学位論文要旨



No 112862
著者(漢字) 洪,承哲
著者(英字)
著者(カナ) ホン,スンチョル
標題(和) 50Hz電磁場への夜間の繰返し暴露のメラトニン産生・概日リズムへの影響
標題(洋) Effects of repeated nighttime exposures to 50 Hz electromagnetic fields on the melatonin production and circadian rhythm
報告番号 112862
報告番号 甲12862
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1232号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 助教授 川久保,清
 東京大学 助教授 真鍋,重夫
 東京大学 助教授 福岡,秀興
 東京大学 講師 奥,恒行
内容要旨 I.緒言

 近年、日常生活における電気製品の利用機会の急増に伴ない電磁場への暴露も増加し、様々な電磁場の人体影響に対する関心が高まってきた。1970年代以来の疫学研究では、高い水準の電磁場の暴露が予想される集団と職業的な電磁場暴露を受ける電気関連業の従事者において、白血病、脳腫瘍、乳がん等の発生率が有意に高いとする報告が多くなされてきた。しかし、その生理学的なメカニズムは十分には明らかにされていない。メラトニンは松果体から産生される主要なホルモンであり、明暗クサイクルに対応した産生リズムを持つことが分かっている。乳がん細胞の増殖がメラトニンによる抑制を受けている可能性を示唆する報告もある。さらに、乳がんの発生との関係についてメラトニンの産生抑制がHormone-dependent tissuesがんのリスクを高めることも報告されている。最近の動物実験や様々な実験研究によると、メラトニンを産生する脳下垂体の機能が電磁場の暴露によって低下するという仮説が提唱されてきた。特に、50Hzと60Hzの「商業周波数」から出る電磁場による松果体メラトニンの産生減少が報告され、日常生活を送る人々に対しその影響へ関心が高まっている。

 しかしながら、電磁場の健康影響に関する研究はほとんどが実験室で行われたもので、日常生活を送る人間を対象とする研究はなされていないのが現状である。本研究の目的は、日常生活で受ける50Hzの電磁場の人体影響について、夜間に身体と密着し長時間使用される電気毛布への繰返し暴露による、メラトニンの産生とその概日リズムへの影響を実験的な方法で解明し、以下の2点を明らかにすることを目的とした。すなわち、

 1) 電気毛布の夜間使用による電磁場の暴露により、尿中のメラトニン排泄量及びその排泄パタンが、どのような影響をうけるかをメラトニンのリズム解析方法により解明すること、

 2) Wilson(1990)らの先行研究で明らかになった、電気毛布からの電磁場暴露による夜間尿中の6-hydroxy melatonin sulfate(6-OHMS)の排泄量の減少が再現されるか、である。

II.対象と方法

 本研究では、健康な男性9名(8名が東京大学大学院生、1名が国立環境機関研究者)を対象とした。対象者の平均年齢は28才、BMIの平均値は22.7kg/m2であった。なお、本研究の実施においては対象者に十分な説明を行い、同意を得た。

 実験は、5人を対象集団1、4人を対象集団2として2つの集団に分けて対象者本人の自宅で行った。2つの集団の実験条件は同じであったが、実験の実施期間は違った。実験期間の構成は、比較的長期の暴露実験を行うため、暴露前期間として3週間、暴露期間1と2で計11週間、そして暴露後の期間として2週間、合計して連続16週間行った。対象者の尿の採取は暴露前と暴露後の期間中は毎週2日間、1日に5回(就寝前、就寝3時間後、起床時、昼間12時、午後6時)行い、暴露期間中は隔週に2日間、1日に5回行った。

 採取した尿は直ちに冷凍し、分析時にずいじ解凍して用いた。尿中のメラトニンはBulhmann社(スイス)のRIA Kitを用いRadioimmunoassayで分析し、クレアチン当たりの濃度で示した。採取した尿は全部で943検体であったが記録(対象者による採尿時刻など)の不備等で914検体を分析に用いた。電気毛布の電磁場の測定はアメリカのEPRI社のEMDEXIIを用い、50Hzの電磁場を測定した。

 メラトニンは24時間の周期を持つことが明らかにされているので、尿中のメラトニンのリズムの解析には、24時間と12時間周期のcomplex cosine curveにあてはめる方法で各実験期間別のメラトニンのリズムを明らかにし、そのpeak heightとpeak timeを観察した。

III.結果

 本研究の主なる結果は以下の5点である。

 1.9人の対象者中8人では、complex cosine curveにあてはまるメラトニンのリズムがみられた。ただし、メラトニンの産生量とリズムには、個人差が非常に大きかった。

 2.対象集団1あるいは2の全員に対する分散分析の結果では、電気毛布による電磁場暴露のメラトニン尿中排泄リズムに対する影響は確認できなかった。

 3.個人別に分析した結果では、リズム解析が出来た8人中7人に、暴露期間中における尿中メラトニンのピーク値が低下する傾向が見られた。同時にその内4人には、尿中メラトニンのピークタイムの遅れが見られた。

 4.対象集団1と2の間での季節によるphotoperiodへの影響は見られなかった。

 5.加齢に伴いメラトニンの産生量が低下し排泄量が減少するとの先行研究があるが、本研究では対象者ではそのような傾向は見られなかった。

IV.考察

 本研究の結果に基づき、電磁場の暴露によるメラトニン産生の変化、他の因子によるメラトニン産生への影響、今後の関連研究への提案、に分けて考察する。

A.電磁場の暴露によるメラトニン産生の変化

 1.24時間中5ポイントの尿サンプルによるcosine curveにあてはめる方法の信頼性の検討は、以下のように行った。1時間間隔で採取した24の血液サンプルのメラトニン濃度から、今回の採尿時間に最も合致する近い時間帯のものを5個選び、cosine curveにあてはめて解析した。その結果、非常に高い適合度を示し、今回の分析に用いることが適当であると考えられた。

 2.メラトニン代謝の大きな個人差に対する先行研究では、個人間の身体条件、食事習慣、昼間の電磁場暴露などの違いが、主なる因子として報告されている。しかし今回の対象者には、これらの因子に有意な個人差は見られなかったにもかかわらず、メラトニン尿中排泄パタンに大きな個人差が見られた。その原因は、電磁場暴露に対する感受性の個人差とメラトニン合成能力の個人差ではないかと考えられた。

 3.Wilson(1990)らの先行研究では、DCとAC電源の改造電気毛布を用いた実験結果ではメラトニンの尿中排泄パタンに有意な変化が観察されているが、市販電気毛布からの電磁場暴露ではメラトニン尿中排泄パタンに影響を及ぼしていない。これに対して、本研究では全対象者についてはその影響が確認できなかったものの、7人の対象者でメラトニン尿中排泄パタンに変化が見られた。このことは、今回の電気毛布がWilsonらの市販電気毛布より電磁場暴露レベルが3〜15倍高かったことが原因であるのではないがと考えられた。

 4.今回の結果では、Wilson(1990)らの先行研究の結果と異なり、暴露後のメラトニン産生能力の有意な回復が見られなかったが、その原因は比較的長い暴露期間による個人の回復能力の差と心理的なストレスと考えられた。

B.他の因子によるメラトニン産生への影響

 1.メラトニン産生への季節、すなわち日照時間による影響が報告されているが、違う季節に採尿を行った対象集団1の5人のデータから、日照時間の影響は顕著でないと考えられた。

 2.Light at night(LAN)の夜間メラトニン産生の抑制作用については、本研究対象者の生活パタンの分析結果からもその作用が大きいと考えられた。

C.今後の関連研究への提案

 1.本研究で目的とした日常生活を送る集団への電磁場の影響をさらに厳密な枠組みで解明するには、特に(1)対象者がストレスを感じない程度で就寝時間を一定にすること、(2)暴露後回復までの時間における個人差を考慮し、暴露後時間を長くすること、(3)正確なpeak timeの評価のため、採尿頻度と尿サンプルの数を増加させること、(4)同一の対象者に夏と冬に実験を行うこと、(5)様々な電磁場暴露パタンの状況設定を含むこと、(6)対象者の数を増やすことと女性を対象者に加えることが考えられた。

 2.電磁場暴露による夜間のメラトニン産生への影響の系統的な評価のために、昼間における職業性の電磁場暴露レベルの高い集団、非職業性であっても暴露レベルが高いと予測される集団を対象とした比較研究も必要となろう。

審査要旨

 本研究は、メラトニンを産生する脳下垂体の機能が電磁場の暴露によって低下するという仮説を検討したものである。9人の健康な男性を対象とし、電気毛布を用いて夜間睡眠中50Hzの電磁場に連続11週間の曝露を行い、曝露前、曝露中、曝露後のそれぞれの実験期間ごとにメラトニンの産生とその概日リズムを分析したものである。採尿は暴露前と暴露後の期間中は毎週2日間、暴露期間中は隔週に2日間、1日に5回行っている。メラトニンはradioimmunoassayで分析し、尿中排泄量はクレアチン当たりの濃度として表している。データの解析では、24時間と12時間周期のcomplex cosine curveへのあてはめを行い、各実験期間別のメラトニン産生のリズムから、そのpeak heightとpeak timeを求めた。得された結果は下記の通りである。

 1.9人の対象者中8人でメラトニンの概日リズムがみられたが、メラトニンの産生量とリズムには、大きな個人差がみられた。メラトニン代謝の個人差の主な因子としては、身体条件、食事習慣、昼間の電磁場暴露などが知られているが、本研究の対象者には、これらの因子に有意な個人差は見られなかった。したがって、メラトニン排泄パタンに大きな個人差が見られた原因は、電磁場暴露に対する感受性の個人差とメラトニン合成能力の違いであると考えられる。

 2.対象集団1あるいは2の全員に対する分散分析の結果では、電気毛布による電磁場暴露のメラトニン排泄リズムに対する影響は認められなかった。このように、全対象者については、その影響が確認できなかったものの、7人の対象者でメラトニン排泄パタンに変化が見られた。この原因は、今回の電気毛布がWilsonらの市販電気毛布より電磁場暴露レベルが3〜15倍高かったことであると考えられた。

 3.個人別に分析した結果では、リズム解析が出来た8人中7人に、暴露期間中における尿中メラトニンのピーク値が低下する傾向が見られた。同時にその内4人には、尿中メラトニンのピークタイムの遅れがみられた。すなわち、感受性が高い個人の場合、十分な暴露状況であれば、メラトニンの分泌リズムが変化する可能性を否定できないと考えられた。

 4.メラトニン産生への日照時間の影響を把握するために、違う季節に採尿を行った結果、日照時間の影響は顕著でないと考えられた。同時に、対象集団1と2の間での季節によるphotoperiodへの影響はなかったことが示された。

 5.加齢に伴うメラトニン産生量の低下傾向は見られなかった。

 6.Wilson(1990)らの先行研究の結果と異なり、暴露後のメラトニン産生能力には有意な回復は見られなかったが、その原因は比較的長い暴露期間による個人の回復能力の差と心理的なストレスと考えられた。

 本研究では夜間睡眠中電気毛布への繰返し50Hz電磁場暴露によるメラトニンの産生とその概日リズムへの影響に対し、全対象者についてはその影響が確認できなかった。しかしながら、7人の対象者でメラトニン排泄パタンに変化が見られたことから、感受性が高い個人の場合、メラトニンの分泌の変化がある可能性を否定することはできないということが示唆された。電磁場の健康影響に関する先行研究が実験室で行われたものに限られている現状において、日常生活を送るヒトを対象とする本研究はデザインそのものに重要な意味をもっており、しかも、50Hz電磁場曝露のメラトニン産生への影響の可能性について基礎的な知見を付与したものである。したがって、電磁場とメラトニンとの関係の解明に貴重な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと認定する。

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