の実現は重要である」との理論は多く論じられているが、医師と患者が『情報』と『意思決定』の共有を行うことにより、患者中心の医療の実現が可能となったといった報告は少ない。

 ここで取り上げる患者の「意思ないし意思の決定」とは、診療場面における医師の診断や説明に対する患者の意思のことである。近年、アメリカでは「患者の自己決定による医療」 という考え方が、特に70年代頃からひときわ強まり、「患者の自己決定法」という法律が制定されるまでになった。しかし、患者の自己決定という考え方が法律家や生命倫理学者、さらには一部の患者団体または医師の間で、このように強くなってきた反面、医療のありかたとして「患者の自己決定」という理念の偏重に対する批判が生じ、最近では、そのことを示す実証的な調査結果もアメリカでは出されている。自らの身体に関する医療上の決定に患者の意思を反映させようという意味での「自己決定」の考え方は尊重されるべきではあるが、「自己決定」という用語は非限定的であるため、医療上の判断についてまで患者自身の決定に任せるべきだ、という極端な考え方を招きかねない。このように「患者の自己決定」の理念自体究明の余地があり、その研究は緒についたばかりであるため、患者の意思決定傾向を把握する調査内容や方法もまだ未熟な段階にあり、本格的研究が待たれている状況である。以上のような状況をふまえて、人々が、診療の過程において、経験上、あるいは観念的に、どのような場面においてどのような意思決定のしかたを望んでいるかを把握しようとするのが本調査研究の動機である。

 そこで以下の点に留意して意思決定に関する調査にあたった。

 1.一定の条件を設定して人々の意思決定傾向を捉えるために、医学的判断と患者のQOLの問題が競合し、かつ調査対象者にとつて問題の意味するところを理解しやすい状況として設定するのに適していると思われる「がん診療」にした。

 2.医師-患者関係における患者の意思決定場面を、(1)検査・検診後の確定診断までの対処方法について、(2)告知について、(3)治療法に関する情報の開示について、(4)治療方法の選択についてといった一連の診療過程における各段階を設定した。

 3.住民の自己決定に影響を与える要因を、属性、性格、医師像、医療観、医療経験などを含む項目とした。

 4.現に疾病にかかって診療中の患者のみを対象とすると、担当の医師との関係から、回答に際し、意識ないし心理の面におけるバイアスがかかる懸念があるので、調査時点において患者である者もない者も含めて、一般住民を調査対象者とした。

II、研究目的

 本調査研究の目的は以下の4点である。

 1.医師-患者関係に関する住民の意識と行動を明らかにする。

 2.がん診療における住民の意思決定の特徴を明らかにし、さらにその傾向は「自己決定」傾向か、「医師に委ねる」傾向かを明らかにする。

 3.がん診療における住民の意思決定傾向は、(1)検査・検診後の確定診断までの対処方法、(2)告知、(3)治療法に関する情報の開示、(4)治療方法の選択の各段階によってどのような差があるかを明らかにする。

 4.がん診療における住民の自己決定願望傾向に影響する要因を明らかにする。

III、対象と方法

 調査の対象と方法は以下に述べる通りである。

 1.調査対象者:満20歳以上79歳未満の成人男女とした。

 2.調査地域:都市部とし、人口の極端に多い八王子市を除き、人口10万以上の東京都下の全市より無作為に抽出した三鷹市と国分寺市を調査対象地域とした。

 3.サンプル数:1、000人(三鷹市500人、国分寺市500人)

 4.調査方法:質問紙を使用した郵送調査

 5.調査実施時期:三鷹市、国分寺市の両市とも平成8年6月24日〜7月29日までに調査を実施した。

 6.サンプリング方法:平成8年2月時点での三鷹市、国分寺市の選挙人名簿を使用し、二段無作為抽出により行った。

 7.分析方法:医師-患者関係に関する意識と行動、およびがん診療における意思決定の特徴の把握には単純集計を行い、属性を含む各項目に対し地域差の検定(量的変数にはt検定、離散変数には2検定)を行った。

 意思決定傾向の段階の分類は、主因子分析(バリマックス回転)により確認し、各段階ごとに意思決定傾向を点数化し平均値の比較を行った。自己決定願望傾向に影響を及ぼしている要因の分析には、各段階の意思決定傾向を従属変数とし(各項目ごとに自己決定-1点、医師に委ねる一0点を与える)、積極的コミュニケーション経験などの各変数を独立変数として、重回帰分析を一括投入方式により行った。なお、自己決定願望傾向要因として「性別」、「年齢」、「学歴」、「健康状態」などの属性の他に、「診療における積極的なコミュニケーション経験の有無」、「一般的な医師像」、「医師の属性による信頼感」、「マルチディメンジョナル・ヘルス・ローカス・オブ・コントロール(MLOC)」、「がんの告知をうけた場合の自己像」、「誤診経験」や「信頼できる医師の有無」、「自分や身近な人のがん経験の有無」を因子として使用した。各因子は信頼性係数(Cronbachの係数)を求め内的整合性を検討した上で投入した。独立変数間の共通性の検定には相関分析を行った(ピアソンの積率相関係数)。

 有意水準は0.1%、1%、5%を使用した。

 データの解析には、統計ソフトSPSS-6.1を使用した。

IV、結果

 有効回答数は506名(50.6%)で、地域別には、三鷹市が251名(50.2%)、国分寺市が255名(51.0%)である。

 1.医師-患者関係に関する住民の意識と行動については、「診療における患者の積極的なコミュニケーション経験」は17点満点中平均が5.1±3.4点で少なく、あまり積極的でない傾向が見られた。「医師の好意的イメージ」は40点満点中平均が21.3±3.9点でほぼ中位であった。「医師の性別や所属する病院など医師自身の属性による信頼感の差」は8点満点中3.9±2.0点で、属性による違いはそれほど感じていなかった。26.9%が医師に誤診された経験ありで、50.3%が信頼できる特定の医師をもっており、「自分自身ががん告知を受けた場合の自己像」では、81.6%が立ち直れるタイプで、残る18.4%は絶望感タイプという結果となった。調査対象者の6.6%ががん経験者で、身近にがん経験者のいる割合が72.1%であった。なお、各項目に地域差は見られなかった。

 2.住民の意思決定傾向の自己決定(自分で決める)は、まず「検査・検診後の確定診断までの対処方法」については、「自覚症状なし」の設定が39.7%で、「自覚症状あり」の設定の33.4%よりも強い。「告知を受けるか否か」については、自己決定が8割で、早期、転移、末期がんでは、早期ほど医師の判断に委ねるものは少ない。また、自己決定内容としては、告知希望は末期に近づくほど低くなっている(「告知してほしい」が早期がんで80.7%、転移しているがんで69.7%、末期がんで69.5%)。「治療法の危険性に関する情報の開示」については、「手術の危険性」については9割が自己決定を希望し、開示希望が多かった。「抗がん剤治療」についてもほぼ同様の結果が得られた。「再発情報」や「余命情報」になると「開示を望まない」割合が増えている。「治療方法の選択」では、「手術対内視鏡治療」では36.7%、「手術対放射線治療」では36.3%とほぼ同程度が「医師の判断に委ねる」としているが、「末期における抗がん剤の使用」については25.8%、「末期における臨床試験の実施」については29.7%と、医師に委ねる割合が低くなっている。

 3.意思決定の各段階ごとの自己決定傾向の平均は、「告知」では3点満点中2.7±0.8点、「治療法に関する情報の開示」については6点満点中5.4±1.5点で高かった。これに対し「治療方法の選択」についてでは、他の段階に比べ6点満点中3.9±2.3点とやや低い結果となった。

 4.自己決定願望傾向に対する影響要因分析結果は、各段階とも「年齢」が有意に強く関連しており、年齢が低いほど自己決定願望傾向が高い。「一般的な医師像」もすべての段階において有意に高く、一般的な医師イメージの悪い人ほど自己決定願望傾向が強い。

 各段階ごとでは、まず「検査・検診後の確定診断までの対処方法」では「年齢」や「医師イメージ」の他に、「積極的なコミュニケーションを行っている人」ほど、「女性」ほど、「学歴の高い人」ほど、「健康状態のよい人」ほど自己決定願望傾向が高い。「告知」では、「自分自身ががん告知を受けた場合の自己像が立ち直れるタイプ」ほど自己決定願望傾向を示した。「治療法に関する情報の開示」では、他に有意に高い因子はなかった。「治療方法の選択」では他に、「積極的なコミュニケーションを行っている人」ほど、「自分自身ががん告知を受けた場合の自己像が立ち直れるタイプ」ほど、「MLOCの他者依存性向のより小さい人」ほど自己決定願望傾向を示した。

V、考察と結論

 上記の分析結果に基づく考察と結論は、以下の4点にまとめることができる。

 1.がん診療における住民の意思決定は一様ではなく、上記の各段階で異なる特徴を示していること。

 すなわち第一に、告知や治療法に関する情報の開示についての自己決定願望傾向が高いことは、これらについて住民が開示してほしいか否かという意思をはっきりもっていることが見てとれる。ただし、全体的には告知・開示を希望しているが、より深刻な情報については開示希望の割合が低下していることに注意する必要がある。第二点に、すべての段階のうち最も専門の医学的判断が必要とされる場面である「治療方法の選択」についての意思決定では、他の段階に比べより医師に決定を委ねたいと望んでいる割合が高いということが注目される。

 2.住民の意思決定は、診療の各段階ごとでも医療情報の程度、選択的治療方法の種類別により傾向が異なること。

 診療の段階ごとの意思決定傾向に差があることは述べたが、さらにその各段階の設定されている場面により意思決定傾向が変化していることに注目しなければならない。住民は、いずれの診療段階においてもその程度を軽いと認識する場合は自己決定を望む傾向が強いが、医学的判断ないし結果の判断が難しい場面になるほど(転移しているがんの告知、再発予防のための抗がん剤の使用についてなど)、医師に判断を委ねたいと思う傾向が見られる。他方、がんが悪化し末期の状態になるほど、住民は自己決定を選択する傾向がある(末期がんでの抗がん剤の使用、末期がんでの臨床試験実施について)。

 3.がん診療における住民の自己決定願望傾向には、各段階とも「年齢」要因が強く影響しており、また「一般的医師像」も各段階に影響を及ぼす因子となっている。

 すなわち、「若い年齢」ほど自己決定傾向が強く、「医師イメージの悪い人」ほど自己決定傾向が高いという傾向は、年齢層ごとの対応が医療供給側には必要であり、医師-患者間の人間関係の信頼形成が医療においては重要であることを示唆している。

 4.がん診療における住民の自己決定願望傾向に影響を与える要因には、共通要因以外では、各段階ごとに影響要因が異なっていること。

 まず、「検査・検診後の確定診断」では、「年齢」、「性別」、「学歴」、「健康状態」といった属性が自己決定傾向に影響している。「告知」では、「がん告知を受けた場合に立ち直れるタイプ」の者ほど自己決定が強いことが示唆された。「他者依存性」は、「治療方法の選択」についてのみ影響している。

審査要旨

 本研究は、診療の場において患者の意思の尊重や参加が重要視されている現況において、患者の意思決定傾向を明らかにするため、検査後から治療法の選択までの一連の診療過程における意思決定の各段階において、がん診療を設定した住民調査を実施し、さらに患者の自己決定願望傾向に影響する要因の分析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.がん診療における住民の意思決定願望傾向は一様ではなく、「検診・検査後の確定診断までの対処方法」、「告知」、「治療法に関する情報の開示」、「治療方法の選択」の各段階で異なる特徴をもつことが示された。

 2.各段階のうち、「告知」や「治療法に関する情報の開示」については、自己決定願望傾向が高いことが示された。情報内容の深刻さに比例して自己決定願望の割合が減少することが明らかにされた。

 3.各段階のうち、最も専門的な判断が必要とされる「治療方法の選択」についての意思決定では、他の段階にくらべ医師に決定を委ねることを希望する傾向が認められた。

 4.がん診療における住民の自己決定願望傾向には、各段階とも「年齢」要因が強く影響しており、「一般的な医師像」も各段階に影響を及ぼす因子であり、「年齢の若い人」ほど自己決定願望傾向が強く、「医師イメージの悪い人」ほど自己決定願望傾向が高いことが示された。

 5.がん診療における住民の自己決定願望傾向に影響を与える要因には、共通要因以外では、各段階ごとに影響要因が異なっており、「検査・検診後の確定診断までの対処方法」では、「学歴」、「健康状態」といった属性が自己決定願望傾向に影響しており、「告知」では、「自分自身ががん告知を受けた場合の自己像が立ち直れるタイプ」ほど自己決定が強いことが示された。「治療法に関する情報の開示」では、他に有意に高い因子は認められなかった。「治療方法の選択」については、「医師に対し積極的なコミュニケーションを行っている人」ほど、「自分自身ががん告知を受けた場合の自己像が立ち直れるタイプ」ほど「マルチディメンジョナル・ヘルス・ローカス・オブ・コントロール(MLOC)の他者依存性向のより小さい人」ほど自己決定願望傾向であることが示された。

 以上、本論文は患者の意思決定について、各診療段階ごとの傾向を明らかにし、さらに各段階ごとに意思決定願望傾向に影響する要因を明らかにした。本研究はこれまで把握が困難とされていた患者の意思決定傾向を示し、今後の診療場面における患者の意思決定参加のあり方、医師-患者関係のあり方の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54593